南無煩悩大菩薩

今日是好日也

自然の道(タオ)

2022-08-31 | 古今北東西南の切抜

/篁牛人)

大道廃れて仁義あり 智慧出でて大偽あり 六親和せずして孝慈あり 国家混乱して忠臣あり

ー老子 第十八章

「大道」すなわち自然の道に一致したおこないのできる人が世間を率いていれば、特別に仁とか義とか言うことを取り立てて教える必要はない。しかし大道が廃れて、道に合わない行いをするものが大勢出てくるものだから、これではいかんというので、初めて仁というものを説いたり、義というものを説いたりして、いわゆる教えというものを必要とするようになる。そしてだんだん仁とか義を説くことが主になって、本来の自然の道に合うか合わないかということを深く考えないようになってしまう。

それから人間が智慧を磨くということは、悪いことではないけれど、しかし智慧のみを主として世の中を治める方法を工夫することのみに力を用いるようになると、法律や制度が多く出来たり整ったりして、表面は良いようだけれど、法律ができればその法律を搔い潜ることを考える者が多くなってくる。制度が整えば、その中において自分の「私」を営む者が多く出来る。「大偽」というのは、表面は正しい人間のように装っていて実際は偽りを構えて自分の私利を計る者のことで、そういう者がだんだん増えてくる。盗賊とか人殺しとかいうものは大変な罪のようであるけれどもむしろその害は少ない。国家のためであるとか社会のためであるとかいうことを装って、自分の「私」を営むほうがどれほど罪が大きいかわからない。その大偽が世の中に行われてくる弊害を大いに戒めなければならない。

「六親」というのは親子兄弟夫婦で、すなわち一族のことを云うのだが、とかく世の中に一家一族の睦まじくない者が多くなってくるから、あの家の子は誠に親孝行だとか、この家の親はたいへん子供をかわいがって情愛が深いとかいうように、孝とか慈とかいうことが目立ってきて、それが世の中に褒め称えられるようになる。実は親孝行の子も情愛の深い親も目立たない時代の方が本当は良いので、皆が仲良くしていれば別にそういうものは目立たない。世の中で手柄を立てた人を褒めるけれど本当は手柄を立てないで済む方が良い。例えば、警察が行き届いていて、泥棒をすぐに捕えると褒められる。しかし世間が平和で泥棒の出ないようであればそれが結構である。したがって手柄を立てる者もなく、別に褒められる者も無くなってしまうが、目立って手柄を立てないで済むような時代が我々の理想でなくてはならない。

国家の事もみなそのとおりである。国家が混乱して君主の地位も動揺するというようになると、そこで忠義を尽くす臣下というものが現れる。国がよく治まっていれば、特別に忠義を尽くすという者はなくても、皆がその地位に安んじて自然にすべての事が運んでいくのである。これが理想の世の中でなければならない。

世の中では忠とか孝とか、仁とか義とかいうものをしきりに貴んでいるけれでも、そういう忠孝仁義の土台となるものを考えなければならない。それは自然の道に基づいて、人々が皆「私」を捨てるということである。その本となり末となるものの関係を明らかにしないで、いたずらに末を追っていれば、いつまでたっても人々は本当に平和な生活を楽しむことはできない。これはいかにももっともなことで、いつの時代でも最も適切な教訓と言えるであろう。

ー参照/小林一郎 「経書大講」より

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同生同死

2022-08-18 | 古今北東西南の切抜

煩悩を除いてしまって、外に真如は無い。迷いを取ってしまって、外に悟りはない。

夜を除いてしまったら、昼というものも無くなる。暑いというものを取ってしまって寒いということは無い。汚いものを取ってしまえば、綺麗なものは無い。綺麗というものがあるから、汚いというものがわかる。夜というものがあるから昼がわかる。長いというものがあるから短いということがわかる。硬いというものがあるから柔らかいというものがわかる。

人々は真如といえばこれを望み、煩悩といえばこれを嫌う。これは普通の考えであって、やはり真如は良いもので、煩悩は悪いものであるに相違ない。しかしわが禅の上においては煩悩そのままが真如であるというのである。

煩悩を除かずして、ただちに真如の悟りを手に入れるようにしなければならぬ。煩悩は悪いものであるから、これを除いて望むところの真如を手に入れようとしても、それは無駄骨になってしまう。煩悩を除こうとするのは、あたかも病の上にまた病を増すに等しいものである。

時々わしの寺へ訪ねてきて、「自分は精神修養をしたいと思います。それには座禅が一番良いと思ってやっておりますが、どうも平生妄想が多く、次から次へと妄分別ばかり出て、どうしてもとることができません。これを除かないうちは、悟ることができませんか?」と言ってくるものがある。

それでわしは、「それならお前ひとつ歩いてみたらどうじゃ、歩いたら影ができるに相違ない。その影をひっとらえようと思って、いかに走っても、お前が走れば走るほど、影も従って走る。お前が払えば払うほど、影が大騒ぎを演ずる。煩悩が嫌じゃと思ったらそっとしておくがよい、そうすると影も動かぬ。煩悩を取ろう、妄想を払おうと思うなら、まず煩悩と一所に煩悩の内に入り、妄想と一所に妄想の中に入り、苦しければ苦しいものと一所になってしまいなさい。いやしくも苦しみを除こうとは思わずに、苦しみの中に徹底して這入るのでなければ、本当の安楽はできないのである。それを離れて他に取ろう、それを除いて別に持って来ようということは、労して効なき話である」と言う。

この説明を聞いて大抵の人はわかるかわからぬか知らぬが、とにかく頭を下げて帰って行くのである。

ー切抜/菅原時保「禅窓閑話」より

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