南無煩悩大菩薩

今日是好日也

牧野翁語録。1.

2008-09-10 | つれづれの風景。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美(たんび)するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。

花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つことであろう。

花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。

-牧野富太郎-


*まきのとみたろう
1862年生まれ。様々な苦難の中で独学で植物学に取り組み、植物分類学の世界的権威となる。新種1,000種、新変種1,500種以上の日本植物を命名し、採集した標本は60万点に及ぶ。
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牧野翁語録。2.

2008-09-10 | つれづれの風景。

花は、率直にいえば生殖器である。

有名な蘭学者の宇田川先生は、彼の著「植物啓源」に、「花は動物の陰処の如し、生産蕃息(はんそく)の資(とり)て始る所なり」と書いておられる。

すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べ物にはならない。

そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。

まず花弁の色がわが眼を惹きつける、花香(かこう)がわが鼻を撲(う)つ。

なお仔細に注意すると、花の形でも額でも、注意に値せぬものはほとんど無い。


-牧野富太郎-

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牧野翁語録。3.

2008-09-10 | つれづれの風景。

私は、草木に愛を持つことによって、人間愛を養うことができる、と確信して疑わぬのである。

もしも私が日蓮ほどの偉物であったなら、きっと私は草木を本尊とする宗教を樹立してみせることが出来ると思っている。

自然の宗教。その本尊は植物。

なんら儒教、仏教と異なるところはない。

もし諸君が植物を学んでいささかでも植物趣味を感ぜられ、且つあわせて植物知識を得られたならば、私は大いに満足するところである。

-牧野富太郎-

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