南無煩悩大菩薩

今日是好日也

而して花。

2010-03-30 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

「一座の建立」という言葉がある。
複数以上の人が集まれば、一座となり、その座を佳きものと立て舞うことを目指す言葉だと私は受け取る。

室町時代の連歌師、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)さんは、一座の建立を志す客人ぶりとして避けるべき雑談を、
「我が仏、隣の宝、聟舅、天下の軍(いくさ)、人の善悪」であるといった。

つまり、自分と違う人の立場によれば、いやな思いや誤解をさせる可能性のあることを、ぺらぺらと喋るなということだ。


いたるところ、主あり客あり一座あり。

格調高い一座の建立を成せば、それは又逢いたい人、また行きたい処として、心に刻まれる。


やよい3月いたるところ 桜花あり。


食べてよし。

2010-03-29 | つれづれの風景。

色には、綺麗な色と美味そうな色とがある。

これは、なんだか食欲をそそる色。


そういえば、アンブローズビアスさんの悪魔の辞典の「食用の」という項目にこんなのがある。

「食べてよし、消化も良くて健康的な。たとえば蛆虫(うじむし)はヒキガエルに食われ、ヒキガエルは蛇に食われ、蛇は豚に食われ、豚は人間に食われ、人間は蛆虫に食われる」


花びらちぎって食ってみる。

ん。散ってよし。食べてよし。


名前。

2010-03-27 | つれづれの風景。

お。アイスバーグじゃないか。

ちょっと見ない間にずいぶんと変わったなぁ。

以前は確か薔薇のようだったが。

すっかり、スズメのようになっちまって。

よ。アイスバーグ、元気かい?



わたくし、ここでは、自称、無屋と名乗っております。

英語にすると、屋が無いので、

Ya No

本名では、そう呼ばれてます。



名をとるか実をとるかという話がございますが、
実はわかりやすいにしても、名はそのとりかたが、難しいもんでございます。



刻銘。

2010-03-26 | つれづれの風景。

「わかりません」
ではなく、確認してみなければ、なんともいえない。

「できません」
ではなく、考えて見なければ、なんともならない。

「なくてはならない」
ではなく、必要があるかどうか、「なければこまる」かどうかの問題となる。


安易に「わかりません」「できません」と言ったら私はそこで終わる。
「なければこまる」と言われなければ、そこでも私は終わる。


選択肢がない。
余地がない。
意味がない。ことをしようとせずに。

間違っている。
より良い。
新しい。
妨げられている。
親切な。ことをしようと心がけてみる。


そんなことを思いつつ、
金剛峰寺(こんごうぶじ)の刻銘に、
今後無事を祈る。

やればできる。

2010-03-24 | 有屋無屋の遍路。

二宮尊徳翁は、しこたま勉学に励んだ。

その強靭なまでの学習意欲が、行動の中心に座った人物であります。

仕事をするために学習をしたのではなく、学習するために仕事をしていたとおもえる程です。


また自覚の人でもありました。

学習と自覚とは切っても切れない相関にあるようです。

自覚によって学習の必要性を悟り、学習によって自覚の信憑性をより高める。

自覚と学習のスパイラルの高度化は、

内面のやすらぎと安定。
落ち着き。
調和。
自己管理。
動機付け。
コミットメント(絶対的意思)。
忠実。
献身。
および積極的な思考を育てるといわれます。

なにもない、徒手空拳を余儀なくされた生い立ちから、自己という唯一つの財産を、勉学に励むという唯一の手段に徹しての成功は、「やればできる」の具現者としての光明を示してくれます。

自覚は、現実的で実質的な反省から生まれます。

ソクラテスさんは、「思い省みることのない人生とは、生きる価値がない。」とまで言い切りました。

やればできるのは、自覚と反省と勉学の良好なスパイラルによって自己を成長させるからです。

やってもできないのは、やっていることの度合いと自己の自覚度合いとのミスマッチあるいは乖離にあるようです。


才覚いかんに関わらず、

できるだけ、
できればできるだけ、なるべくできるだけ、
できるだけできるだけ、
やればできる。

尊徳さんという人物の教えてくれるところを、そんな風に考えてみるのであります。

行来。

2010-03-23 | つれづれの風景。

木瓜(ぼけ)にメジロ。



寒緋桜にもメジロ。


鶯色に似ているが、ウグイスではなくメジロ。

いくら待っても、ホーホケキョとは鳴かない。

遠くの声に、近くの姿。

遠くでホーホケキョの鶯には、なかなかお目にかかれない。


なかなかお目にかかれないよりも、四六(シロク)時中お目にかかれるから、メシロ。

目の周りが何故白いかといえば、茶色だったら、メチャになる。

そんなことはないか。


もとい、

花は、山に咲く里に咲く野にも咲く

鳥は、山で鳴く里で鳴く野でも鳴く

どこに行っても、春が来ている。

発着のゆくえ。

2010-03-20 | つれづれの風景。
パンジー。



パンジー。。



チンパンジー。。。




かのアインシュタイン博士は、思考や思索において、行き詰ったり壁にぶち当たったときには、「意識のジャンプ」が必要だといいました。


パンジージャンプ!。



?そもそも、前提にムリがあるのではないかと。

なにかが間違っているのではないかと、発想と着想の転換を図ってみる。


山茱萸。

2010-03-19 | つれづれの風景。

この花は、サンシュユという木の名の花だという。

朝鮮から、薬用として渡ってきたものだそうだ。


そういえば、かの半島の北の国では、先日デノミ(経済政策)に失敗し、その監督的立場の人間が死刑になったという。

なんたる惨醜。

これが体制の犯罪でないならば、もはや病気である。

この植物には、解熱作用や生理不順や冷え性、不妊やインポテンツなどを改善する薬効があるという。

原産の地でこそ、熱を冷まし、不順を正し、幸せを産みだすような薬効を発揮して欲しい。

かの地でも今、この幸せの黄色い花は咲き誇っているだろうに。


この国にいる幸運を思う春です。


私に餌を与えないで下さい。

2010-03-18 | 有屋無屋の遍路。

人に魚を一匹与えれば一日の食事になるだろう。
人に釣り方を教えれば一生の食事になるだろう。
-unknown-


親が子に、先輩が後輩に、上司が部下に、先生が生徒に、政府が国民に、おこなう教育的なふるまいにおいて、
肝心要は、与えて消費を促す援助をすることではなく、
その人にあったやり方で、
課題を消化する「力」への自助自立的な開発の援助をすることだと思います。




みつばちマーヤが、弱くても強いのは、そういうところにあります。

いくらえらそうにいっても、結局人は人に対して自分の意見を押し付けることしかできない。

だから、しんどいけれど、個人の一生の食事を考えれば、孤独と挫折のみつばちマーヤの境遇を経験するほうがいい。

それらをけなげに克服しながら、マーヤは大人の蜜蜂へと成長し、生きる力を蓄えます。


与えられて生きていることに慣れると、まちがいなく私たちはつけあがる生き物のようです。



おねがいです。私に餌を与えないで下さい。

春芽追分。

2010-03-16 | つれづれの風景。
なんみょうほうれんげきょう。

で、連翹(れんぎょう) のつぼみが膨らんでいる。



花粉の季節で、鼻かいどう

で、花海棠(はなかいどう) のつぼみも膨らんだ。



鮮烈な芳香を漂わせて

沈丁花(じんちょうげ) のつぼみが開き始めている。

ちょうじちょうじあばばかいくりかいくり おつむてんてん。


はるのよちよち散歩は、よちよち。


風流に酔う。

2010-03-13 | 酔唄抄。

酒呑みは、洒落者が割合多いものです。

ジョークや駄洒落、符牒合言葉、など良く使います。

よっぱらい同志の平等意識と連帯感を深めると共に、ちょいとした口裏あわせに使ったりもします。


「水辺に酉(とり)あり、山に山を重ねんや」
で、
「酒(さんずいにとり)を出(やまふたつ)しましょか」
と洒落たり、


きょうは濁酒(どぶろく)でも呑もうかというときは、
「24でも呑(や)りますか」といったり。
つまり、シロク(4×6)濁っているので。
などと、符牒を使ったりします。



そういえば、
酔っ払うとつい、「時を天に任して」酩酊してしまいますが、
過日の新聞には「テン、トキを襲う」と出ていました。
任せすぎもいかんなと思った次第です。


チョイワル親父とかはやってましたが、わたしはいつも濃い目のハイボール。
ちょい割る親父でございます。

・・・。


風流にはほど遠くござんすが、それでも酔っ払いは、憂いを笑い、少しでもチャーミングに呑めるよう修行をしておるのでございます。


適度な緊張。

2010-03-12 | 有屋無屋の遍路。

デジタル化できるものはすべて、もっと賢いか、安いか、あるいはその両方の生産者にアウトソーシングできる。-「フラット化する世界」-

豊田を世界のトヨタにした原動力は「改善」思想、
ミスター・カイゼンともいえる大野耐一氏は、
「まねされたらもっと先に行け。どうせたいしたことはやっておらん。会社は無駄の塊や」と激を飛ばしたそうだ。


なんにおいても、他者よりも優位性を得るためには、優位であるというところへの必死のパッチがいる。

全ての優位者は、なんらかにおいて、その席を交代するのは、史実にみるとおりでもある。


前には、膨大なチャンスと困難とがあり、後ろには数多のスナイパーに狙われ、横には席を取り合うコンペティターで溢れている。

どんな仕事でも、優位性を保てなければ、その先は、退場か引退が待っている。


経済学者がなんといおうと、コンサルタントがどういおうと、おへそでお茶を沸かそうが沸かすまいが、収まるところに収まるべくして収まるのではないだろうか。

このことは、どうかんがえても、納得しておかなければいけないことだろうと思える。


安寧の地などないこの現実への直視は、不安を起こし精神を安定させない。

しかし、不安のない安穏とした精神は、人を馬鹿へと導くようだ。


適度な緊張状態に身を置くことで、身に浸みる反省や感謝が生まれる。

改善はそこが出発点だ。


水面の揺れる睡蓮が、そういうことじゃないのと言っている。