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予は客を愛する。長居しない客をおおいに愛する。
なかでも来ることのない客をもっとも愛する。
-黒岩涙香
現状暫く変態するものにとってその途上は、無防備かつ、未知の環境との遭遇の連続である。
主体とは一人称主観であり客体とは三人称つまり客観であり、そこに其の体という二人称的相観がはいって初めて自分を知ることが出来る。
とかなんとかありそうである、知らんけど。
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貝原益軒先生は牡丹が大変好きであった。花の咲くのを楽しみに丹精込め育てたそれらは、開花時期になると庭一面咲き乱れたそうである。
ある日の先生留守中の事、書生二人が庭で相撲を取ろうということになった。最初は気を付けていたがつい夢中になってしまい、先生の牡丹をほとんど踏みにじってしまう。
先生が帰ってくると二人はどんなに怒られても仕方がないとあやまりにあやまった。が、先生は「あ、そうか」といったきりである。
もしや聞こえなかったのかと、もっと大きな声で牡丹を踏みにじってしまったともう一度おおいにあやまったが、やはり「あ、そうか」というばかり。
困惑した二人は、「先生どうぞ私たちを叱ってください」というと、先生はこう云ったそうだ。
「私が牡丹を育てるのは花を楽しむために育てるのじゃ。ここで私が腹を立てたら、腹を立てるために育てたことになる」。
心の養生訓である。
(illustration/Toshio Saeki)
吾輩は銭である
朝には粒々辛苦の汗の値として払われ、夕には瑞兆紅閨の夢を購うの代となり、米となり酒となり月給となり家賃となり、さらに転じて貯蓄箱に入り芝居の木戸銭となり税金となり利息となり元金となり浮世の一喜一憂皆関係せずというもの無し。
吾輩の前には人間も頭を下げ、吾輩がなければ英雄も羽根なき鳥のごとく、吾輩があれば愚物も龍に翼を添えたるがごとし。
吾輩の勢力また偉大なるかな。
ー切抜/仰天百画より
それ本来はもともと高尚なものであったにしても、どう転ぶかわからんものにしがみつこうとは、手足をもがれたないように、と、自ら手足を退化させることに似たり。
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「・・男から言い出しまして話のつかぬ事も芸者から話しますとすぐ承諾を得るようなこともあるのは、まったく嘘のような事実であります。
つまりおのずから調和的勢力を持っておりますから、話も自然面白く結び付けられます。これは極めて真面目な間柄でもそうですし、一つの仕事を仕組もうとする人の策略(ポリシー)において、そういうことがしばしば繰り返されるのは先刻ご承知の成り行きでしょう。
一口に芸者のために男が堕落するとよくいいますけれども、芸者のために堕落するような人間は、芸者がなくてもとどのつまりは堕落するので、あるいはそれ以上の毒を流し罪を造るかもしれません。現代の紳士、淑女の人々に、芸者のこうげきを立派にできる資格のある人が、いくたりあるでしょうか、これが問題です」。
ー石井美代「芸者と待合」より
((picture/Vik Muniz Atlas (Carlao)2008 Digital C-print))
一緒に御馳走を喰って勘定を頭割りにされても苦情は言えないはずである。
これは判り切った話であるが、私がある議員様の招待を受けに行くと、平素のケチにもかかわらず山海の珍味に美酒美人と言う饗応、議員となったのはこうまで嬉しいのかと驚いていたところ、次の日使者が来て昨日勘定一人十万円なりと請求された時にはビックリ仰天した。こんな頭割りをされたらたまったものではない。
しかしこれに類することは世の中掃いて捨てるほどある。
上流社会の奢侈のできるのも、つまり下流社会の市民が頭割りをして出した金を貰っているようなもので、市民からの御馳走を喰っての喰い倒しだから辛抱はないが、御馳走も食えずに頭割りをしている人ほどイヤハヤ迷惑気の毒千万である。
ー参照/1911年発行、仰天百画「不公平」より
Oliver Tank - Sound Of Silence feat. Fawn Myers
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私たちは何一つつくり出すことのできない人間です。みんな太陽さまと大地があって、それに培われて生きて来たでしょ。先祖の人たちも慎んで、この自然に畏敬の念を持って、一時も神を忘れないできました。
今、あったからとる、誰よりも先にとったからよかったって、これじゃないでしょ。
自然のものは自分がつくり出せない。
空気でも何でも、つくり出せないものは神様でしょ。
どんなに人間がずる賢く、賢く生きてみたところで、それはそれだけのことで、本当はということのことは、。
ー宇梶静江「シマフクロウとサケ」より
I Hold You
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失くしつつある何か。新たに得る何かのもののためになるならそれはそれで素晴らしいことのひとつであるという予感は、ある。
順番、という移り変わりと、繰り返す、という再生について。
Last of the Mohicans (Guitar instrumental)
(picture/Hand with Reflecting Sphere, 1935, M.C. Escher)
実在というのは、誰の目線からのことをいうのでしょう。ね。
エッシャーの画にはひねりがある。錯視錯誤のひねりである。写実ではあるが実写ではないものを知れ汝よ、ということへのインテリジェンスがある。
Wicked Dub Division meets North East Ska Jazz Orchestra - You Can Fly [Official Video 2019]
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難所では掘るか沈むか、たとえば戦時いよいよの昭和12年頃、
昇降機しずかに雷の夜を昇る
と句を詠んだ西東三鬼は「新大阪ホテルで雷雨の夜つくった。気象の異変と機械の静粛との関係を詠いたかっただけ」といっている。
ところが、作者を治安維持法違反容疑で取り調べた特高の警部補は「雷の夜、すなはち国情不安な時、昇降機、すなはち共産主義が高揚する」という意味だと荒唐無稽な解釈をこじつけられた。
いちゃもんをつけるのときも、正当性を主張するのときも、このようによくあるこ「こじつけ」は、ほとんどフェイクとしりながらも未だに我々は面と向かって「あほか」といえる対処をするほどの自信をこの発達した時代においてもきちんと身につけてはいないようである。
ちょうど出たり入ったりする山中のトンネル、その明暗に慣れないように。つい目が眩むということのないように。
BALTIMORE: Chained No More
(picture/Seiichi Hayashi)
冬に春風ふく(福)は うち(内)にて 御庭(鬼は)外へと 出るころな
桜の花に梅の香のせてしだれ柳に咲かせてみたい
Winter Always Turns to Spring
Wake Me Up (箏/Koto cover) - Avicii - TRiECHOES
久しき人に逢うは嬉し
手入れの花咲たるは嬉し
失くした銭を見つけ出すも嬉し
酒注ぎ過ぎたるを頂くは嬉し
駆け込んで間に合う便所もまた嬉し
嬉しさを昔は袖に包けり今宵は身にも余りぬる哉
願わくば春死なむその望月の如月のころ
といろいろあるが、
初孫やすやすと生まれたるは嬉し
子より孫のほうがかわいいとはよくいわれるが、孫がかわいいのはやはり子がかわいいからで、孫が幼いからそれだけかわいさが増すのであろうと思える。
何事もなく成長するようになるようにと、自分の年の寄るのも忘れて、三度の飯を食わせ、寝かして起こして病気をしないよう、事故にあわないよう、恥ずかしくないようと、いろいろと面倒をみてきた子がかわいくないはずもない。
その子が一人前になって、その芋版かもしれん孫に逢うことができる。それは嬉しきもののうちでもなかなか上等の面白いことである。