南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ほんとの純粋

2018-07-19 | 意匠芸術美術音楽
(photo/Girl in India by Joe Routon)

人間ちっちゃいから。

人間みんなよわっちいから。

Star Size Comparison 2


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

手に入れるに値する単純さ。

2018-07-18 | 世界の写窓から
(cartoon/original unknown)

複雑なもののこちら側にある単純さは、手に入れるにまったく値しないが、複雑なものの向こう側にある単純さは、どんな犠牲を払ってでも手に入れたい。 

-オリバー・ウェンディ・ホームズ・ジュニア
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

仙人掌、もしくは覇王樹、に瞠目する。

2018-07-15 | 閑話休題
(photo/source)

生命の春・・・自己再生のシンボル。

苦しむうち、あるがままの自己に戻り、よみがえったような境地に達する。新天地が開かれ、新しい春が来るのである。

薬はいらない。

(おまけ/photo source)
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

Clap Your Hands

2018-07-14 | 意匠芸術美術音楽
(gif/source)

そうそう、どうして自分を責めるんですか?

他人がちゃんと必要な時に責めてくれるのだからそれでいいじゃないですか。

かえって自分で自分に拍手を贈ってやりましょうよ。

Parov Stelar - Clap Your Hands (Official Video)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ユーザーエクスペリエンスに学ぶ

2018-07-12 | 世界の写窓から
(picture/source)

例えばもし道路を舗装しようとすれば、人々が草地を踏みしだいて小道をつくるのを待ちましょう。

その後、使用頻度の高い道だけを舗装したほうが、ずっとよろこばれるはずですし、費用や労力もショートカットで安あがりでしょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

商人の道

2018-07-09 | 古今北東西南の切抜
(cartoon/Yoshihiro Tatsumi)

農民は連帯感に生きる。商人は孤独を生き甲斐にしなければならぬ。総ては競争者である。

農民は安定を求める。商人は不安定こそ利潤の源泉として喜ばねばならぬ。

農民は安全を欲する。商人は冒険を望まねばならぬ。絶えず危険な世界を求めそこに飛び込まぬ商人は利子生活者であり隠居であるにすぎぬ。

農民は土着を喜ぶ。大地に根を深くおろそうとする。商人は何処からでも養分を吸い上げられる浮草でなければならぬ。其の故郷は住むところすべてである。

自分の墓所はこの全世界である。先祖伝来の土地などという商人は一刻も早く算盤を捨てて鍬を取るべきである。

石橋をたたいて歩いてはならぬ。人の作った道を用心して通るのは女子供と老人の仕事である。我が進むところそのものが道である。他人の道は自分の道ではないと云う事が商人の道である。

-切抜/江上剛「二人のカリスマ」日経ビジネスより
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

あったとき、ないとき。

2018-07-07 | 世界の写窓から
(photo/source)

しかしほんま、そうです。

なんでもある時は、いずれなくなるということは考えませんけど、ない時は、あった時のことをよう考えるもんです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

The Bygone Days

2018-07-03 | 意匠芸術美術音楽
(photo/original unnkown)

The Bygone Days - Porco Rosso
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

学習への視点

2018-07-02 | 古今北東西南の切抜
(video/source)

何かが起こると考え、それが実際に起こったときは、あまり学ぶことはない。

何かが起こると考えたのに起こらなかったときは、重要な学習をしたことになる。

そして、何か小さなことが起こると考えたが、ふたを開ければ意外な結果が生じ、それがブレークスルーに繋がった時は、極めて貴重な学習をしたことになる。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

明日は待っている

2018-07-01 | 世界の写窓から
(gif/source)

花園みたいにまっている。
祭みたいにまっている。
明日がみんなをまっている。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまっている。

明日はさなぎが蝶になる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまっている。
泉のやうにわいている。
らんぷのようにともってる。

-新美南吉「明日」より
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

難儀を力にする思想

2018-06-29 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(quotes/No regret ~ Milarepa)

ライナー・マリア・リルケは次のような言葉を残した。

“毎日の生活が哀れむべきものに思えるとき、生活を責めてはいけない。自分自身を責めるのだ。生活の豊かさを引き出せるほどの詩人になっていないのだと、自らに告げるのだ。なぜなら、創造者には貧困も困窮もなく、無意味な場所などありえないからだ”

孟子は「告子章句下」の中で次のように述べている。

“生於憂患, 死於安楽” -憂患に生きてこそ、安楽に死ねる-

聖ミラレパの言葉は、“悔いる”ということすなわち、“難儀”の発生源だと示唆しているように思える。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

'Libertango'

2018-06-28 | 意匠芸術美術音楽
(painting/Paul Kenton)

The Swingle Singers Music Video Piazzolla 'Libertango'
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

synergy

2018-06-27 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

社会的シナジー(相乗効果のある協力)の備わった社会制度の下では、利己的な目的を追求することが必然的に他人を助けることにつながり、また愛他的・利他的で他人を助けようとする行為が、自ずと、そして必然的に自分自身にも利益をもたらすということである。

自己実現者は利己主義と利他主義という二分法を超越した存在であり、そのことはさまざまな言葉で表現することができる。

自己実現者は他人の喜びによって自分の喜びを得る人間である。つまり、他人の喜びから利己的な喜びを得るのであるが、これは利他主義的なことといえる。

たとえば、私が自分の幼い娘に私のイチゴを与え、そのことから大きな喜びを感じるとしよう。自分で食べても喜びを味わえることは確かだ。だが、大好物のイチゴをおいしそうに食べる娘の姿を見て楽しみ、喜びを覚えるとすれば、この私の行為は利己的なのだろうか、それとも利他的なのだろうか。

私は何かを犠牲にしているのだろうか。それとも、愛他的な行動を取っているのか。結局は自分が楽しんでいるのだから、利己的なのだろうか。

ここではっきり言えるのは、利己主義と利他主義を互いに相容れない対立概念としてとらえることには何の意味もないということである。

両者は一つに溶けあっているのだ。私が取った行動は全面的に利己的でもなければ、全面的に利他的でもない。利己的であると同時に利他的であると言っても同じことである。より洗練された表現を用いれば、シナジーのある行為なのである。

すなわち、我が子のためになることは私自身のためになり、私自身のためになることは我が子のためになる。また、我が子に喜びをもたらすものが私に喜びをもたらし、私に喜びをもたらすものが我が子に喜びをもたらす。互いを隔てる境界線は消え去り、二人は同化し、機能という点から見て理論上は一つの単位となるのである。

このような例は頻繁に見受けられる。深い愛情で結ばれた夫婦がいれば、我々は二人を一つのまとまりとして扱うようになるものだ。夫婦の片方を侮辱すれば、その配偶者をも侮辱したことになり、逆に一方を誉めれば他方も心地よさを感じるのである。このことは愛とは何かを実に見事に言い表している。

すなわち、愛とは二人の人間の異なる欲求が融合し、共通の欲求をもった新たなまとまりが誕生することなのだ。また、こうも言えよう。相手の幸福が自分を幸福にする時、相手の自己実現が自分の自己実現に劣らぬ喜びをもたらすとき、さらには、「他人のもの」と「自分のもの」との区別がなくなるとき、そこに愛は存在するのだ。

二人は共有し、「われわれが」「われわれを」「われわれのもの」という言葉が聞かれるようになる。相手の幸福が自分の幸福にとって必須の条件となっている状態。それを愛と定義することもできる。

シナジーも愛に似ており、愛における同一化と同じものが認められる。シナジーとは、複数の人間を事実上同一人物として扱えることだと言ってもよいだろう。複数の人間があたかも一人の人間であるかのようになっていて、協力し、融合して、新たなまとまりを形成すること。それがシナジーなのである。

このまとまりという単位は各個人を包含する上位概念であり、そこでは個人の差異が解消されている。

-切抜/A.H.マズロー「シナジーに関する覚え書き」より
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

みそにはこうじ、玄関には玄関。

2018-06-24 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

ある日、友人の紹介で人が来た。客は、わたしをつかまえてさっそく質問を発した。

「先生、料理の根本義についておきかせください」
そこで、わたしは言下に答えた。
「食うために作ることだ」
客は物足りぬ顔をしながらまたきいた。
「食うために作ることですか、先生。そんなら、なんのために食うのですか」
「そりゃ生きるためにだ」
「なんのために生きるのですか」
「死ぬためにだ」
「まるで先生、禅問答のようですね」
わたしは笑いながらいった。

「君がむずかしいことを聞くからだ。料理の根本義について……なんぞいい出すからだよ。もっと、あたりまえの言葉できけばいいではないか。むずかしい言葉を使わぬと、本当のことや、立派なことがきけないと思うているとみえるね」
客はあわてていった。
「いえ、決して……。では、あたりまえの言葉で伺ったら、先生は本当のことを教えてくださいますか」
「うむ、あたりまえの言葉で聞いたら、あたりまえのことをいってやるよ」
客は、ここでもまたあわてていった。
「あたりまえのことなら、伺いたくないのです。先生、本当のことをききたいのです」

「あたりまえのことが、一番本当のことだよ。君は、本当のものを見ないから見まちがうのだ。耳は、本当のことをききたがらない。舌は本当の味を一つも知らないから、ごまかされるのだ。手は、あたりまえのことをしないから、庖丁で怪我をするのだ」
「分ったようで、分りません」

「そうだ、なかなか、あたりまえのことは分りにくいものだ。いや、分ろうとしないのだよ。ハハハ……」。
 
客は帰りぎわに、なにか書いてくれといった。玄関へかけるのだという。そこでわたしは、さっそく客のいう通りに、色紙をとりあげ、筆をもった。
「玄関へかけるのですから」
客は、念を押して頼んだ。
 
そこでわたしは「玄関」と書いて渡した。
「先生、玄関と書いてくださったのですか」
「そうだ」

客は、まだなにかいいたそうであったが、なにもいわずに帰って行った。

玄関であっても玄関でないような玄関もある。さっきの客も、入り口だか、便所だか、靴脱ぎだか、物置だか分らぬような玄関を作ったのかもしれない。そうでなかったら、あんなこねまわした質問をするはずがない。さっきの客も、また、その客を訪ねて行く客も、間違わぬようにと思って、わたしは親切に玄関と書いてあげた。
 
樹木でも、日陰に植えて育つものを、日向(ひなた)に植えたり、砂地を好む木を赤土に植えたりしては可哀そうである。それと同じように、料理も、焼けばいちばんおいしいものを、煮てみたり、刺身にすればいい持ち味のものを焼いたりしてはいないだろうか。わたしは先ほど客に、食うために作ることだ、と返事をしたが、食うためにということは、馬や牛が食うためではないはずだ。

手のこみ入ったものほどいい料理だと思ってはいないか。高価なものほど、上等だと思っていないか。わたしのいいたいことは、たくさんある。わたしの話すことは、それこそほんの料理の玄関にすぎないかもしれない。だが、諸君、先生を訪(おとなう)なら、堂々と玄関より訪れたまえ。そして、無事に玄関を通してもらえたら、すなわち諸君の足で廊下を通って主人に会うて、諸君自身の口でしゃべりたまえ。

諸君は諸君の目で見、耳で聞き、舌で味わいたまえ。そして、諸君の一時的な、アプレゲール的でない頭で考えて、充分に楽しい生活をしてくだされば、わたしの喜びはこれに過ぎるものはない。

切抜/北大路 魯山人「尋常一様」より
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Rock Fort Rock

2018-06-23 | 意匠芸術美術音楽
(gif/source)

The Skatalites - Rock Fort Rock


彼はあり金をはたいて、盗難よけのベルの製造をはじめた。

製品が出来たので、彼は注文を取って廻った。

そして帰って見ると、製品の盗難よけベルはいつの間にか一つ残らず盗まれていた。

-織田作之助「ヒント」より
コメント
この記事をはてなブックマークに追加