鏡の中に還暦過ぎのをんなゐて「だからなあに」と顔寄せてくる
高潔な野獣になりたき夕まぐれ間欠泉のごとく母音が 二首「現し身」より
徳高博子さんには二度ほどじかにお目にかかったことがある。最初は第二歌集『ローリエの樹下で』の作品批評会。その次は玲瓏の新年歌会で。
全体にふっくらとした、物腰のやわらかな女性とお見受けしたが、この方の第一印象は、私にとって視覚ではなく、電話でお話したときの澄んだ若々しい声だった。それは少女めいたほそい声ではなく、十分に成熟した知的で陽気な声だった。彼女が声楽を学び、ソプラノ歌手であったと知ったのはずっと後のことだが、ベル・カントでうたう歌手の地声が美しいとはかぎらない。歌声とふだんの声とはまったく異なる歌手も多いはずだ。
『ヴォカリーズ』から私が聞き取ったものをすこしまとめさせていただこうと思う。最初に上げた二首は、連なって歌われたのだろうか。私はこの歌を『未来」で拝見し、凄みのある肉声、と眺めた記憶がある。
「だからなあに」、とは無造作に、投げ出されたような声だ。女性が還暦過ぎの我が身を自覚するときに、だからなあに、とみずからに問い詰めてくる顔は、どんな表情をしているのだろうか、と私は少し考え、こわくなったのでそれ以上想像しなかった。そして、歌集では、この歌に続いて「高潔な野獣になりたき」とスタティックとバイオレンスが交錯する母音の響きが続く。この声が穏やかであろうはずもない。だが、それもまたラフマニノフの「ヴォカリーズ」の調べに乗せて歌うなら、哀切に美しいかもしれない。
ボードレールの夕陽は眼球。 無口なるふたりの餐を窓から見つむ 「レゾン・デートル」
ターコイズ首に飾りて涼む宵 過去世より来よわが想い人 「ヴォカリーズ」
波が、空が、おらぶ声ちぎれ飛び交ふ。 みな活きてゐたはずの此の岸 「あぢさゐの季」
まみゆれば言の葉いらぬ我らなり水と光のやうに響かふ 「銀杯」
太陽の季節過ぎにき太陽の塔滅びたり然(さ)れば月こそ
わが胸に雪時計ありしんしんと冥きしじまにゆきふりつづく 二首「天空」
炎天下砂遊びせる若者の眼は泳ぎつつ埋もれてゆけり 「社会」
虹のごとこころの裡に視ゆるもの神とこそ想へ愛とも謂はめ 「虹」
歌集の中から好きな歌を選ばせていただいた。
潤沢な環境、教養と詩心にめぐまれ、我が身の移り行きを鋭く自覚し、さりながら、その現し身の枠よりなほあふれ出る希求を、物憂げに、冷静に、ときにいくらかのふぉりあをも湛えて詠じておられる女人が見える。
野性を帯びた母音のつらなりを、凛然とした詠唱に高めるために、徳高さんはこれからどのような人生の旅をなさるのか。きっと、次の歌集、またその次の集で旅の素描を真摯に表現されるだろう。
徳高さんのまなざしに適ったひとつの画像を最後に引く。
この映像は密室で自身にすりよる鏡像ではなく、「不自由な肢体」をものともせず、空と大地に向かって決然とひとり這ってゆく障がい者クリスティーナだ。『ヴォカリーズ』の終わりに近いほうにある。徳高さんの次の旅への予兆と眺めたいけれど、芳醇な彼女の世界は私などには測れない。
限られし世界の中で自らに由り生きぬきしクリスティーナよ 「ワイエスの世界」