南無煩悩大菩薩

今日是好日也

みあげる。

2006-11-30 | つれづれの風景。

あんぐりと。

口をあけてみあげる。


命運つきかねる運命をみあげてみる。

土台、運というようなものがある。


みあげた空に、見果てぬ運をみる。

どのようなものが、降りてくるんか。


あんぐりと。口をあけてみあげている。

なすすべを語れない口があいている。


ちょいと。光が眩しい午後の空。
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一葉。

2006-11-28 | つれづれの風景。

一葉落ちて 水冴える。


なにものかが はらりと落ちて ものごとがこうグッと動き出すことがある。

気持ちに、魂に、考え方に、生気が宿ることがある。


大きく足の先まで息を吸う。


よし。



一葉落ちて 陽昇る。
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瑞兆。

2006-11-27 | 日日是好日。

ことほぐの きざしみせるや たつの呼び水。


至福に不幸。

苦に楽。明暗。

儲けも損も。

吉も凶も、瑞も危も。

兆しはうつろいとどまることあらず。


なにごとに よらず。 

せめてならばで 思案海。

善哉善哉 櫂持ちて 漕ぎ出す先は 瑞兆の灘。

いざいかん 龍の肝とり我が寝の 安楽。

いざすてん 妄執馳せいし我が 焦心。


瑞兆瑞兆 これ善哉。

千載万歳たつの呼び水。

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枠に嵌る。

2006-11-25 | つれづれの風景。

枠にはめられることは大嫌いだけれども。

枠に嵌る禿。


無理やり枠にはめようとするとツルリと滑り落ちる。

枠が悪いのか。禿が悪いのか。


枠に囚われまいと逃げる。

滑り落ちて嵌ってしまう枠。


鉄格子の枠にだけは囚われるようなことは無いようにと。

はまってしまってさあたいへん。ではいけないいけない。


枠から逃げる。ということはエキサイティングである。

自ら嵌ってみるのは、ロマンティックかもしれない。


どう。ということはないけれども。

この禿。我ながら始末に終えない。


自分が勝手に自分の枠に嵌っている。

まあ。世話無い話でございます。
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縁取り。

2006-11-24 | つれづれの風景。

ちあきなおみさんやったな。確か。

「・・いつものように幕が開き、恋の歌歌う私に
   届いた手紙は。黒い縁取りがありました・・」

なんちゅう唄やったかいなぁ。

追悼か追憶かそんな感じでしたわ。


いつかはワシの名前も黒い縁取りがつくんでっしゃろけど。

それまでは、燃やし続けたい思うことにしょ。

ちょぼちょぼでも、出来る限りですわ。


深ーい。茜色に染め上がるものを、柔らかい黄色で縁取ってます。この葉っぱ。

葉っぱやのに華のようでおます。
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仕舞紅。

2006-11-23 | つれづれの風景。

にじんではきえる しまいべに。


はらはらと 朱や紅や赤。

しどしどと 薄黄に薄茶に舞う黄金。



そういえば御堂筋の銀杏並木もええ色や。

こんな季節に。

そぞろあるけば。

何故か口ずさむ。

大阪ラプソディー。


ああ宵の町。

宵の季節の。

仕舞紅。

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相性。

2006-11-22 | つれづれの風景。

なんでも相性と言うのはございますようで。

よく「馬が合う」という関係がございますわな。

なぜかしら、話がお互い面白かったり、安心しあえたりと、同調するリズムや感性、考え方などを持ってる間柄とでも言いましょうか。

こういう雰囲気をどちらともなしに創り、またどちらともなしに甘受する。

まあ。いえば、心地がよいのでございますな。

無理に意図せずともうまくいく。

こういうものが、まあ。「じょうぼん」の関係と申せましょう。

漢字では「上品」と書きますわな。

馬を合わせたり、相性を図るのに、やはり無理はいけないと見るべきでございましょう。

逆のたとえで申しましたら「そりが合わない」関係もございますな。

無理にあわせようとすると、これまた「そっくりかえる」でまずいごとになります。


何故か楽しい。何故か似合ってる。何故か微笑ましい。

なぜがうるさい。なぜか笑えない。なぜだか好かん。

まあまあ。よろしいじゃありませんか。

それも相性ですわ。


うらめしいような、うらやましいような風景。

そんなこんなの居場所が、まあ幸せなんでございましょう。

相性が合うと見るか合わんと見るか、それはそれなりに対処の仕方もあろうものでございましょう。
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黄緑の池。

2006-11-21 | 日日是好日。

プランクトンが多量発生すると水は濁る。

栄養過多は、何事にもよくないが、それが川を伝い海に流れ込むと、沿岸部には大量のプランクトンを求めて小魚が集まり、それを求めて・・と連鎖的に豊穣の海になる。

漁獲高はこの食物連鎖の按配において、地球上を移動する。
海の綺麗なところ、透明度の高いところは、魚にとっては食物連鎖が起こりづらいために、住みづらいところでもあるのだ。

しかし魚とて、赤潮を引き起こすほどの栄養過多の世界は、とてもすめる環境ではない。

ましてや大腸菌や、チッソや、水銀などが流れ込まれたら豊穣の沿岸部は、地獄となる。


なして、このようなことを書くかというと、黄緑の池の写真を撮ったから。

必然なんらかのコメントを入れようとする。

関連性も脈絡も無いけれど、よぎったものを書いている。


人工池であろうが、自然の海であろうが、その存在同士が、ある種の命脈を以って地球上に存在する。

全てがつながっている以上、何一つ、全く、あらゆるものにとって、関係が一切無い。ということは素子学的にもありえない。

一説によると、至る所に姿を変えて存在するこの地球上の物質は時を越えて循環していると言う。

つまり、2000年以上も前のクレオパトラ7世の吐いた息の成分を、私が今吸ったかも知れないのだ。

つまり時を越えて、世紀の美女と私との、間接キッスが成ったのだ。
私は幸せか?

てなことを思ったのは、黄緑の池のせい。


なんしか。繋がっているのである。全ての環境は。

人の世も、噂や評判や、過去の行動を記憶され、勝手にその未来像にコミットされると言う点では同じ様に連続した存在だ。

ないがしろにしてはなりますまいぞ。

人も池も。


少しぐらいの浄化プロセスでは追いつかなくなる。

元を断つ意外に無くなるのでございます。
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幻虫華草。

2006-11-20 | つれづれの風景。

咲き乱れる花が幻であらば、その中でこの世を謳歌する虫もまた幻。

まほろばのおもいいたしきその儚さよ。


時のぬるみは時の滝の前のおもわぬ弛緩。

見渡せる安堵は儚きものへのひとときの傲慢。

散漫やるかたなしの誘惑。


しかしだ。

幻に遊ぶことで、人は今生のもやもやを忘れる。

心を縛り付ける現実と言う名の呪縛を解かれる。

酒の力を借りないで幻影に遊ぶことも大事だ。

毛布に包まれやさしく眠ることで来る脅威に備えるべきだ。

それが幻を見ることの効用。


虫の気持ちで理想の花園に遊ぶ。

眠りつつ覚醒する。

リポビタンDやリゲインやウコンの力よりもよく効く心の薬。

幻虫華草。

飲むものではない。浸るものなのだ。
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団栗の実。

2006-11-19 | つれづれの風景。


ドングリの身になって 実がなっている。

見慣れた実が 生っている。

身なりよく生っている。
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団栗ころころ。

2006-11-19 | つれづれの風景。


茶色に輝いて きれいに落ちている。

熟れて 落ちて 転がっている。

落ち着いて落ちている。

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陽溜まり。

2006-11-18 | つれづれの風景。

よせてはかえす波と。

初冬の陽だまりは何故か似ている。


・・・


ひだりまわりのまわりのおだまりのひだのひだまり。

・・愚にもつかないものがほわっとでてくる。

それでいてなぜかしらそれやそれになるようだ。

どうもうまくはいえないが。


なんだかいいものじゃあありませんか。


・・・


ひだまりや ああひだまりや ひだまりや。

・・・

ひだまりを じっとみている たましいがなくなる。


・・・


お。どちらさんかとおもえば。

・・ありがたい。
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慈愛不足。

2006-11-17 | 有屋無屋の遍路。

あえて言おう。

慈愛が不足しておりますぞ。世のおのおのがた。

私は思う。子供達に大事な何かをはぐくませていないのではないかと。


どんなにいじめられようが、辛かろうが、自愛と他愛があれば、耐えられるものだと思う。

命を絶つ。などということは全くもって慈愛不足が引き起こす突発性無力感が原因じゃて。

無慈悲に他人を傷つけて呵責の念何処吹く風なのも同じ穴から出ておる。

慈愛を受けなかったものは、他人への慈愛も欠乏する。
慈愛はあまねくも広がるが、ことごとくも駆逐されるものやで。

今の子供に問題があらば、問題はその親のみならず、親の親世代に起源があろう。

そしてその大人たちが間違いを見落とさざるを得ないような環境にあった社会構造。

とりあえず、脇に追いやられた感性が何かを狂わせた。

何かの問題が起こる。ということは、必然的な原因が必ずある。

必然的な問題は、その必然を取り除けばやがて改善する。

美しい国日本。への挑戦は、その必然にアプローチしようとする事でなければならない。

近視眼的な社会から、過去未来を見つめる創造的社会への転換点にせねば意味は無いだろう。

今があまりよくないとすれば、改善なる可能性は若い世代。子供の世代にしかない。

今すぐ初めてもその正否は、効果の顕在化は、少なくとも次世代なのだ。


痛ましい事件の抑止力は社会の力だ。

制度や競争や潮流を超えた心の慈愛力の復活がキーだろうと小生は思う。


その最前線は、両親。そしてコミュニティー、そして地域国家。

「親に」なるのは犬猫でも交尾さえすればなれる。
「親と」なるのは献身と忍耐を要求される社会的大事業だ。

「大人」と言い換えてもよい。

それに基づく我々のコミュニティーのあり方が試されている。


慈愛不足のキャリアは、世代を超えて、精神を荒廃させる。

何処かしらで結節点を変えない限り、将来に渡っての再興はおぼつきはしない。

自らや他人に対して無慈悲なことを呵責なく行えるのは、自愛の欠乏。
他愛なき行動は、自分さえも愛せないからでっせ。

自分さえも愛せないのに、国を愛するなぞ出来るわけがない。利用するのが落ち。


「慈愛力」不足こそ諸悪の根源。と小生は考える。

必要なときに精神の栄養分を与えられないと、それを必要としない体質になってしまうであろう。


誤解の無いようにお断りをさせていただくならば。

ててなし子。ははなし子。はどうなるのか?ということであるが、状況によって自然に理解し改善する原初能力が人間にはある。
つまり、てては、ははの役割を開発し、ははは、てての機能を獲得するようになる。
胃を切っても再生するであろうが。
果てはててははなしでも、じじやばばなど周りの器官が寄ってたかって、機能を補完するのだ。
それが、道理であり、摂理。
二つ備わっているものは一つになっても充分に機能拡張によって答える、無くなってしまったものは何かがその代用として機能しはじめるのが自然の成り行き。
なんでも、三行半を突きつけられる恐れのあるものは、バックアップが複数用意されるものだ。

小生が言いたいのは、ちゃんと親と大人と、なっていればよいのである。


世の親御殿。
ぜひとも慈愛をもって子育てをなされよ。
そして外に対しての慈愛を説かれよ。
独りよがりでは決して生きていけない世の社会性を叩き込まれよ。
そして、たまにはおもいっきり自由にさせよ。
怪我をさせよ。自信を持たせよ。慈愛を植えつけよ。


小生が言っているのは、なにも立派な人間になれ。などと出来もしないことを言っているのではない。

社会と言うもののなかで生きていくのであれば、絶対的に必要な想像力がいる。

つまりはだ。悩む。ということ。

子は悩む。親も悩む。大いに悩もうではないか。悩み悩んで選択するから、逃げるようなことはなくなる。

現実の問題に目をそらせることが、他人にどのような迷惑をかけるのかということに発想がいたらない突発的行動を生むのだ。

言葉や態度とは裏腹に、想像しない。悩まない。と言うところに逃げ込む。

教育者や公務に位置する人や政治家だろうが同じ。悩み想像する人はきっと何らかの効力を発揮するだろう。

とどのつまり。全くのアホで無い限り、人は人を簡単に思いやれるものだ。

人を理解できない人が。人を人として扱わないのだ。自分さえもきっともてあましているのだ。

何も難しいことは無い。ちょこっと慈愛の精神に振り返って想像し悩んでみるだけでいい。



それはそうと。この競争社会で何が慈愛じゃい。と言われる御仁もおろう。

慈愛と言う名の羊頭を掲げる競争社会の中ではそうであろう。
ただ施すだけを慈愛と得心してその後を忘れ、その数倍の罪悪を残すことに気付かない社会で競争する事に何の意味がある。

慈愛がかわいそうじゃ。

競争に勝つほどに、人としての感性を売っぱらうことが幸せだと小生は思わない。

もともと人は人として誰でも立派な人である。

すこしでも、より人として次世代に恨まれない何かの選択をする事に悩みたい。教えて欲しい。想像してみたい。
そして、できればその競争に勝ってみたい。

小生はそういう立場に立ってみたいと願うだけなのであります。


少なくとも爺放談を書くことで、自分への戒めにしておるだけでござる。
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ある風景。

2006-11-15 | 有屋無屋の遍路。

ある・・・か。

せや。ある・・・や。

なるほど。

・・・。

よぎる。なにかが・・ある・・か。

せや。・・・どうある・・・かや。


この思い。・・・意味が必要か?

いや・・その必要はないやろ。


誰もや。・・・あるけれどもや。

つたえきらないものが・・あるんや。


長年の末にできたものをや。・・いわれへんわな。

なにをかいわんや。・・ある風景。

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句が浮かぶ。

2006-11-14 | 日日是好日。

おもしろきこともなき世をおもしろく。

・・・。

すみなすものは心なりけり。

・・・か。

晋作さんと尼さんの句であったか。


不二のお山ももうじき白化粧なさる。


こんな句が浮かぶとは。

やきがまわったかもしれない。

ま。それもいたしかたもないか。


おもしろきこともなき世をおもしろく。

ひねもすのたりのたりかな。


あわてずにじっくりいくか。


かならず。ふさわしいものにめぐりあえる。


すみなすものは心なりけり。
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