南無煩悩大菩薩

今日是好日也

赫映姫

2018-04-30 | 意匠芸術美術音楽
(gif/The Tale of the Princess Kaguya)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ -梁塵秘抄


(gif/The Tale of the Princess Kaguya)

石造皇子(いしつくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)、大納言大伴御行(おおとものみゆき)、中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)はその戯れに乗った。

この御仁たち、それぞれへの姫のリクエストに応えようとする。天竺にある佛の御石の鉢はち、東海の蓬莱山にある銀の根と金の茎と白玉の実をもった木の枝一本、唐土にある火鼠の皮衣、龍の首についている五色の玉。燕の持っている子安貝一つ、というべらぼうなものである。この姫、月に帰る日が決まっているのであるが、あまりにまわりがうるさいのでしょうもなしの苦肉の策でもあった、のでしょう。

なかでも超真面目な中納言石上麻呂は、、自分で籠にいそいそ乘って、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平ひらたい物をつかみあてたので、嬉うれしがって籠を降ろす合図をしたところが、下にいた人が綱をひきそこなって、綱がぷっつりと切れて落おちて眼をまわした。水を飮ませられてようやく正気になったとき、

「腰は痛むが子安貝は取とったぞ。それ見みてくれ」と言い、

皆がそれを見みると、子安貝ではなくて燕の古糞(ふるくそ)であった。中納言はそれきり腰も立たず、気病みも加わって死んでしまうという有様であった。

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん。


-桃山晴衣/ 鬼の女の子守唄

だから、Enjoy your problems.

2018-04-28 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(quote/Shunryu Suzuki)

「をしやほしやと思わぬ故に、いはば世界が皆我ものじゃ」 -盤珪禅師

欲しい惜しいとの思いに執着しなければ、まわりにあるものはすべてなんとかなるように思えてくる。

ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローさんはこんなことを言った。

「世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。

すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、ほとんど無用のごとく見えるものでも、他のものに力を与えるとともに、その支えともなる。

私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。

私たちのもつ今日や明日は、私たちの建築の有力な材料である」

個人が遭遇するいろいろな出来事にしてもそれは、将来の個人というものを建築している、若しくは増築の有力な材料であって、解体するための出来事ではないと見るべきである。

何事が起こってもポジティブに生きるには多少の裏打ちも必要とされる。

人の振り見て我が振り直せ

2018-04-24 | 世界の写窓から
(gif/source)

失敗から学ぶ。

その学習の多くは他人の失敗からこそその本質を学びやすい。

他の誰かが犯した失敗は、それが間違いのない失敗だと判断するのが簡単である。

これが自分の犯した間違いだと、それは間違いではなく、自分ではどうしようもない外部的な要因やタイミングの悪さ等々だと、自己弁護によるバイアスをかけやすくなる。

しかし、他人の失敗なら自己防衛が働くこともなく、そこからたくさん学ぶことができる。

他者の犯した間違いや失敗に対しては責めたりせず寛大でなければならない理由の一つがここにある。

サルトルと織田作之助と坂口安吾

2018-04-21 | 古今北東西南の切抜
(quote/original unknown)

私はサルトルについてはよく知らない。

実存は無動機、不合理、醜怪なものだと云う。

人間はかかる一つの実存として漂い流れ、不安恐怖の深淵にあると云う。

「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もっと悪いことには、我々は自由なのである」

実際、自由という奴は重苦しい負担だ、行為の自由という奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。

ここまでは万人の思想だけれども、サルトルは救いを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。こういう思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思う。
 
サルトルは小説が巧い。この小説を彼の哲学の解説と見るのは当らない。解説的な低さはない。彼の思想は肉体化され、小説自体、理論と離れて実在しているものだ。

「水いらず」のリュリュの亭主は不能者だ。リュリュは喧嘩別れして他の男とホテルに泊るが、男が技巧が達者でリュリュはボッとなってしまうけれども、達者の男はいや、ボッとなるのも嫌い、リュリュは不能者の亭主が好きなのである。そして一日ホテルへ泊っただけで、亭主のところへ帰ってしまう。

この小説には倫理などは一句も説かれていない。ただ肉体が考え、肉体が語っているのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛している。その肉体自体の言葉が語られている。
 
我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考えてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、そういう立場がなければならぬことを、人々は忘れていた。知らなかった。考えてみることもなかったのだ。
 
サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、ただ肉体自体の思考のみを語ろうとしていることは、一見、理知がないようだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
 
私は今までサルトルは知らなかったが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考えていた。それは僕だけではないようだ。洋の東西を問わず、大体人間の正体というもの、モラルというものを肉体自体の思考から探しださねばならぬということが、期せずして起ったのではないかと思う。
 
織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体ということを狙っているように思われる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルというものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのという自意識もいらない。

思考する肉体自体に、そういうものはないからだ。一見知性的でないということほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。

これからの文学が、思考する肉体自体の言葉の発見にかかっているということ、この真実の発見によって始めて新たな、真実なモラルがありうることを私は確信するのであるが、この道は安易であってはならぬ。織田君、安易であってはならぬ。

-坂口安吾「肉体自体が思考する」より

上達するなら

2018-04-19 | 世界の写窓から
(picture/original unknown)

迷ったら難儀なほうを選ぶ。

楽なほうより、安易なほうより、難しいほうを。

例えば、自転車を乗り始めた子供の頃、いつまでも補助輪付きで満足しただろうか。

はずしたほうがずっと楽しくなることをみんな知っている。

頭の悪い人

2018-04-18 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(source/stay positive)

いわゆる頭のいい人は、謂わば足の速い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない処へ行き着くこともできる代わりに、途中の道端あるいはちょっとした脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人や足ののろい人はずっとあとから遅れてきてわけもなくその大事な宝物を拾っていく場合がある。

頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡せる。少なくとも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けていく。どうにも抜けられない難関というのは極めて稀だからである。

頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめに決まっているような試みを、一生懸命に続けている。やっと、それがだめだとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然の真ん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のすることが愚かに見え従って自分が誰よりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、その人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまた偉い人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。

-寺田寅彦「鉄塔」より

こもれび

2018-04-13 | 世界の写窓から
(gif/KOMOREBI)

地面に投影される木漏れ日は、全て太陽と同じ丸い形をしている。日差しが入り込む木の葉の隙間の形状には、一切影響されないようだ。
一方で太陽の形が変わった時、例えば部分日食時には、木漏れ日のひとつひとつが、欠けた円形や三日月の形に投影されるという。(参照

いつもピッカピカでいたかったら、予定調和の外に出て小さな奇跡に出会う事です。

細かい事でいいんです。映画を観て予想外に泣けたとか、うまいコーヒーが飲めたとか、そんな小さな奇跡が、自分の思い込みから自由になれる発見を産むんです。

と誰かが言っていた。

美しい木漏れ日に包まれてみるのも、そんな細かいことの一つかもしれない。

考えに上らないことについて考えてみる

2018-04-10 | 古今北東西南の切抜
(quotes/Herman Kahn)

ロシアの元スパイ(セルゲイ・スクリパリ氏)に対し英国内で神経剤が使われたのを受けて、ロシア外交官の追放劇が欧米全体で展開されている。

皮肉なことにスパイの価値は、彼らが機密情報を「暴露した」時ではなく、彼らの正体が「暴露された」時に生じる。

「他にもスパイがいる」との疑心暗鬼が、諜報機関の力と、社会に対する市民の信頼を失わしめる。

スパイ活動は特定の秘密を探り出すのには有効だ。例えば原子爆弾の科学的構造などである。だが、敵対者の意図など、より重大な問題を解明する役にはめったに立たない。

例えば、80年代にはソ連のスパイも西側のスパイも、冷戦に終止符を打つべく、敵対する大国が協力を決断することを予見できなかった。

ともあれ、ほとんどの秘密はすでにどこかで明らかになっている。人目に付かない技術関連のウェブサイトや、読まれることのない学術文書の437ページにだ。

要するに、スパイが手に入れた情報が政府の政策に影響を及ぼすことなどまったくと言っていいほどない。

スパイの世界は宝物箱のようなものではない。それよりも、取り扱っている品々のことを経営者さえ覚えていない中古品の販売店に近い。

スパイは、2級のインテリジェンスを提供するだけで、そうした情報に価値があるわけではない。人々はその情報を手に入れる過程で生じる奇妙な秘密性に引き付けられるのだ。

ロシアは2016年、米民主党全国委員会のシステムに不正侵入して、やりとりされた退屈なメールを暴露したとされる。こうして得られた情報は恐らく、クレムリンによる米国分析に何ら影響を与えなかったとみられる。

このハッキングが重大事件となったのは、ロシアが、取得した情報を(ウィキリークスを通じて)公にしたからだ。

騒動に至るまでのその続きは米国のメディアがすべて担った。ロシアは、単なる情報収集を情報戦争に格上げしたのだ。

このハッキング事件が米大統領選挙を揺るがしたことは間違いない。そして(ロシアの意図に反して)ロシアの役割が明らかになったことで、米国人の間にある亀裂をさらに深めた。

さて、すでに退職した二流の二重スパイであるスクリパリ氏が襲われたのはなぜか。ロシアの最大の意図は、次のようなメッセージを英国人に送ることにあった。

「あなたの国で我々は、罪に問われることなく殺人を犯すことができる」と。

これは、英国内で暮らすロシア人有力者に対する、「我々はあなたを殺せる」とのメッセージでもある。

人々はスパイに魅せられるため、メッセージは確実に届く(これまでも英国で、スパイではないロシア人が不可解な死を遂げる事件が何度かあったが、そうした事件はほとんど注意を払われることがなかった)。

偏執狂的な不安を社会に広めるロシアの情報操作は、より巧妙なものになっている。ロシアにおけるスパイ活動は、海外における他の行動と同様、広報活動の一環を成している。スパイは今日、暴かれることを前提としているのだ。

-切抜/Simon Kuper©Financial Times,2018 Mar.24「日経ビジネス/世界鳥瞰」より

山田次郎の決意

2018-04-07 | 世界の写窓から
(photo/source)

人間の使命とは、可能な限り「自分自身」になることである。

例えば、山田次郎という名の人がいたとしよう。彼は鈴木一夫や佐藤太郎のようになろうとしてはならない。

山田次郎は、この世に実現しうる最高の山田次郎になるべきなのだ。

彼はそうなることができる。

そして、彼にとって必要なこと、実現しうることは、唯一このことだけなのだ。

そこには競争というものが存在しない。

さまざまな可能性

2018-04-05 | 世界の写窓から
(gif/source)

恥をかいて、その上塗りまでしたら、輝きだした。

みんながみんな勝つことをのぞんだので、負けることが余りに余った。それをことごとく拾い集めた奴がいて、ツー・テン・ジャックの計算のように、プラス・マイナスが逆になった。

-竹内浩三「鈍走記」より

予測不可能性

2018-04-03 | 世界の写窓から
(gif/source)

与太郎は毎日隣村へ遊びに行って、まだ日の暮れぬうちに森を通って帰って来ました。

「あの森は狸がいていろいろのものに化けるから、日の暮れぬうちに帰らぬと怖ろしいぞ」

とお母さんが言いきかせているからです。
 
ある日、太郎はうっかり遊び過ごして真暗になって帰って来ました。森の中に入ると、忽ち一丈もある位の一つ目入道が出ました。

「ヤア。大きな伯父さんが出て来た。眼玉が一つしかないんだね。面白いなあ。僕と一緒にうちへ遊びに来ないかい」

と与太郎は言いました。一つ目入道は見ているうちにロクロ首になりました。

「ヤア。綺麗な首の長い姉さんになった。変だなあ。どうしてそんなに長くなるの。もっともっと長くして御覧」

と言いました。ロクロ首は今度は鬼の姿になりました。

「オヤ、鬼になった。お節句の人形によく似てる。可笑しいなあ。もっといろんなものになって御覧」

化け物は与太郎がちっとも怖がらないのでつまらなくなって、狸になってしまいました。

それを見ると与太郎は真青になって、

「ワア狸が出たあ。化けると大変だ。助けてくれ」

と言いながら一所懸命逃げて行きました。

-夢野久作「狸と与太郎」より

「ものごとは予測されることによって、より予測不可能性を高める」 -G.K.チェスタトン