プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

●解散・総選挙に思う

2005-08-09 10:21:25 | 日記・エッセイ・コラム
 8月8日、予想通り、衆議院が解散された。今日のマスコミ各紙には、「郵政解散」「誤算解散」「八つあたり解散」等々の文字が躍る。衆議院で可決し、参議院で否決されたから衆議院を解散するという分かりにくいネジレに対する評価をどうするか。解散の裏舞台をレポートする特番も興味深い。だが、郵政民営化法案に時間をとられ、61もの法案が審議出来ずに廃案になったことへの責任は?なかには少年犯罪法や政治資金見直し法案のように、喫緊の課題も含まれていた筈だが、この行方はどうなるのだろうか。

 4年間、郵政民営化を公約に総選挙や総裁選を戦って来た小泉首相にとっては、納得いかない結果だったに違いない。公約だったというのはその通りだが、国債発行額を30兆円以下に抑えるというのも公約だった筈だし、天下り先を減らすのも、、、、。「否決は小泉内閣への不信任だ」と言う気持ちも、或る程度理解出来る。しかし、内閣総辞職ではなく解散総選挙に打って出たのは??

 郵政民営化の賛否を、直接国民に問いたいというには、余りにも違和感がある。消費税や税制、憲法改正、年金一元化等々、国民の生活にストレートに影響する問題であれば、国民総意を問うことがあってしかるべきだろう。だが、360兆円の国民的資産を民間流通機関へ流すことが、日本経済の将来にとって如何に大切かを国民が本当に実感出来るだろうか。不良債権処理に貴重な国民の血税を投入してメガバンクを救済したように、一部の企業に利益を誘導することになりはしないのだろうか?ましてや、聡明な国会議員の先生方が、国家的財政危機を救済するために、断行すべき政策だと理解出来ない筈がない。

 反面、国民一人一人が今度の選挙を契機に、自分達の生活と政治の関わり方を考える良い機会だともいえる。バブルがはじけて、経済は縮小均衡状態になったが、膨張した個人生活の精神文化は、依然バブル期と変わっていない気がしてならないのだ。我々自身、身の丈に合った生活や価値観を謙虚に見つめ直し、日本という国がどう歩んでいけば良いのか、また、それを実現してくれる政党はどこなのかを真剣に考えたいものだ。9・11選挙の投票率が、高率になることを願っている。


●構造改革の視点・原点

2005-08-08 10:53:22 | 日記・エッセイ・コラム
 分別ゴミの収集日。早朝4時過ぎに容器別回収箱設置に指定場所に行ってみて驚いた。ゴミを詰めたポリ袋が既に沢山並んでいるのだ。禁止を承知で、昨夜のうちに出したものらしい。空き缶やペットボトル、不燃ごみや生ゴミが一つの袋に詰まっているものもある。

 金沢市のゴミの捨て方は、かなり面倒で厳しい制約がある。ゴミの種類別に回収日が異なるので、分別供出が基本で、捨てる際に決められたルールで出す必要がある。ポリ容器はラベルを外しつぶして捨てるとか、キャップは外すなど、細かい決め事があるのだ。「どうしてここまで手間をかける必要があるのか?」と思いつつ、ゴミ回収コストの低減につながるのなら、住民の最低限度の義務だろうと止むを得まいと納得していたが、いざ、世話をする立場になると、ルール無視のマナーには、いささか閉口する。

 回収側は、違反ゴミは回収せず置き去りにしていくので、残ったゴミを分別し次回の回収日まで保管しておくしかない。住民が3人づつ、交替制で世話を担当してくれるが、回収後の後処理は我が家の役回り。うだるような昼下がり、残されたゴミ袋の中を覗き込んで、悪臭と闘いながら後始末に追われた。夫婦で愚痴を言いながらの作業は、不思議な共感を持つものだと自嘲気味になった。

 今日は、郵政法案の参議院採決日。宇宙飛行士野口さんが帰還する日でもある。高校野球だってやっている。次元が異なるさまざまな事象が寸断することなく動いている。それが世の中だ。国民誰もが毎日の生活を快適で安心して遅れるような社会の仕組みを構築することが全てである。「民に出来ることは民に」というのは、論外だ。民に出来ないものは何一つ無い。「民に任せるべきかどうか」の判断基準が問われるだけのことだ。

 地域のルールさえ守れない一部の不心得者が、社会生活において立派な事業を達成出来るとはとても思えない。構造改革とは、地べたに這いつくばって生きている者の視点から積み上げたビジョン抜きで達成出来るものだろうか。などと、暑さで思考力がおぼつか無いなりに思索していたら、「せっせと手を動かして!」と女房の檄が飛んだ。
 「ちょっと待って これで良いのか 分別法」
 「私じゃない じゃ誰なのさ 無分別」


●近所の底力

2005-08-01 11:44:03 | 日記・エッセイ・コラム
 2005年7月30日、町内の親睦会に初めて出席した。世帯数200余りの町内会だが、お隣り以外は殆ど面識が無い私には出席すること自体、苦痛を伴った。班長を仰せつかった関係上、義理で出席せざるを得なかった。どうせ、数十人の集まりだと思っていたのだが、参加者が100人をこえる大盛況だった。

 36年間のサラリーマン生活で17回の転勤生活を送っただけに、近所づきあいは女房任せにせざるを得なかったのだという私なりの言い分はあるが、世間には通用しないことも明白だ。その反省にたって恐る恐る女房に付き合ったのだが、私同様、初めて参加する人もいて、予想に反して和気藹々と楽しい雰囲気だった。

 「向こう三軒両隣り」などという小さなコミュニティの原点は、核家族化の進展で、もはや死語化したかのようだが、これが現在の日本社会の元凶にも思える。親が子供を躾けるのは当然だが、以前は、見知らぬ人でも大人が子供を教育したものだ。いたずらをして近所のおばさんに小言を言われたり、銭湯で騒いでおじさんに叱られた記憶がなつかしい。今、そういうことをしようものなら、警察沙汰になりかねない。いったい何がどう変わったのだろうか。

 日本民族は農耕民族で、共同作業を余儀なくされた。「和をもって尊し」となす必然性が存在したし、相互扶助の原点もそこにある。世界一を競う豊かな経済大国に成長した過程で、大切な精神文化を置き去りにしたツケが社会の色んな場面で噴出している気がしてならない。毎日のように回ってくる回覧板を見るたびに、「IT時代になんと時代遅れな」と思いつつも、小さなコミュニティが果たす役割が如何に大きいかも同時に感じさせられる。会社人間どっぷりだっただけに、リタイアした今は地域住民としての拠点が脆弱だったことが悔やまれてならない。