人を愛しまたは十分に愛され、多くの深い友情を経験してきた人は、困難や逆境への耐性、つまり最後までへこたれない強さがあるという。
汝隣人を愛せよ。とは、自己にとっても大きな報酬を得られますよという奨めだ。
何かをしてくれるのではなくても、そういう人は存在してくれているだけで、ありがたいものである。
ジングルベル ジングルベル ジングルオードリー ヘップバーン。
何の意味もありませんが、今年も残り一週間とあいなりましてございます。
ああ、もうあと七日なのか。
イエスもアラーも仏陀も天照も鳥獣草木も、だれかれ問わず、年は暮れ年は明けゆく。
「はっきりとではなくても良いが、明確な語を使いなさい。」
と誰かに教わった覚えがある。
自分が発した言葉をどのようにして収穫したかを考える時間がもっとあれば、意味を明瞭にするという方向をもっと示せただろうに。
そう思っていることに対する準備がもっとあれば、瞬時に通り過ぎるものでも見逃さずにいられただろうに、と思える。
うろおぼえだが、大塩平八郎と言う人物の話がある。
市井のたみ、民衆が飢饉と飢えで苦しんでいるのを見かねたその人は、お上の備蓄米を放出するよう掛け合う。
しかし一向に腰を上げない権力権益者に対し彼は蜂起する、いわゆる大塩平八郎の乱を起こす。
一戦交え、防いでいる間に倉庫蔵を開放させ、それを苦しんでいる人々に配り終わるのを見届けると、その人は、自害する。
その人の確かこんな言葉が残っている。
「雷光のように激しく、雷鳴のように恐ろしくあろうとも、しかしその空は晴朗でなければならない」
多分にその民衆からみた彼の心構えは、ほとけかぼさつに映ったのではなかろうか。
せりふがかっこよろしいなぁ。
知らざぁいって聞かせやしょう
問われて名乗るもおこがましいが
危ねぇその身の境界も 最早四十年 人の定めはわずか五十年 六十余州に隠れのねぇ
髪も島田に由比ガ浜
西国を 廻って首尾も吉野山
今日ぞ命の明け方に 消ゆる間近き 星月夜
どうで終いは木の空と 覚悟はあらで 鴫立沢
・・・。
歌舞伎役者のつもりになって、言ってみたい言葉の宝庫が、黙阿弥作の弁天小僧が有名な白波五人男。
こう、なんちゅうか、落ち着いたハイソサエティな感じのラウンジか何ぞで、妙齢妙色のふるいつきたくなるような年増のいい女なんぞに、
「あのぉ せめてお名前だけでもお聞かせ願えませんか?」
などと、誘われて
「問われて名乗るもおこがましいが、知らざぁいって聞かせやしょう・・・。」
なんてやると、間違いなく嫌われるやろうけど。
「あなたが働くのは、自分自身の世界を見出し、そしてそれに心身を捧げるためである」-仏陀-
「・・精神の創造というべき労働の場合、外的な強制は無用にして有害となり、ある種の内的な強制がこれにとって替わる。未完成の仕事の光景は、ムチが奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間をひきよせる」-シモーヌ・ヴェイユ-
未完成の仕事の光景を、農耕者は作付に、狩猟者は捕獲に見る。
自由な人間を引き寄せ、自分自身の世界を見つけるための仕事は、完成された世界の一部分を引き受けることではなく、未完成の世界での試行錯誤を内的な強制として推し進められるようなものであるかどうか。
大原女に女工哀史のようなイメージは無い。
チャーミングなモンキーをみて、思い浮かんだ話がある。
時代は明治、東洋人に対する偏見と差別の中、一人の日本人がアメリカの地を踏んだ。
彼は横柄な青年にこう声をかけられた。
「ウィッチ ニーズ アー ユー チャイニーズ オア ジャパニーズ?」(あんたはどっちのニーズなんや チャイニーズか?それともジャパニーズか?)
その男はこう答えて去ったと言う。
「ウィッチ キー アー ユー ヤンキー モンキー オア ドンキー?」(おまえさんはどっちのキーや ヤンキーか モンキーか それともドンキーか?)
その人の名は岡倉覚三、精神の気骨と、それを裏打ちする知識と信念と、文化に根ざす聡明さとユーモアを兼ね備えていなければ、なかなかできない反応だと思う。
垣根を取り払うには、お互いをよく知ることだと身を持って実践する必要があり、パートナーになるためには必要だと思わせること、それこそが扉を開ける鍵となる。
それが、ニーズであり、キーだ。とこの話を捉えるのはうがちすぎだろうか。
餓えながらも 乞うに堕することなく
耐えながらも 言にあらわすことなく
祝いながらも 驕に安んずることなく
昂ぶりも 焦燥も 固く結んで 胸に置く
幾瀬の忍従 都々の誉も 瞑目の内
ただわれならん とほっするのみ
そんなひとにわたしはなりたい。
意志は無限だが実行は有限だ。欲望には果てしが無いが、行いには限度がある。-ウィリアム・シェイクスピア「トロイラスとクレシダ」より-
何かを選択し、実行するということは、それ以外の選択肢を却下することになる。
それ「以外」には出来ないということと、それ「以上」は出来ないということは明確に区別する必要がある。
よって、もってのほかすることがなければ、もってのうえをもってよしとする。
嘘や誤魔化しは一切なしで、自分と対話することは可能だろうか?
「図星」の指摘を受けると、狼狽し困惑するのは、我が事に対しての羞恥やもどかしさの隠蔽にある。
アッケラカン に過ごそうと思えば、さえぎるものを取っ払っておかないといけない。
自分との対話+アッケラカン=風流 のような気もする。
彼らの偶像は金銀の 人の手になるものたちである 口はあるが話さない 耳はあるが聞こえない 鼻はあるが匂わない 手はあるが取らない 足はあるが歩かない のどから声をだすこともない それらを作った者たちはそれらに似ている それらを信じる者たちもみなそうである。-旧約聖書 詩篇-
彼らは私たちにおしえてくれないし、教えようとしない。
だから、こちらが発見しなければならない。
それはあたかも乳幼児に対するように。
本当の本音の処は、誰も人に教えようとしないし、もしかしたらその本人も分かっていないこともある。
だから、こちらが発見しないといけない。
つまり偶像に、話をさせ、聞き、匂い、手を取り、足で歩いてもらうことで、何をもってそう信じるかを発見しなければいけない。