南無煩悩大菩薩

今日是好日也

み。

2007-12-28 | 日日是好日。

身につまされるような出来事もありました。

身を削るような思いもありました。

落ちてこそ浮かぶ瀬もあれと思うことがありました。

親身になってくれる人達がおりました。

たかが一年。されど一年。

本年も暮れようとしております。

とりもあえずも今日は縁起物、納会の宴。

ご苦労様でございます。お疲れ様でございます。

実も蓋も無いということはございません。

なにごとも栄養でございます。

なにはともあれ。

来年にはまたなんらかの実が結ばれるでありましょう。

その師走の風の氷雨の跡の寒月夜の頃。


皆様どうかつつがなく、よい年末年始をお迎えお過ごし下さいます様。

はなはだ不束ではございますが、暮れのご挨拶にかえさせていただきます。

今年も一年。ありがとうございました。


寒梢秀ず。

2007-12-27 | つれづれの風景。

身を守るという意味あいでは、寒い時期の梢の方が秀でている。

キュン!と引き締まる思いは、背筋を伸ばすのである。

水ぬるむ春にはぬるむことによって体内の脈動が活発化する。

にょきにょきと、成長するためには、キュンとした土台が重要である。

キュン!と、にょきにょきの関係。


垂れ込める灰色の雲が隠し切れない青い空の存在のしたで立ち上がる木の梢。

寒梢が秀でている。


赤蕾。

2007-12-25 | つれづれの風景。


木枯らしの中の枯れた暖色の落ち葉を背景に躑躅の赤い蕾が揺れている。

まいあがりしずみながれころがりかさなる枯れ落ち葉は、かさかさとその揺れにシンクロする。

気温と音と風景の中で、百舌が甲高い声を出している。


耳は、澄まさなくても澄んでくる。

赤い血の流れている存在であることを、妙な具合に気付く。

苦手な寒さも、しばし忘れの。

冬の赤蕾。



ひだまり。

2007-12-20 | つれづれの風景。

僕の友人に、日田真里さんという人がいる。

嘘です。


話は変わるが、陽が当たると白くなる。

面白いの語源も、顔に陽が差したようにぱっと目の前が明るくなることだ。面白いとはそういうことをいう。

前にも書いたことが、あったかもしれないが、そういうことを、すでに知っている人は別に面は白くならない。

何度も同じことを見せられると、同じ白さでも、鼻に当たってしまう。
所謂鼻白む。

知っているものでも、知らない形で出てくるところが、やっぱり面白い。

ただ。ひだまりのしろさは、知っていながらも、何度見ても面白い。

何が面白いか分からないが、あたたかそうなその対比がよろしい。

冬のひだまりは、なんとなく癒される。


どんな人だろう。日田真里さんは。


葉模様。

2007-12-18 | つれづれの風景。

私がデザイナーならば、このバランス模様は、頂くだろうなぁ。

こんな裾模様の着物を粋に着こなすような人に逢うと、後ろをついていきたくなるかもしれない。

自然(じねん)の道理に導かれた葉模様には勝てないなぁ。


はらはらとひとつひとつおとしながらの一時の模様か。

ん。綺麗であります。

実物はもうとうに葉を落としたでしょう。

そこがまたよろしかろ。

誰であっても所有しておくことはできないのであります。



はかなくも かくも はかなき うすきはもよう。



寂びの風景。

2007-12-17 | つれづれの風景。

いツン頃からか、このような風景を探すようになっていた。

猫可愛がり。とでもいえなくもないほど、寂びの風景が好きになっている。

暑い時に涼を求め、寒いときに暖を取る。

とかく人は、欲するものである。

欲望はだんだんと少なくなり、欲求は日に日に高まる。

寂びに潜む意味など考える余裕も無いくらい、惹かれる。

とにもかくにも、惹かれるものにめぐり合えるということは、幸運といえようか。

私という人間の何かが、呼応するのである。


桐葉。

2007-12-15 | つれづれの風景。

架空の鳥、鳳凰は桐の枝にしか止まらないという。

桐箪笥などはとても高価なものである。

木を見て森を見ず。という諺があるが、桐の木の生い茂る森を見てみたいものだ。

木を見て森を想う。

桐一葉。

ちぎってみたい欲求を抑えながら、独特の葉形に眼を凝らす。

からりと軽いながらも強度と耐久性を兼ね備えた希少なその木を生育させる葉の形。

なんとなく手の平に見えなくも無い。

じっと我が掌を見てみる。

掴み、掴もうとしてきたことの過程が、その手を見ている。


桐の葉は、さわさわとは揺れない。ひらひらと揺れるようだ。


鳳凰が飛び去った後のさわやかな佇まいを思わせる。


回廊。

2007-12-14 | つれづれの風景。

廊下を走ってはいけません。

とよく小学生の頃に言われた記憶が今よみがえる。


走ってやる。


と意気込んでは見たが、どうもそのような元気は無くなっていた。

回廊を回遊しながら、そういえば、あのときの廊下は、広く感じたなぁ。などと思うのであった。

またそのうちに想い出すのだろうか。

朱に彩られた瀟洒で威厳のある回廊と、今は廃校となった古い木造校舎の廊下と。


回廊と回遊と回想の。


じゃんけん。

2007-12-13 | つれづれの風景。

ぐーをだせば、ぱーに負けるというものがジャンケン。

ほい。かぽい。かは任意ですが、勝っても負けても恨みっこ無しよでじゃんけん。


話は変わるが、昨夜通勤鞄を開けてみたら、見覚えの無いお金が入っておった。

お金そのものには見覚えはあるが、そこにあることに見覚えの無い金である。

そうか。やっとわしにも、長年の夢である奇跡が起こるようになったか。金を産む鞄や。

と思いかけて、ふと気がつく。

そうか。なるほど。

かわいい後輩達のかんぱであろうことに思い至った次第であります。

金の話をしたことの恥ずかしさと、心遣いの嬉しさと、なんやら複雑な気持ちで、鞄の中を覗き込んでしまったのであります。

自分の至らなさを思いながらのありがとう。これでまた美味い酒を飲もう。


話は元に戻りますが、じゃんけんでいつもちょきばかり出す人がいる。

子供達はそれを知っている。

生活の中で、食べ物の選択や遊びの順番でじゃんけんするシーンは頻繁に起こる。

その人は、いつも子供達に勝たせてやる為に、今日もチョキを出している。

子供達は勝ったつもりで喜んでいる。

その人は、負けたつもりで喜んでいる。


金を産む鞄を見た時の、恥ずかしさと嬉しさは、じゃんけんに似ていなくもないなぁ。

などと思う。

つまり。私は勝ったつもりで喜んでいた子供なのであった。


ぐーちょきぱー。で何創ろう?


孝行。

2007-12-12 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

親孝行と富士の山。

どちらも仰ぎ見るほど神々しい。といわれる由縁がある。

その昔から、先祖を大事にする人は出世する。ともいわれてきた。

お墓をきれいにするから、成功するのではなく、由縁あるものへの感謝と汚さぬ思いを持つような者でないと人生出世はおぼつかない。ということなのだろう。

何事にも、ただすればよいのではなく、そのモチベーションのあり方が大事というわけだ。

はたして、つらつらそのようなことに気付きはじめる頃には、親は無し。

という具合になっている。

時既に遅し。で済ませるわけにもいくまい。

銭や飾りは出来ずとも、せめて心配させぬよう。で勘弁してもらおうか。

孝行まではできねども、せめて不孝の負い目を負わぬよう。

心にとどめておきたいものである。



親孝行 するほど子孫も繁盛
親は浮世の 福田じゃ。
-白隠禅師-


遠からじ。

2007-12-08 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

春来草里生。


冬来たりなば、春遠からじ。

芽吹きの予感は冬の訪れと共に高まる。とはよくいったものだ。

そう。遠からじなのでる。


春が来て、里山々に草が生える。

あたりまえのことだけれども、そのあたりまえを言葉にすると、あたりまえがしごく有難く聞こえる。

夢は過去の記憶の延長ばかりではない。まだこぬ春を夢見るのである。


遠からじ。


御堂。

2007-12-06 | つれづれの風景。

その御堂は小高い森のいただきにあった。

町がこしらえた案内板にはこうある。

道仙様の檜と御堂。斉藤道三の落とし子が道仙様だという。

しかし何故、土佐の山間で奉られているのか。

斉藤道三といえば、戦国の幕開けを飾る下克上の世の猛将ではないか。

美濃の地で活躍した子種が何故に遠い土佐の山深きところで生涯を閉じるのだ。


そうか。土佐は徳川の時代になって、山内家が移封された地である。

山内家は確か三河の出である。ということは、美濃は近い。

道三の息子、龍興の謀反のときに、道仙は、三河に逃げたのかもしれない。

そして、不遇を囲いながら、やがて山内家と共に、土佐に入国したのだろうか。

しかし、城下を離れ奥深い山間で最後を迎えなければならない理由はなんだったんだろう。

天下を取った徳川家の陰に、滅んだ土着の長曽我部家。
その遺臣たちの集落に奉られた斉藤道仙・・・か。

盛者必衰。命運翻弄。人の世の常。

間口いっけんたらずの御堂が、小高い森丘のいただきで静かにたたずんでいる。


誤謬。

2007-12-05 | つれづれの風景。

合成の誤謬。ということがよくある。

部分であてはまることが、全体にも当てはまると勘違いしてしまうこと。

ある閉じられた社会の常識は、世の非常識。という結果が、事件となっている。

歴史を重ねるにつれ多様で複雑化し幾多の合成の上に成り立つ社会。

ある種の統計結果などは、別の種の統計に取って代わられ、いとも簡単に覆される。

多大な犠牲を払って実験をするのが、人間社会における誤謬の取り除き方であった。

日本は世界七位の豊かさだという。

日本の学力低下は落花の前触れのようにかしましい。

超債務国であって、超債権国でもある。

日本に当てはまることが、世界に当てはまる。世界で当てはまっていることが、日本に当てはまる。とは限らない。

我々に当てはまることが、他の人にも当てはまる。と思い込む処に、誤謬というものが生まれる。

今の貧乏人が、10年後も貧乏人であるかどうか、今の金持ちが、10年後も金持ちといえるかどうか。

酒も煙草も女もで80歳。禁酒禁煙禁欲で50歳。そんなこともままある。

前者は貧乏人。後者は金持ち。

銭本位制であれば、格差社会で救われるのは前者だろうか。

1万円で楽しめる遊びと100万でも満たされぬ焦燥。

どこに、合成の誤謬が生じたか。

なにごとも流動し変異する浮世である。

人は一生。部分は全体。が見えるまで誤謬は続く。


知らないことは、知るまで続く。知っていることは、知らないことを知るまで続く。


人類は、いまだ脳力のスーパーセントしか使っていないらしいから、歴史を重ねることで、まだまだ幾らでも改善と誤謬処理の余地は充分にあるはずだ。

と。座する羅漢さんがそう言っている。


橙実。

2007-12-03 | つれづれの風景。

うまそうな色ではあるが、人が食しても美味くは無い実である。

象のすむ大陸には、象の胃の中で数日もまれない限り、発芽できない実もあると聞く。

究極の戦略ではあるが、象がいなくなれば運命の行方は定まっている。

この実はどのような戦略を取っているのであろうか?

人間に食われることで、遺伝子を次世代につなごうとはしていないことは、確かだろう。

美味くないのだから。

そういえば、美味い美味くないは、その食物を分解できる酵素が体内にあるかないかの違いかもしれないなぁ。などと思う。

私の体内には、もしかしたら異常に酒を分解する酵素が余っているのかもしれない。

食の安全が四の五の言われる当世において、美味い美味くないは、案外大事な感覚かもしれない。


何でも食ってみた子供の頃とは違い、昨今は何でも食うとえらいことになってもきている。

しかし、はじめて河豚の肝を食った人は、偉大だと思う。

そうとうの馬鹿でない限り、偉大としか言いようは無い。

美味いが危険。


聞くと見るならぬ、見ると食うでは大違いの事も多い。

なにかを誘っているのは確かなのだが。