南無煩悩大菩薩

今日是好日也

前略 藤原先生。

2008-05-31 | 有屋無屋の遍路。

息災でおすごしでしょうか。

私は最近、先生との想い出に感謝する事が度々であります。

今こうして、何とか生きていけているのも、私にしては過分な方達とお付き合いできるのも、先生との出会いがあればこその感を禁じえないのであります。

瓜坊の如き土まみれの裸族のような私に、読み書きの楽しさを教えてくれました。

先生は、100点を取ると、おりこあめ。をくれました。おいしゅうございました。

50点でも、がんばったならば、それでもくれました。楽しゅうございました。

飴に釣られなければ、勉強しない私をちゃんと釣って下さいました。

やればできる。先生の口癖でしたね。

自信の大事さと努力の健やかさを、気長に朗らかにやさしく諭していただいたと、今更ながら、感謝している次第です。

あけっぴろげの校舎の窓の、外に菜の花咲く頃、うららかなひざしを浴びて、風とも光ともつかない黄色が先生の机をすり抜けるさま。私は今でも忘れていません。

老眼鏡を上目に見ながら、執務を取る先生のお顔は、ありがたさとやわらかさと威厳と慈愛に満ち、いつまでも教わっていたいと子供心に思ったものでした。

先生は、卒業のとき、一片の言霊を私にくれました。

「 踏まれても 根強くしのべ 道芝の やがて花咲く 春や来たらん 」

私のそのあとの歩みをまるで予知してたかのような文面でございました。

至らぬところも情けなさも狭斜の心も。先生はご存知だったのですね。

ありがとうございます。本当にありがとうございます。

今まで、この言霊が何度私を窮地から救ってくれたか数えもきれません。

たかが12歳の私に対して、人格を尊重していただいたこと、やがて来る意味を知るそのときの為にとの先生のお気持ち、今にして噛締めております。

人は如何にして活きるか。恩師たるべく人との出会いがあったこと。その幸運を神に感謝するのであります。

山並み続く山界の、高野の里に育まれ。自由に生きた先人の、はるかに望む意気に燃ゆ。学びや我等が高野小。

今ではもう謳う子供達もいない校歌。

忘れずに口ずさむことで、わたしは私でいられるのです。

ありがとうございました。本当に有難うございました。

藤原先生には、甘えっぱなしでございました。

今も尚、こうして勝手にお手紙を書くことで、甘えてしまうこと、どうかお許し下さい。

人影なく、人声なく、人煙なく、原とした中にいて、薄紫のちさき花をながむるとき。藤原先生を想い出すのであります。


とある場所のとある境遇にて。


草々。



質感。

2008-05-30 | つれづれの風景。

股間、あ。まちがえた。五感ののひとつの話。

語感には気をつけましょ。

触覚に関わる感覚が質感。テクスチュアともいう。

視覚で感じてもそこには肌触り感による経験値からの感情の占める割合は多い。

わりあいと。

質感豊かな表現は、意志伝達の上手な方法でもある。

この写真。荒れた唇がいくつも並んだ、ポップアートではない。

桜の木肌のアップなのであります。

桜の木肌は、何故にこのような質感を持つに至ったかはわからないが、妙に刺激するのである。股間、あ。間違えた、五感を。


チャレンジド。

2008-05-29 | つれづれの風景。

うららか薫る耀花のなかを舞い移るは、黒揚羽。


が。しかし、この揚羽蝶、左の後翅に欠落が見られる。

その形状から見て、鳥か何かに襲われたのであろう。

所謂ハンデキャップを文字通り背負っている。

蝶の類は、翅で音を聞くとも聞いておるので、さぞ苦労もあろうな。


が。しかし、この黒揚羽、文字通り蝶のように飛び回っている。

何かのハンデを背負うに任せざるを得ないことは、誰にでも起き得ることであります。

大事なことは、そのハンデの克服の仕方でございましょう。

挑戦する使命を帯びた人々。その人たちをチャレンジドと形容するようでございます。

よい表現です。

この蝶も、後翅の欠落を補って余りある、何かを獲得しているのでしょう。


人生意を得らば、すべからく信をつくすべし。


完全なものから学ぶよりも、不完全なものからこそ、学ぶべきは多いようでございます。


そこ。

2008-05-28 | つれづれの風景。

そこが知れない内の、挙動は慎むべきだ。

そこの見え透いた嘘をつくということは、たかがしれているということだ。


容量あるもの、形あるものに限らず、間違いなく基底部なるものがある。

底を垣間見たものだけが、理解できるうわっつらもある。

そういうことだろ。

抽象的なものながら、理にかなった形をしているのが、そこ だ。


麦茶の入った、やかんの底をなめてはいけない。

そここそが、麦茶の入ったやかんのそこなのだ。

ただし。

やかんを見るたびに底をみようとよだれを出すような、パブロフの犬になってもいけない。

中には、美しき魔物が住んでいる。

汚してはいけないものもある。

底の知れない不安にとりつかれる恐れがあるのだ。

どこにいようが、そこここに、そこのところが、気になるのは人情ではあるものの。




何処が面白いの?

そこ のところよ。




なごりの草とたんぽぽ。

2008-05-26 | つれづれの風景。

共に育まれしは、草莽の友よ。


旅立つ銀翔、わたるは、ルビコンの河。


一陣の神風近し、逢瀬の刹那。


飛ぶも順風。残るも順風。



忽然として、我が生存の不思議なるを感ず。


過去に歴史あり。幻の如く追いしもの。

行く末に望みあり。蜃気楼の如く浮かびしもの。


このときにおいて、歴史なく、行く末なし。


飛べない蛍も、銀翔の夢。


ひなげし。

2008-05-24 | つれづれの風景。

丘の上ひなげしの花が。


そういえば車にポピーという消臭剤もございました。

アマポーラという美しいメロディもございました。

虞美人草とも。虞や虞や汝をいかんせん。

おフランスでは、コクリコという名がついているようでございます。


もしやひなのつかない、けしの花が紛れ込んでやいないかと。

実をひねったり傷をつけてみたりしてはなりません。

汁が漏るほどひねっても、モルヒネにはならないということでございます。


また、あの人が来るか来ないかなぞもあんまり気にせず。

あれこれ干渉せずに。ゆっくり鑑賞しましょう。


丘の上ひなげしの花を。


尋ねごと。

2008-05-23 | つれづれの風景。

わし鬼でっけどな。釜 背負わされてまんねん。万年。

見てわかりまっしゃろけど、重いんですわ。

同じ釜の仲間が、あとふたりおります。

三つ巴になっとりまして、ひとりでも欠けると釜こけますよってにな、抜けられんのですわ。

ところであんさん。わし写してますけど、なんぞたんねごとでっか。

えらい低姿勢で窮屈そうですけど。

ただよろしか。こないな状態やさかい、なんも力になってはやれまへん。

あ。それから、いうときますけどな。うんこずわりちゃいまっせ。こらえてまんねや。

・・・。



みえないめだたないところで鬼もがんばっている。

そういやぁ、暦の二十四節季では小満の時期。

たんねごと見つかりましたわ。おおきに。


昼街燈。

2008-05-21 | つれづれの風景。

必殺仕事人の、中村主人(もんど)は、昼行灯(ひるあんどん)と云われている。

八丁堀の仲間や、かみさんや姑からであります。

灯っているやら灯っていないやら分らない。

ええやないか。できるやつほど昼行灯。

ええ仕事してまんなぁ。というのは、骨董品でも何でもそうだが、玄人はだしの審美眼があってこそわかるもの。



翻って、現代では昼街燈。

青空の下で屹立中。

誰もこの良さは、わかんねえだろうなぁ。

などとひとりごちながら、昼行灯。




多様性。

2008-05-20 | つれづれの風景。

自然界の多様性に負けず劣らず、育種家のあいだの、薔薇での多様性の追求はすさまじい。

何かのイベント毎に造られているといっても嘘とはいえないほど。

自然界であれば、適応の限界が多様性を形作るともいわれているが、育種・園芸家たちは多様性の限界に適応しようとしているといえるのかもしれない。

色素そのものを持たない、伝説の青い薔薇ももはや花屋に並ぶ。

バラに対する育種家のみならず、束になった薔薇は、女性の心をも動かすらしい。

それこそ、多様性に満ちた告白であろうけれども。

多様性にとんでいるというは、心躍ることへの大事な要件なのでしょう。

選択の自由はひとそれぞれ。


それこそバラ。バラエティー。


役割を終えて。

2008-05-19 | つれづれの風景。

咲いた花なら、散るのが定め。

草臥れるし。萎えるし。黄昏るし。見目も良くはない。

それを、かわいそうだとか、きたないとか、むししようとか、そんなふうに思う輩は、役割の何たるかをわかっちゃあいない。

遺伝子は、新しい乗り物に乗り換えながら、命をつなぐ。

生きとし生けるものは、一時の役割でしかない現実から逃れる術は無い。

何かを残そうが残せまいが、全てのものに平等に役割は与えられ、その美しきものの可能性をこの世にしらしめる。

役割を終えたものに、慈しみと謙譲の美学を見ないものは、己の役割の絶頂の美しさに気づかない。

綺麗なものを見逃していれば、その枯れつつある姿でしか判断できなくなるのだ。


と。教えてくれているようだ。

まだこの花も役割を、終えてはいない。


昼下がり。

2008-05-17 | つれづれの風景。

ひるさがりといえば、GEORGE.

アンニュイな雰囲気漂う。

ジョニーは伝言を残して出て行った。

四畳半の襖は下から張り替えよう。


わかる人にはわかるが、わからない人にはわからないのさ。


日が西に落ちかけるそのひとときに。

水分を搾り出したからだが欲求する。

熱いほどに冷たいその味を。


昼下がりのクレイジー。

猫ではない。


西日のラプソディー。



沈丁花。

2008-05-16 | つれづれの風景。

この種の花には、托粉活動にきっちりとした戦略を取るものが多いという。

花粉の位置が深いために、奥へ奥へと誘い込まれる内に、入り口がにわかに閉じるというのである。

強い芳香がそれを補佐する。

托粉される側は、それこそ戦略の虜である。

粉まみれになって喜び勇み、飛び回り、飛び移り、受粉のミッションを確実にこなすことになる。


上等な戦略とは、そういうものであると、孫子もうなるのである。


「じんちょう」か、「ちんちょう」かは、分かれるところであるが、どちらにしても、「しんちょう」な戦略を取る花なのである。


ナルギスと杜甫。

2008-05-15 | 有屋無屋の遍路。

一部のはねっかえりモンが、温和な人々を牛耳るビルマで、ナルギスなる風神が荒らぶり狂うた。

今では、近代化、効率化、自由化、開放という旗印の下、いびつなヒエラルキー構造ゆえに資本収奪主義を取り締まりきれないジレンマの国の、その昔、杜甫という偉大な詞い手を育んだ成都では、地に潜りし雷神が未曾有の怒りを振るわせた。


小生の住むここにおいても、すわ近畿!とひとたび揺れれば、驚異的な被害の試算が出ております。

先の阪神淡路に接した身としても、かの地の人々その辛苦・現状いくばくなりやと、思うことしきり。


杜甫の国ならず、わが国でも、公共施設の耐震補強は、めくそはなくその状況の地域も多いとも聞いております。

「公共施設」でございます。ぬくぬくとした人々が集う「高級施設」ではないのです。

ナルギスの怒りも杜甫の嘆きも、「高級施設」には届いてないように見受けられます。



災害の悲惨さは、社会構造の歪みゆえに、歪められた状況下の人々に対して程、もっとも凶暴に牙を剥くところが、悲惨なのであります。


官民一体となるのであれば、それこそ、軍事支配であったり、一党支配なのであるから、独裁的・強制的に「高級施設」を一切没収して、人民に開放すべきなのであります。

そのための軍政権や一党支配でなければ、少なくともイデオロギー的根拠なぞ、どこにありましょう。


存在理由そのものが、詭弁の可能性を強く感じるのでございます。


WFPももとより、世界的支援の手も、体制に阻まれるもどかしさよ。


バカモンが! 人あってこその国家であるぞよ。

体面を気にしたり、姑息な頭を悩ませてる場合かい!


ナルギスと杜甫のあいだを同じ視点でつなぐことは出来ないにしても、よくわからない現状では一つにくくれる。

つまりは、どちらをみていても、血圧が上がるのでございます。


小生、超自然現象的に物事をみる癖はござませんが、神をも恐れぬ冒涜者の跋扈ここ極まれり。をつないで見せてくれる天の意図なきにしもあらずや。と思うしだいでございます。

商売人にとって、お客様は神様。治世者にとって、人民は神様。神様が居なければ、己の役得そのものも存在し得えないはず。
神をも恐れない横着者達をあぶりだす為の、天からの啓示となるやもしれませぬ。

古くは飢饉をはじめ、天災は時に、人類の進歩を後押しする場合がございます。


馬鹿につける薬はないとは申すものの、天災を天災レベルでせめて抑える努力を、彼の地に残る、英邁なる人材にお願いしたいと、願うのでございます。


厄難除けの鐘馗様、切に願うのでございます。


けなげとしたたか。

2008-05-14 | つれづれの風景。

したたかながらもけなげさを感じさせるのは何故でしょう。

そうせざるをえない、そうでもならざるをえない、いっしょうけんめいさがあるからでしょうか。

したたかなだけでは、厭味になりやすいものです。

けなげなだけでも、もしかしたら誤解を受けることもあるでしょう。

生命にとって、生きるということこそが唯一無二の本題であります。

如何に生きるのかということにおいては、けなげにしたたかにしか有り様も無いのかもしれません。

活きる場所があるならば、いっしょけんめい。ということでございましょうや。

けなげなだけでもない。なにげにしたたかなのであります。

憐憫を誘うわけでも無い。保身の傲慢さも無い。

草魂のなんたるかに触れつつ思うことでございます。


希少。

2008-05-13 | つれづれの風景。

どこにでもある草でありながら、希少性をもあわせもつ草である。

めったには見つけられないが、見つけることがすこぶる難しいわけでもない、という丁度いい塩梅で、四葉にめぐり合える草だ。

そのことが、人を幸せにする。といわれる。

希少性と幸せが結びつくところには、なんらしらかの賢さにも通じていそうだ。

本当にめぐり合えてよかったといえるような人や事物は、希少なものでろう。

短視眼的や短絡的に、目先の葉っぱに執着していては、見つからない。

本当の賢く生きるということは、三つ葉ばかりではなく、四葉も希少ながらも必ず存在する事を、前提にしなければできないことかもしれないなあ。


賢さは希少なり。

さがそう。四葉のクレバー。