プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

●近所の底力

2005-08-01 11:44:03 | 日記・エッセイ・コラム
 2005年7月30日、町内の親睦会に初めて出席した。世帯数200余りの町内会だが、お隣り以外は殆ど面識が無い私には出席すること自体、苦痛を伴った。班長を仰せつかった関係上、義理で出席せざるを得なかった。どうせ、数十人の集まりだと思っていたのだが、参加者が100人をこえる大盛況だった。

 36年間のサラリーマン生活で17回の転勤生活を送っただけに、近所づきあいは女房任せにせざるを得なかったのだという私なりの言い分はあるが、世間には通用しないことも明白だ。その反省にたって恐る恐る女房に付き合ったのだが、私同様、初めて参加する人もいて、予想に反して和気藹々と楽しい雰囲気だった。

 「向こう三軒両隣り」などという小さなコミュニティの原点は、核家族化の進展で、もはや死語化したかのようだが、これが現在の日本社会の元凶にも思える。親が子供を躾けるのは当然だが、以前は、見知らぬ人でも大人が子供を教育したものだ。いたずらをして近所のおばさんに小言を言われたり、銭湯で騒いでおじさんに叱られた記憶がなつかしい。今、そういうことをしようものなら、警察沙汰になりかねない。いったい何がどう変わったのだろうか。

 日本民族は農耕民族で、共同作業を余儀なくされた。「和をもって尊し」となす必然性が存在したし、相互扶助の原点もそこにある。世界一を競う豊かな経済大国に成長した過程で、大切な精神文化を置き去りにしたツケが社会の色んな場面で噴出している気がしてならない。毎日のように回ってくる回覧板を見るたびに、「IT時代になんと時代遅れな」と思いつつも、小さなコミュニティが果たす役割が如何に大きいかも同時に感じさせられる。会社人間どっぷりだっただけに、リタイアした今は地域住民としての拠点が脆弱だったことが悔やまれてならない。