南無煩悩大菩薩

今日是好日也

タイムアフタータイム。

2008-02-29 | なんとなく落書。

大の字に寝転がってみた。


うつぶせで頬に杖つく。


手枕で畳の目を爪弾き。


むっくりと起き上がり胡坐をかいて背筋張る。


立姿、腰に手をあて、外を見る。


向こう岸を、飛ぶは青い鳥であったか。



幾ら取り繕うとも、膨らんでは消える水の泡。

おもんぱかるは、あのときのこと。

タイムアフタータイム。

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宵闇。

2008-02-28 | つれづれの風景。

宵闇迫れば、悩みは果無し。

乱るる心に、うつるはただ影。

君恋し。と唄ったのは、フランク永井はん。


果報も逆境も互いに自分のこととして受容れるのが連れ合い。

つなひきも、やがては支えあいになるしかおまへんやろ。

そんなつぶやきをのこしながら、宵闇に融け行くふたりづれ。


揺れゆくも、ただ影。


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視線。

2008-02-25 | つれづれの風景。

その視線の先にあるもの。

山である。

いかなる山か。

おのおの方の山である。


人それぞれの、あれをごらんと指差す先を見ることは、そう簡単なことではない。

ついついその指先そのものの、先の爪を見てしまうような誤解も多々。


おのおのその視線の先に、何を見ているのかを知りたいならば、後姿を眺めることが大事かもわかりまへん。


森を見て、山をみず。

山を見て、森を忘れる。


視線の森(もり)を忘れて、木(き)がつかない。


後塵を拝すること、これまた可々なりや。

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好み。

2008-02-23 | 酔唄抄。

よろしいか。酒っちゅうもんはな・・・・・。

この・・・・の部分の違いをどれくらい聞いてきただろう。

酒飲みは、その数ほどの・・・・を持っている。

嗜好品の好みぐらい多様なものはない。なにせ嗜好品ですから。


・・・。


わしはな、日本酒なら土佐酒、あてはかつお。
麦酒なら以前は麒麟やけどな、今じゃあ朝日よ。豆腐か胡瓜か、ちくわか、みょうがでもあったらそんでええわ。
洋酒なら角やなぁ。間違いない。炭酸入れまんねや。しょわしょわっときてうまいねんで。ほんでもってな、つまみは豆かチーズか干し葡萄か、あ、昆布やサヨリの干物やなんや日本の乾物をくちゃくちゃやるのもよろしい。洋酒ゆうても、角は和製洋酒やからな。
だいたいそんなもんやね。定期的に交代で腹ん中はいりますんや。これが。

華やかな大きい通りよりも、裏道小道。
綺麗なべべきたねぇちゃんとよりも顔も態度もねれたおっちゃんと。
繁華街よりも門前町。そんなとこに惹かれます。
けどな。時と場合によりますわ。こればっかりは。

ま。ええやおまへんか。好みで。

ははは。

しかしな。蛾のように看板のあかりに引寄せられるわし。どうにかならんのかいな。とおもうこともあります。

どうにもなりませんのやこれが。好みですから。

どっか具合が悪うならん限りあきませんわ。頭はちょくちょく悪うなりますけど。

しかしよろしいか。「酒好き」とはちゃいまっせ。「酒が好み」なんですわ。

・・・。



・・・。



好んでも好まれないことも、好んで好めることと、好まずとも好まれることもままございます。

嗜好品でもある酒のよさは、そのようなうっとおしいことを範疇におかず楽しめる処が、やはり好みなのでございます。



我が好み。願わくばそうであらんことを、祈りつつ今日も呑むのであります。


甘口の酒よりは辛口の酒を。

感傷よりは思慮分別を。

批判よりは機知を。

馴れ合いよりは孤独を。

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かっぽ水。

2008-02-22 | つれづれの風景。

開明なる光を帯び、
清廉なる空気の中、

朝伐潔朗の如し青竹による、
透秀自若たる水は、

心地よい音曲を残しては、
湛水と交わることで、

奔脈誘う飛び水として、
然りの陽葉に点描を施している。


手水のうみで、漂う労葉が、清慈を引き立てる。



饒舌過ぎない。飾られ過ぎない。沈黙過ぎない。

滋味といえるものがそこにある。

その水が特別なのではない。

特別にしてしまうのは、私の望なのだ。

闊歩水。

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マインド。

2008-02-19 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。



マインド:{心・精神とは} 脳が分泌する得体の知れない種類の物質。その主な活動は、自身の本性を究明しようとする努力にあるが、その試みが無益であるのは、それ自身の他にそれ自身を知る手段を持たないという事実に起因する。-アンブローズ・ビアス-


心ここだけにあらず。ということか。


行動動機を発生させるなにものかを、心・マインドと仮定できるとすれば、花にでもその機能はあり得る。

開く花のマインドと閉じている蕾のマインドは、同じものではあるまい。

蕾を育む額のマインドにいたっては、なお更に。

マインドコントロールを施せば、狂い咲きや、新種交配、原産種の食用化も可能となる。


もいっぺん仕切りなおし。は、ドーントマインド。いわゆるドンマイドンマイ。である。


得体の知れない種類の物質が、我々を確定している?

どんまいどんまい。



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規格と開放。

2008-02-18 | つれづれの風景。

電車や汽車はレールの上を走る。

レールを敷くのと、道路を造るのでは、根本的な違いが有る。

規格の問題である。

雪道や未舗装道路には、轍(わだち)ができる。

レールの施設とは、その轍を予め決定する事によって、走るものを規格する。

道路の轍は、それ以外の規格のものが走る際には不便極まりない。

つまり、根本的な違いは、ユーティリティの開放方向が逆なのである。

電車派と車派という違いは、電車が楽、車が楽、電車が速い、車が速い。等という物理的なことだけではない、規格化されたものに対する、個人的に優先したい開放枠の反映である。

人は規格と開放をどのように選択し、使い分けるのか。

規格と開放とのせめぎあいに。
規格されたものからの開放方向の便利さに対する個人的優先度が見えてくる。



なんちゃって。



どうでもいいことを規格化してはいけないのである。


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グレイゾーン。

2008-02-16 | つれづれの風景。

そこに、禿は映っている。

この頃はもう、カメラを持っているだけで、撮りましょうか?といってもらえるようにもなってきた。

ありがたいことだ。

その人がどのような気落ちで、そういってくれるのかは、グレイゾーン。

白日の下に晒されない方が、幸せなこともあるだろう。

「知らぬが仏(ほとけ)。」



まったく話は飛ぶが。そういえば、ゴジラ対ガメラの因縁の対決の再現のような新しい怪獣同士が、街に忽然と出没し荒らしていると聞く。


メタミドホス対ジグロルボス。


怪獣の名前も、現代では洒落てきたな。と思っていたら。

餃子に罪を着せるとは、なんとも皮の厚い奴だ。

その出没経緯は、いまだどうもグレイゾーンのようでもある。


こういうものは、やはり白日の下に晒されなければ、「知らぬは仏(ほとけ)。」になりかねない。

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山中暦日なし。

2008-02-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

山中に一人で暮らすと、時は自分と共にある。

まだこの歳であるとか、もうこの歳であるとか、遅れているとか、進んでいるとか、思い煩うことはない。

相対的に己を定義する必要がないのであります。

本来の面目、本来の自分の裁量そのモノで生きられるのであります。


山中(さんちゅう)とは、個人的本意を守るシェルターの暗喩でもありましょう。

暦日(れきじつ)とは、相対的な価値を刻むものの比喩とも見受けられます。


人に勝つことはなく、負けることも無い。

追い越されることも無く、追い抜くことはない。

叶うこともなく、叶わぬことは無い。



どうぞお先に。わたしにはわたしの暦日がある。

周りに翻弄されずに、己は己の寄る辺。

そんな気持ちで、社会に住んでみるのも悪くは無い。

そこに、どんな引換券が用意されているというのかはわからないが。



山中暦日なし。

そんな心境に遊ぶ。

自分の心の庵に一人座る。

たまにはそんな時も有ってしかるべき。

邪魔しないから、できれば邪魔しないで下さい。


わが迷いよ。わが惑いよ。わが友よ。


その日は、遠くも無ければ、近くも無い。

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大航海。

2008-02-12 | 有屋無屋の遍路。

中世期頃に始る大航海時代は、殖民の時代である。

自縛せざるを得ない可能性からの、開放の時代である。

大量輸送が可能になると、人間格差社会に悩む幾多の人々が新天地を求めた。

「自由」という言葉を生み出した時代である。

フロンティアスピリッツの萌芽と実践。意識の大ジャンプの時代であろう。

しかし。どこにいっても先住民がいた。

双方とも競い合う列強同士の思惑に翻弄された。

共存か。駆逐か。

争うか。受容れるか。

一歩間違えば、大後悔時代でもある。



ちなみに、どうでもいいことだが、ニューヨークという地名は、もとは、オランダの入植が先で、ニューアムステルダムという地名であった。イギリスに割譲された時の統括者が、ヨーク伯であったことから、ニューヨークなのである。

バージニアなどという地名もエリザベス1世が処女のまま、皇位を継承したところから来ている。

ほんとかどうかは、よくわからないが。

もひとつどうでもいいが、イースター島なぞも、見つけた日が復活祭(イースター)の日であったためである。

どれもこれも、どうでもよくないような本当の名前を知りたくてしょうがない。

日本には、名は体を表すような土着的地名を自らの発音で世界に伝えられてよかったのである。

先人に感謝。

ただ、ニュートーキョーは、酒場でよかったとも思う。



それより以前の。古代からの移住者は、大陸移動との連動や、小さく頼りない船にて、移動を敢行した地道な開拓者達であった。

リスクの大小で言えば、島伝いとはいえ、北東アジアよりオーストラリアまでの大移動を完遂したと言われるアボリジニ族の祖先なぞは、大した者である。

またまた、どうでもいいが、アボリジニ族は、日本人と同じようにお尻に蒙古斑ができるとも聞く。割合近い兄弟かもしれない。いわゆる、しりあい。なのである。



どちらにしても、先住民にとって大航海時代は、社会形態や民族系統が激変する大災害時代であったともいえる。

持ち込まれたものは、免疫のない疫病や必要のない列強社会の論理であり、今日、それまでの純化系統を維持している民族はいない。

純化系統は、環境変化に弱いとはいうものの、急激な変化が生み出された時代の功罪を思う。

人の歴史において、世界規模および高速での人類再編に向かうネオ時代の起爆点が、大航海時代といえそうだ。



現在は、同様に大情報時代である。

世界規模・高速という点で、比にならない爆発の時代である。

侵略者も移住者も先住者もない。全てが互いに流れ合うのである。

押し寄せるウィルス、流れ込む新たな論理に、私達は、この時代の航海に適した術を導き出す必要がある。

現在の旧弊列強がもたらす「智」の植民地では、移民たちによって、自己認識のうちに、連帯と融合による、新たなユナイテッドステイツが創られるだろう。

情報の波が、時代のフロンティアたちを新天地に導くだろう。

現在、私達は19世紀の最も情報量豊富な、平均的英国紳士の、一生分の情報を、誰でもが、一日で手に入れることの出来るレベルにまでなっているのだ。




歴史は常に、離反と融合を繰り返してきた。

郷に入れば、郷に従え。 郷を出れば、郷を忘れよ。

人間は人間である以上世界の誰とでも交配はできる。

「英知」という名の交配は、時代を待たない。

柔軟な対応を取った者達の遺伝された末裔達が又未来への航海の権利を得る。





結局。なにを書きたいかといえば、船に乗った仏様のことである。

仏様は、大航海の末、災いではなく福を運んできた人たちに対するアイコンなのだ。

だから、ほとけさまは、末代までありがたいのである。

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資源。

2008-02-09 | 有屋無屋の遍路。

レアメタル(希少金属)の値段が上がっておる。

石油の値段も上がっておる。

共通しているのは、相対的な希少性が値段を上げる。

下げる為には、希少価値を陳腐化することでありましょう。

そのための方策は、みっつ。

使用頻度を下げる。代替物を多様化する。使用量と同等の再利用で循環均衡を行う。

言うはやすし。相方きよし。

地球から掘り出した、人類の持つ資源の総在庫がどれほどかわ判りませぬが、銅などはもう既に再利用分で、循環均衡に近くなっておるせいで、価値は安定しておるのでありましょう。

しかるに、資源というものは、有るか無いかと申すより、使用量に対して少ないか多いかで値段がきまります。

本当のところを隠して、希少価値をあおって、必要以上に得をする一部既得権益者がおるようでもございます。

なんでもそうでありますが、枯渇する。という危機意識は、いってみれば、誰でもいつかは死を迎える。ということと同義語で、それそのものは枯渇してしまえば、もう使えない不要なものになるのでありますが、同じようなものは必ず見つけ出してしまうのも人類の歴史でアリアス。

インテリジェントというものは、まずもって進化するようになっておるのでしょう。

ヒポクラテスさんは、「知っていて害を為すべからず」と申しました。

プロフェッショナルの定義として、代替案を知っている頭脳明晰な方々や、国家的決済権力をお持ちの方々は、ぜひ人類および我々市井の人間の為に発奮していただきたいと思うのであります。



そういえば、話は変わるのですが、妙齢のある女流作家の方のコメントに接しました。

「日本の今のエスタブリッシュメント達の質の低さの起原は第2次世界大戦の後遺症だ。」と。

いわく。本当の意味での、有能で想像力に富、倫理観を持って社会貢献に身を賭そうとするほどの先導者たる気概と責任感を持った人々ほど、多量に戦死して終った。生き残ったのは、大部分が自己保身の人々だ。この民族に本来の意味でのインテリジェントとエスタブリッシュメント層が回復するのには、もう少し掛かる。

と。

要するに資源再生産のための環境的絶対値が、極端に下がった結果なのでございましょう。

明治維新期前後の急激な思想的混乱の中で多くの有為の士の減少の上に、昭和期の大量戦死者が追い討ちとなったのでありましょうや。


有為な人々の絶対数を失うと、その意見はいかに有意であっても、中傷、デマによって抹殺されやすい。

ただ一点。いいことはあります。今がよくないとすれば、これからはよくなるしかないだろう。回復基調がある。ということでございます。

資源は、なくならない。人材は増える。インテリジェントは増殖する。

資源はそれ単体でのありようはなく地球という環境で育まれたものであります。

地球における産物の中で意志を持った人類という資源が、より進化することで、無駄な使用をやめ、多様に代替物を見つけ、循環均衡を作り出し、この星で共存する。

そのような時が来ると思えば、間違いなく来るのでありましょう。


何十万年何百万年も産出にかかる資源ではございません。

私どもは、ほんの「とつきとおか」で産出される。非常に効率性の高い資源なのであります。

あまりながく使用に耐えられないところもございますが。

はい。

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繁盛。

2008-02-06 | 日日是好日。


運や縁に頼ってばかりで、商売は成り立たない。

運や縁を、信用や信頼に変えることができなければならない。

そうしない限り、運や縁は逃げていく。

運や縁は確かにある。誰にでも均等にある。

ただ、運命となるかどうかは本人次第。

運命と諦めてはいけない。命運を勝ち取るのだ。

信用と信頼を勝ち取るのである。

大事なことは。

うまくいくことと、うまくいかないことと、成功と失敗と、信用を勝ち取ることと、信頼を損なうことと、それぞれには、常に同等の可能性があるということ。

陽が差す限り影はよりそっている。

好転は難しいが、暗転は瞬く間に起きる。

繁盛に、カンフル剤はない。

地道な信用作りによる、信頼を得ることだ。


と。お狐さんの言いたいことはわかっている。

だから僕らは、手を合わせるのである。


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ブルースカイ。

2008-02-04 | 有屋無屋の遍路。

見上げれば、青い青い空が見える。

外から見下ろしても、地球は青かった。という。

地球外生物がもしいるのなら、我々人間と同じような色覚であるのなら、この青は、我々と同じ色覚感情を持って見られるのだろうか。

私達が、地球で育まれ進化してきた為に、この地球の色彩を把握できる色覚帯を持ったとすれば、犬猫のように同じ色覚帯を持たない生き物は、人間とは起原が違うのではないか。

発達しない器官があるということは、発達しなくても構わないということだろう。

宇宙規模では紫外線赤外線の世界の方が、人間に見える波長世界よりもずっと多いとも聞く。

私達の波長は、この地球上の波長にぴったりとシンクロしているようだ。

しかし、このような美しく豊かな色彩がそこにあるのに、見る眼を持たないでいられようか。

青い空があるのではない。見ることの出来る色覚細胞を持つことで、そこに現れるのだ。



我々は、発達させた。人生を色付きで表現できることの喜びを手に入れている。

発達させなければいけない重要な何かを持っていた。

もしかしたら、人間は、地球的地球外生物の起原を持っているのかもしれない。

外から見た青さに惹きつけられたのだ。
太陽という光源下であるならば、この青さは、居住性に適した星の発する青であると。


・・・。


休み休み言わなければいけないような、そんなバカなことを思わせ、惑わせる青い空、ブルースカイ。

しかし。この地球の色は病み付きになる。



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持って瞑すべし。

2008-02-02 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

為さざるをもって為すと為し。為すを持って為さざるを為す。

とかく人の世に生きて、為すとはこれ如何んぞや。

花には花の。鳥には鳥の。風には風の。月には月の。

人には人の為すがあり。

文字にしてはみたものの、途方に暮れる暮らしざまである。

いわんや。

持って瞑すべし。

か。

-萬願亭無山人-

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網膜。

2008-02-01 | 有屋無屋の遍路。

セザンヌやモネ、ルノワールなどに代表される印象派と呼ばれる作品は、網膜細胞をある限定下において光を感じた時の印象を写実したものではなかろうか。

とふとおもう。

言っている本人も言いたいことを捕まえきれていないのですから、読んでおられる諸兄諸姉においては、なにをかいわんやの心境でありましょうが、しばしお付き合いを。

ただ、ありんこの涙を見てみたいと思うように、網膜レベルでの視覚を脳は現実的視覚としては受け取らないのも確かなのであります。

つまり、例えば、モザイクで隠された映像は、眼を細めてみれば見える。なんていうまことしやかな噂も、現実には見たことのある記憶がそのあたりの補助補正を行っている。と考えられる。

見たことがなければ、隠された部分はイメージできないのであります。

中には、ブラウン管に映ったミニスカートを下から覗いて、パンツ見えた!などとのたまうのは、完全に妄想でありましょう。

もとい。


ひょっとしたら、芸術家達は、網膜での像を光を、ある程度までに捕まえられたのではないかと思うのであります。

人は、何事にも自分自身の中に様々な可能性を確かに秘めている。とそんなことから思い、嬉しくなるのも、芸術鑑賞の楽しみと言えましょう。


写真は、網の膜で覆われた野菜畑の盛り土の中の逃げ出せない蝶と収穫から残された葉っぱを拙者が接写してみたものであります。

小生には、なんだか印象派の作家になった気分を味わえてしまった。

そんな気がしてならないのであります。


なにをかいわんや。

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