プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

●構造改革の視点・原点

2005-08-08 10:53:22 | 日記・エッセイ・コラム
 分別ゴミの収集日。早朝4時過ぎに容器別回収箱設置に指定場所に行ってみて驚いた。ゴミを詰めたポリ袋が既に沢山並んでいるのだ。禁止を承知で、昨夜のうちに出したものらしい。空き缶やペットボトル、不燃ごみや生ゴミが一つの袋に詰まっているものもある。

 金沢市のゴミの捨て方は、かなり面倒で厳しい制約がある。ゴミの種類別に回収日が異なるので、分別供出が基本で、捨てる際に決められたルールで出す必要がある。ポリ容器はラベルを外しつぶして捨てるとか、キャップは外すなど、細かい決め事があるのだ。「どうしてここまで手間をかける必要があるのか?」と思いつつ、ゴミ回収コストの低減につながるのなら、住民の最低限度の義務だろうと止むを得まいと納得していたが、いざ、世話をする立場になると、ルール無視のマナーには、いささか閉口する。

 回収側は、違反ゴミは回収せず置き去りにしていくので、残ったゴミを分別し次回の回収日まで保管しておくしかない。住民が3人づつ、交替制で世話を担当してくれるが、回収後の後処理は我が家の役回り。うだるような昼下がり、残されたゴミ袋の中を覗き込んで、悪臭と闘いながら後始末に追われた。夫婦で愚痴を言いながらの作業は、不思議な共感を持つものだと自嘲気味になった。

 今日は、郵政法案の参議院採決日。宇宙飛行士野口さんが帰還する日でもある。高校野球だってやっている。次元が異なるさまざまな事象が寸断することなく動いている。それが世の中だ。国民誰もが毎日の生活を快適で安心して遅れるような社会の仕組みを構築することが全てである。「民に出来ることは民に」というのは、論外だ。民に出来ないものは何一つ無い。「民に任せるべきかどうか」の判断基準が問われるだけのことだ。

 地域のルールさえ守れない一部の不心得者が、社会生活において立派な事業を達成出来るとはとても思えない。構造改革とは、地べたに這いつくばって生きている者の視点から積み上げたビジョン抜きで達成出来るものだろうか。などと、暑さで思考力がおぼつか無いなりに思索していたら、「せっせと手を動かして!」と女房の檄が飛んだ。
 「ちょっと待って これで良いのか 分別法」
 「私じゃない じゃ誰なのさ 無分別」


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