南無煩悩大菩薩

今日是好日也

水族館の効能。

2008-09-29 | つれづれの風景。

生き物であることはまちがいない。

動物としての能動的行動力においては物足りない。

植物としての着床的堅実性においてもか弱い。

ながらも、一つの固有戦略を持って生存適合を全うしている。


あるときは動物が如く。あるときは植物が如く。


この生き物、体の98%は水で出来ている。

このすばらしき柔軟かつ変動性を用いて、力強く生存している。


しかしこの。その姿はなんともいえぬ。

凝り固まった頭はほぐされ、肩の力は抜ける。

透き通ったふにゃふにゃは、案外効くのである。


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ショウを見る。

2008-09-27 | つれづれの風景。

show:━━ v. (~ed; ~n, ~ed) 示す, 見せる, 現す; 見える, 現れる (Pardon, your slip is ~ing. 失礼ですが腰巻が見えてますよ);等。

と訳されるものを見る。

ショウなんだから、見るのがあたりまえだのクラッカーなのだ。

見ているつもりが見られていたなんてこともたまにはある。

みてくださ~い、おおきなはげあたまですねー。いつもより余計に光っていまーす。等といわれているようにも映っている。


ついでの拍手はされたくない。

拍手をしたいから、私は見せているものを見ているだけなのだ。

見せるを見るのと、見ているのを見せられるのとでは大きな違いがある。


失礼ですが、ふんどしが見えていますよ。

なんていわれることが、増えた今日この頃。

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榊。

2008-09-26 | つれづれの風景。

断ち切られた榊が、鍵釘に挿されている。

白き和紙の洗礼が、供物であることを主張する。

神木の赫々(かくかく)としたその調子は、独個なれども強き清浄を帯びている。


私はこれを美しいと思う。

私はこれを潔(いさぎよし)と思う。


人の手になされたものながら、この調和には、数千年の自然(じねん)があるように思える。

この風情は、芸術的インスタレーション、ミニマムアートとしても秀逸ではなかろうか。

やはり伊勢の榊である。

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二筒。

2008-09-25 | つれづれの風景。

二筒と書いて、リャんピンと読む。

丸印が二つ並んだマージャンの牌の名である。

別にこれといった意味は無いが。

響きがなんとなく、よろしい。

まあるいはげあたまが、二つ並んで、りゃんぴん。

ん。こりゃ2重マル。


ソリが合うのも禿頭同士ならでは。

ニックさんありがとう。
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ニックさん。

2008-09-24 | 有屋無屋の遍路。

この角度では、ブルースウィルス似のニックさんは、備前焼の陶芸家。

イギリスからやって来て16年。

ニッポンの土を捏ねている。

私はニックさんの国で浮浪者をしたことがある。

ニックさんは私の国で伝統を受け継いでいる。

言葉もわからないままに弟子入りしての苦労は並ではなかったろう。

苦心をジョークで笑い飛ばしながら生きている人は、見上げたくなる。

ポジティブに渋いニックさんである。

笠岡に行けばあたたかく迎え入れてくれるのである。




*Nick・Jennings
ホームページ http://www.kcv.ne.jp/~fafa/
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うみねこのうた。

2008-09-22 | つれづれの風景。

我ときて 食えや歌えや あきるまで。


かっぱえびせんがなくなるのと、域界を超えるのと、そのあいだにウミネコと遊ぶ。


風をう上手く捉まえたものだけが、かっぱえびせんの味を知る。



すきよ。あなた。いまでもいつまでも。

食べたくて、恋しくて、もどかしくてえびせん。

おいかけて、うみねこ。


しかしその姿は、流麗である。

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のりと。

2008-09-20 | つれづれの風景。


秋さめや 伊勢参り 

かもけき内裏の不忍(しのばず)に

雨のしたしる祝詞(のりと)かな。



不忍池に落ちつつ拡がる波紋は、互いに関わりを繰り返しつつ生まれては消える。

大なり小なりその雨粒は、それぞれにそれぞれの干渉を呼び新たな波紋を起こす。

結び合い、助けあい、支えあい、喜びあい、思いあい、誉れたかきも我等が波紋、豊穣の祝い。

未だちさき我等雨だれなれど、この波止むべくことなかれと願う。


雨は人。池は社会。関わるは感謝と精進。波紋は豊穣。

天地人、八百万(やおよろず)を同じくす。

かしこみかしこみ。ここにもお神楽あらせられんや。のりととあらせられんや。

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風竹。

2008-09-19 | なんとなく落書。

見えない風を、画に取り込もうとするなら、媒体に頼ることになる。

風という触媒は、竹を媒体にみえないものの存在と役割を教えてくれる。

見えないものを、可視化させるためには、2次的なものを豊かに現し且つ見る眼の想像力に委ねるしかない。


私のかいた風は、やはり硬い。風が作られている。とってつけた取り繕い。
基本的な表現技術が稚拙な由縁である。

心技がおろそかな為に、体をなさないのだ。


上手く見せようとする事で、かえって違うものを見せてしまうことがよくある。

見えていないにも拘らず、見えていると錯覚することがよくある。


かいてみることで、至らなさを知ることは大事なことだ。

それが恥であったとしても。


見えないものを少しでも豊かに感じられるようになれば、少しは風をつかまえられるのかもしれない。

それはもう、実際の風竹に教わるしかない。

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目的とプラン。

2008-09-16 | 有屋無屋の遍路。

私達人間は、ある目的から次の目的へと、苦労しながら自分の生活を進めていくことに慣れているので、他の動物もつい目的を持ってるんじゃないかと信じて疑わない処がある。

たしかに、ウニやミミズが目的を持っていると主張する人はいないだろうが、ハエやダニのレベルになるとどうだろうか。

待ち伏せしたり、味覚器官を備えていたりと、採食を行動目的とするかのようなこれらの類は、無意識にではあろうが、純粋な自然の設計(プラン)を持ち合わせている。


誤謬は此処に起こる。


私達は、ハエの持つ設計された行動の先に目的を見てしまうのである。


目的とは目的の為に設計された行動を通じて達っしようとされるものではあるが、プランはその目的を示唆するものではないことを、私達は実生活を通じてよく知っている。

あるプランを、その行動に見たとしても、真の目的を示唆するものではないということを。


設計=目的となるようなプランで行動するという事は、一筋蝿とはいかない大事(おおごと)である事を、自分自身に当てはめれば理解できるにも拘らず、自分以外もしくはハエに対しては誤謬を持って当てはめてしまう癖があるのである。



私達人間は、ある目的から次の目的へと、苦労しながら自分の生活を進めていく。

そのために随時随所に設計書の書き換えを余儀なくされる。それは、成長という目的に合致する。



純粋にして、真摯なる態度で、環境世界への適応と、生存繁栄競争を戦う中で、目的的な行動設計(プラン)を確立してきたハエなどに対して、

「私は客観的に物事を見ることが出来る。あなたとは違うんです。」


と、果たして私は言えるだろうか。

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名残の月。

2008-09-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

努力努力と書いて、ゆめゆめと読む。

ゆめゆめ忘れたもうな。



ひぐらしの 月は東に 日は西に。



思念を凝らすべしと、中秋は命月。



ツキにちなんで名残をうたう。



月やあらぬはるかむかしの春ならぬ わかみひとつはもとの身にして。
-藤原定家-


人のさとりをうる 水に月のやどるがごとし。
-正法眼蔵より-



努々月莫名残。

-無山人-


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牧野翁語録。1.

2008-09-10 | つれづれの風景。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美(たんび)するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。

花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つことであろう。

花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。

-牧野富太郎-


*まきのとみたろう
1862年生まれ。様々な苦難の中で独学で植物学に取り組み、植物分類学の世界的権威となる。新種1,000種、新変種1,500種以上の日本植物を命名し、採集した標本は60万点に及ぶ。
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牧野翁語録。2.

2008-09-10 | つれづれの風景。

花は、率直にいえば生殖器である。

有名な蘭学者の宇田川先生は、彼の著「植物啓源」に、「花は動物の陰処の如し、生産蕃息(はんそく)の資(とり)て始る所なり」と書いておられる。

すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べ物にはならない。

そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。

まず花弁の色がわが眼を惹きつける、花香(かこう)がわが鼻を撲(う)つ。

なお仔細に注意すると、花の形でも額でも、注意に値せぬものはほとんど無い。


-牧野富太郎-

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牧野翁語録。3.

2008-09-10 | つれづれの風景。

私は、草木に愛を持つことによって、人間愛を養うことができる、と確信して疑わぬのである。

もしも私が日蓮ほどの偉物であったなら、きっと私は草木を本尊とする宗教を樹立してみせることが出来ると思っている。

自然の宗教。その本尊は植物。

なんら儒教、仏教と異なるところはない。

もし諸君が植物を学んでいささかでも植物趣味を感ぜられ、且つあわせて植物知識を得られたならば、私は大いに満足するところである。

-牧野富太郎-

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処世の妙。

2008-09-09 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。


養生も浮世も子守の河渡り 背負う子供が 佳き手引きなり。


深みにはまらずに、なるべく浅瀬を渡ることは、浮世渡りでも大事なこと。


負うたもののおかげで 浅瀬を見つける。なんていうことも多々ありましょうよ。

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蝶柄。

2008-09-08 | つれづれの風景。

野戦でも、平地と森林地帯の戦いにおいてでは、兵士達は、違った迷彩服を着用する。

環境への溶け込みかたは、その生存戦略の基幹をなす情報を教えてくれる。


ある蝶柄の蝶がそこに止まって休んでいる。せわしない警戒感は感じられない。

梅の木とその切り株の環境パターンが、自らの生物的特徴にとって、生存に不可欠な休息場所と認識するこの能力は、覚えたものではなく、備わった能力だ。

青色の虫は、決してこのような色彩の場所は選ばないだろう。

私達人間の眼から見れば、識別可能だが、彼等にとっての仮想敵、即ち捕食者の認識するパターンレベルでは、十二分に迷彩という機能に達しているはずだ。


この蝶柄は、敵を騙している。という風に受け取るべきではないだろう。

逃れられる可能性がよりたかい。という戦術によって逃れられない生存競争を優位にしてきた故に、備わったものだ。

騙る事のできない、つまり話し合いで解決がつくような相手では無いものへの対応が、天敵対策の基本戦術だろう。

自らの柄とその環境パターンとの関係を知ってこそ、そこが戦闘地帯なのか、消炎地帯なのかを教えてくれる。

うまくいく。ということは、戦うことではなく、非戦闘戦略を成功させることである。



たかが蝶柄。されど蝶柄。

美しきは、その柄そのものに目を奪われることではなく、柄にも無いことを抑制したその実在の賢明さなのである。




私はこの蝶の天敵ではない。

だから、安心してこうして接写に甘んじてくれているように思える。


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