南無煩悩大菩薩

今日是好日也

なんで?どうして?

2017-02-27 | 世界の写窓から
(photo/source)

「ねぇねぇ、どうしてそんなことするの?遊んでよかぁちゃん」

と子供に聞かれたとき、もし本当であっても、「しかたないでしょ。お父さんの稼ぎがわるいからよ」といっても聞き分けてはくれないだろう。

例えば、「あなたのよろこぶ顔がみたくてね。おなかいっぱい食べたいって言ってたでしょ」といえば、「うん、わかった」ということになるのかもしれない。

つまり、小さな子供に限らず「なんで?どうして?」は「原因」ではなく「目的」を聞いていることも多いのではないかと思う。
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黒い光、白い闇

2017-02-25 | 意匠芸術美術音楽
(photo/Victor Hugo On his deathbed, 1885 by Félix Nadar)

ストイックな超人ジャン・ヴァルジャンを生み出したヴィクトル・ユゴーは、超人的な好色の牧神でもあった。

恋するアデールを妻とした初夜に九回交合したと彼自身が述べている。その絶倫の精力は老いても毫も衰えず、最後の年の八十三歳の一月一日から四月五日までに八回、女と交わったという記録がある。

死ぬ数日前にも、文学者協会の委員と料亭で会食した際、彼は居眠りしているように見えたが、やがて彼のために乾杯が行われると、立ち上がって熱弁をふるい、さっきまで居眠りしていなかったことを証明した。

五月十六日に彼は付き添いに言った。

「私は死んだ」

「何をいうのです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃあありませんか」

「君がそう思うだけなのさ」

彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日に彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。

「君、死ぬのはつらいね」

「でも、死んだりなさるものですか」

「いや死ぬね」

しばらくして、スペイン語でいった。

「だが、死を大歓迎するよ」

死の床にある間に、彼は、

「ここで夜と昼とが戦っている」

と、つぶやいた。

三十二日朝から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。

ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起こり、雷が鳴り、雹が降った」と記している。

五月三十一日、偉人廟(パンテオン)に葬られたが、パリ全市をあげて、フランスに新しい神が誕生したことに有頂天になって、さながらバッカスの祭りのようであった。

-山田風太郎「人間臨終図巻」より-
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望郷ならぬ望若

2017-02-24 | 意匠芸術美術音楽
(picture/source)

傍若無人、辞書によると傍若だけでは意味を成さぬらしい。

そこが若さゆえなのだが、自分という世界の開闢期をおもえばなにがしかの生きてきた意味が、老いといえどもなお辿れたりするのではないだろうか。

(music/source)
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よく吠える犬

2017-02-23 | 世界の写窓から
(gif/source)

その状況に脅威と好機どちらのラベルを貼るかによって、その後の状況処理に向けられる認知や動機づけが変わってくる。

それは脅威ではなく仮定・仮想のことでしかないので、ここはひとまず実質に向き合おう。

そこに気付けば無駄な争いはさけられるのである。
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気が付いた、ドンキー。

2017-02-22 | 世界の写窓から
(picture/source)

その状況に脅威と好機どちらのラベルを貼るかによって、その後の状況処理に向けられる認知や動機づけが変わってくる。

それは脅威ではなく競合しているだけなので、ここはひとまず総合しよう。

それに気付けば分かち合えるのである。
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邪魔をしないプライドの持ち方

2017-02-21 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(quote/original unknown)

良寛さんのように執着を放り投げ自然体で生きる。

そんな人への接し方や態度から学べるもののひとつに、「反応しないことが最高の勝利なのだ」ということへの理解があります。  

そういう人たちの勝利とは、「相手に勝つ」ということではなく、相手に反応して自分の「心を失わない」ことを意味するようです。
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誰にも快適な職場

2017-02-17 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

心理学者マリリン・ブルーアーは、特異な共通性が人に与える影響を説明する学説を展開している。

それによると、私たちには同化したいという欲求があり、人とつながり、強く結びつき、コミュニティの一員になりたいと思う。その一方で異化したいという欲求もあり、ユニークで他とは違う、個性的な存在でありたいとも思っている。

社会で生きていると、この二つの動機がしょっちゅう葛藤することになる。

グループと強く結びつけばつくほど、特異意識を失うリスクが大きくなる。逆に、自分が他人から際立った存在になればなるほど、帰属意識を失うリスクは大きくなるからだ。

では、この葛藤をどのように解消すればいいだろうか。

解決策は、同時に「同じで異なる」存在になることである。つまり、同時に「同化し異化する」方法を探せばいいのだ。

「同化し異化する」ことを達成するもっとも一般的な方法は、特異なグループに参加することである。グループに所属して、関心、アイデンティティ、目標、価値観、スキル、特性、経験を分かち合えば、人とつながっているという意識や帰属意識を持つことができる。

また他のグループと明らかに違っているグループに所属することで、特異意識を持つことも出来る。人は、珍しい類似性を共有する個人やグループにより強く愛着を感じるものなのだ。共通の特徴が珍しければ珍しいほど、絆が強くなるのである。

研究によれば、人は帰属意識と特異意識の両方を与えてくれるグループでより幸福を感じるという。こうしたグループを非常に誇りに思い、強い愛着を抱くとともに、自分が評価されているとも感じるのだ。

-切抜/アダム・グラント「GIVE&TAKE」より-
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やせ我慢と嘘は似ている

2017-02-13 | 意匠芸術美術音楽
(sculpture/Franz Xaver Messerschmidt)

息を大きく吸って~、吐いて~

ではもう一度大きく吸って~、はい、とめて~、とめて~、とめて~、とめて~、とめて~、とめ・・・。

ある調査によると、楽観的な仮説に基づく質問(まだとめられますよね)ではなく、

悲観的な想定に基づくもの(もうすぐとめるのをやめないとまずいですよね)だと本当のことを答える可能性が高くなるという。

つまり人間は、「事実を否定する」場合より、「偽りを肯定する」場合のほうが嘘をつきやすいようだ。
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No Problem

2017-02-12 | 意匠芸術美術音楽
(photo/original unknown)

No Problem - Duke Jordan Trio
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of the nations by the nations for the nations?

2017-02-11 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

憲法は天皇を国民統合の象徴とも意義付けている。

その具体的な内容を知るために英文を参照すると、国民統合は“unity of the people”(人びとの単一性)に対応する。しかしピープルと国民、ユニティと統合とは合致しない。

およそ国民(国家の民)とピープルは、拠点も意義も正反対だから、おそらく、ピープルの集団を日本に住む人間の到達点と考え、その状態をユニティと見たのだろう。

理解を求めるための日本語文脈と、理想とする英語文脈を用意したのではないか。

そう考えると、見事な手腕だと、舌を巻く。

それほどに未来の国民に期待をかけたのである。

そのことは、この英文憲法のピープルが「日本国憲法前文」における国政上の「国民」への熱っぽい注目に他ならないことをもっても、明らかだろう。

「前文」はいう。主権は国民に存し、国政は国民の信託によるもので、国政の権威は国民に由来し、権力は国民の代表が行使し、その福利は国民が享受する、と。

そしてこの宣言が、有名なリンカーンによるゲティスバーク演説の末尾をもり込んだということも、広く知られている。

すなわち「人民の、人民による、人民のための政府」として語られる部分である(もちろんこの人民はピープル)。

しかし両者をよみ比べてみると、リンカーンが二分間の演説の最後にあわただしく加えたそれに、何倍もの内容を与えたものが「前文」であることがわかる。

ここに揚げたものを比べただけでも明瞭だろう。

みごとな具体化ではないか。

天皇は、このように肉付けされたリンカーン精神の「国民統合」の、象徴と位置づけられたのである。

世界的に著名な魚類学者であられる陛下はこれにすぐ気づかれるだろう。その時の負担感は、どれほど大きかったことか。

(切抜/中西進「国民統合の象徴」より)
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後押しする対応について

2017-02-10 | 世界の写窓から
(picture/source)

“人を現状から判断して対応すると、実際より悪くしてしまうことがある。しかし、その人が持つ潜在能力にふさわしい対応をしてやれば、能力を発揮できるようになるものだ” -ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ-

成長を目指して発展しようとするとき、心理学者の謂う心理的距離を克服できるかどうかが成否を左右するといわれる。

具体的には、自己と他者との隔たり「社会的距離」、現在と将来との隔たり「時間的距離」、現在地と別の場所との隔たり「空間的距離」、想像と実体験との隔たり「経験的距離」が挙げられている。

この心理的距離感を少しでも縮められるような対応が出来れば、その人に対する後押しになるかもしれない。

誰もがそれぞれ生まれながらに持っている際立った特徴が、能力として花開くには、そのような後押しをしてくれる人の存在はたぶん絶対に欠かせない。
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きっとできる

2017-02-09 | 意匠芸術美術音楽
(photo/source)

Disturbed - The Sound Of Silence [Official Music Video]


不安なときにこそ信じることを求められる。

なぜなら信じられないときほどつのっていくのが不安というものだから。
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げんきんなもの

2017-02-08 | 世界の写窓から
(gif/original unknown)

お金で幸せを買うことは出来ません。

ただ、不幸せをいくぶんなりとも遠ざけることはできるでしょう。

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満足して過ごすことの意味

2017-02-04 | 古今北東西南の切抜
(photo/Taishi Hirokawa,Sonomama Sonomama)

・・謙虚な人たちにはある一つの際立った特徴があった。

皆、高い自尊心を持っていたのである。彼らは自分が何者かを知っており、そのことに満足していたのだ。

また、謙虚さは卑屈な行動や態度ではなく、他者を敬う気持ちから生まれるものだということもわかった。

善行は、この種の謙虚さから自然に生じてくる。たとえば、ある人物のことをとても尊敬していれば、けっしてその人のものを盗もうとは思わない。また、嘘をつくこともないだろう。

外の世界に踏み出す時、絶対に謙虚な気持ちを忘れてはいけない。あなたが今までに得た学びはほぼすべて、自分より賢く、自分より経験豊富な人々からによるものだった。

しかしこれから付き合う人たちはもしかしたらあなたたちほど賢くないかもしれない。だから、もしあなたたちが自分より賢い人からしか学ぶものがないという態度なら、学習の機会はひどく限られるだろう。しかし、すべての人から何かを学ぼうという謙虚な意欲があれば、学習の機会は無限に広がる。

一般に、自分自身に本当に満足している場合のみ、人は謙虚になれる。そして、周囲の人たちも自分自身に満足できるよう、これを助けたいと思うものだ。

他者に対して攻撃的で、傲慢で、傷つけるような行動に出る人たちを見ると、その行動はほとんど例外なく自尊心の欠如を表している。このような人々は、他人を引き摺り下ろすことでしか自分に自信を持てないのである。

(切抜引用/クレイトンM.クリステンセン「ハーバード・ビジネス・スクール卒業生へのメッセージ」2011より)
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憐憫ありやなしや

2017-02-03 | 酔唄抄。
(photo/source)

ぼくはまいにちさけをのむ。

そして、まいあさにはそのことをはんせいする。それでもまた灯ともし頃になるとなぜかまたのみたくなる。それははんせいのはんせいだとおもえる。

はんせいがはんせいになっていないところをはんせいしながら呑むからこそ、ぼくはさけのみなのだとおもう。

嗚呼、あはれなる哉。
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