(カフクハアザナエルナワノゴトシ)
フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。
「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。
久しき人に逢うは嬉し
手入れの花咲たるは嬉し
失くした銭を見つけ出すも嬉し
酒注ぎ過ぎたるを頂くは嬉し
駆け込んで間に合う便所もまた嬉し
嬉しさを昔は袖に包けり今宵は身にも余りぬる哉
願わくば春死なむその望月の如月のころ
といろいろあるが、
初孫やすやすと生まれたるは嬉し
子より孫のほうがかわいいとはよくいわれるが、孫がかわいいのはやはり子がかわいいからで、孫が幼いからそれだけかわいさが増すのであろうと思える。
何事もなく成長するようになるようにと、自分の年の寄るのも忘れて、三度の飯を食わせ、寝かして起こして病気をしないよう、事故にあわないよう、恥ずかしくないようと、いろいろと面倒をみてきた子がかわいくないはずもない。
その子が一人前になって、その芋版かもしれん孫に逢うことができる。それは嬉しきもののうちでもなかなか上等の面白いことである。
牛ハノロノロト歩ク
牛ハ野デモ山デモ道デモ川デモ
自分ノ行キタイトコロへハ
マッスグニ行ク
ヒト足、ヒト足、牛ハ自分ノ道ヲ味ハツテ行ク
何処マデモ歩ク 遅レテモ、先ニナツテモ 自分ノ道ヲ自分デ行ク -抜粋/高村光太郎「牛」より
うしのきんたまもすごい。
ぶらりぶらりと落ちそうで落ちず。
すこぶる大丈夫なるは牛の睾丸なり。
牛は慌てず浮つかずしぶとく、歩き 止まり 座り 臥す。
「としを経てうき世の橋をみかえればさてもあやうくわたりつるかな」
齢90を超えた飲み友達が言う。
おやじは世界的な疫病も免れ二度の大戦も生き抜いた。
わしにも戦争からのちにも百年千年に一度ともいわれるような、厄災もあったが、未だわしの命を奪ってはいない。
今にも死ぬかもしれんが、そう思うたびに、おもいえがくのことは、もしかしたらまだ生きるかもしらん。ということにつきる。
そう、卒寿を超えた飲み友達が言うのです。
Thank you (J-Ph. Collard-Neven, J-L. Rassinfosse, Quatuor Debussy)
齢90を超えた飲み友達が言う。
おやじは世界的な疫病も免れ二度の大戦も生き抜いた。
わしにも戦争からのちにも百年千年に一度ともいわれるような、厄災もあったが、未だわしの命を奪ってはいない。
今にも死ぬかもしれんが、そう思うたびに、おもいえがくのことは、もしかしたらまだ生きるかもしらん。ということにつきる。
そう、卒寿を超えた飲み友達が言うのです。
Thank you (J-Ph. Collard-Neven, J-L. Rassinfosse, Quatuor Debussy)
-過日、之に遭うも猶顧みず-
平たく言うと、原節子さんの、「過ぎてしまったことですもの」というセリフのようなこと。
-来日、未だ知らず追尋なし-
平たく言うと、「未知をこえて不可知であることぐらいわかる」というようなこと。
差し障りは在るとしても、蟠(わだかま)りは無しでいきたい、というようなことの書初めを心の紙に書いて。
平成三〇年一月一日、あけましておめでとうございます。
「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り)と経文にある。その意味するところは、もし我々が己の知を完全無欠にしようと望むならば、経験界に存在する一々の物について、それぞれの理(本質)を窮め尽くそうとする努力が必要だ、という。思うに、人は誰でも、その霊妙な心のうちに必ず知(事物の本質認知の能力)を備えており、他方、天下に存在する事物、一つとして本来的に理を備えていないものはない。ただ(心の表層能力だけしか働いていない普通の状態においては)事物の理を窮めるということができない。つまり、せっかく人間の心に備わる知もその本来の機能を充分に果すことができないというわけだ。されば、儒教伝統における高等教育においては、必ずまず何よりも真っ先に、学人たちに、自分がすでに理解しているかぎりの事物の理を本として、およそ天下に存在するすべての事物の理を次々に窮め、ついにその至極に到達することを要求する。こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。そうなれば、一切の事物の表も裏も、精も粗も、あますところなく開示されるとともに、(あらゆる理を一に蔵めて内含する)己れの心の本体がそっくりそのまま開顕し、同時にその心の広大無辺の働きが残りなく明らかになる」。-朱子曰く、「大学章句」五章補伝-
つれづれに文字は読めても、その指し示す先は・・なんとも・・‘脱然貫通の雲遠く’・・物に格(いた)るの取り柄も別なし。
ただ、その文字を雑記帳になんとなく落書きするのみであった。
いまに在る、いまに至る、自分を素直に観てみることがちょっとだけ上手になってきているようだ。
お、今わしはけしからん事を考えたぞ!、と、けしからんことを想った自分をけしからん奴だと、意識できるようになった。
これは恐ろしいことである。煩悶の、矛盾の、自己嫌悪の、「種」を創ってしまう。
常にもっと包括的な定義を創らなければ追いつかないのである。
えらいこっちゃ。と思いながらもしかし、恐いもの見たさが勝つ。
南無観世音、腹を据えて、菩薩。
わしゃてっきり蟹と思うておったが、やどかりの仲間らしいタラバは、足の本数が足らば蟹になるらしい。
そうするとタラバガニというのも妖しい呼び方になりますねぇ。
そんなことも知らなんだとは、他にもぎょうさんわしゃてっきりと思い込んでおるのでしょうなぁ。
まっすぐにいってるつもりが横歩き。
目の見えない人は、視覚情報の不足、行動の不自由、知識習得手段の不備など、悩ましい問題にとらわれてしまいます。
確かに目明きの私たちは、いくらかよくものを見ることができ、情報もたくさん入ってきますが、
なんやかんやいって、実際のところたいした知識にはなっていないようです。
自分で思っているよりもはるかに無知なのはほぼ間違いありません。
-提燈が消えて座頭に手をひかれ-
・・・どこの女郎衆だって、あんな甚助(やきもちやき)のうぬぼれをとりとめるものがあったら、かけざんす。
そして、ふだんのようすといやア、麻風呂敷に茄子(ぎすぎすする)で、
いうことが蜻蛉にサの字(キザ)でサ。
おれのあそびかたはどうだの、こうだのと、通(つう)がっているンざんすが、
田印(たじるし)の青竹(いなかもののなまぎき)は、
牛に花りん糖(モウモウコリゴリ)ざんすヨ。
-仮名垣魯文「安愚楽鍋」より-
物言いが 通 ですなぁ。
丸い卵も切りよで四角 ものも言いよで 角が立つ。