南無煩悩大菩薩

今日是好日也

耶蘇の里。

2009-04-30 | つれづれの風景。

基督教は明治の初めくらいまではまだ耶蘇と呼ばれていた。


秀吉公以来、家康公を経て明治維新を待つまで、この派は、表立っての信仰を抑圧されてきた。


耶蘇の隠れ里がある。其処に立つのは、隠れキリシタンにとっては、最大の庇護者であった、大名高山右近公である。


今はのどかな棚田が連なり、蓮華や菜の花咲き敷き蝶舞う山里を見下ろす場所に公の彫像は立っている。


風景は、その背景を思いながら見ると、又格別な情景になるようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会性。

2009-04-28 | 有屋無屋の遍路。

10年1日の如く、シベリアあたりの永久凍土から、過去に葬られた遺体を掘り出し、当時の感染ウィルスの研究に人生を捧げている人々がいます。

第一次世界大戦当時のパンデミックにより世界に広がったウィルスの抗体は今の豚ウィルス型に近いとも言われているようで、この人たちがそれを行ってくれていたおかげです。

インフルエンザを初め、伝染病の過去の脅威を発掘研究する事が、どれほど今の私達の安全・予防に役立っているかはわからない。

牛の死体を調べ、鳥の死体を調べ、今又豚の死体を調べながら、人類への脅威を少しでも取り除こうとしている人たちがいます。

新たな脅威の最前線にいる人たちは、我が身に降りかかる未確認の危険にも敢然と立ち向かっているはずです。

私達は、実際に知ることも、思い至る術もない現場、そこで繰り広げられている人類の歴史の様々な献身的な活動に支えられて、存在させてもらっていることを痛感します。



好き嫌いをいってはいけません。

手を合わせなさい。

と世の母は子供に諭す。

牛でも鳥でも豚でも野菜でもギョーザだろうが、感謝して食べなさい。と。

その訳は、そういうことなのだ。

誰かの献身を無駄に利用してはいけないのだ。

全ての理由は、わからない人生だから、全ての恵は献身という土壌から出来ている。その献身に感謝しなさい。と。

安全や安心や進歩を享受できるのは、それを支える人たちがいるからであり、それを当たり前だと思っていたら、罰が当たるとの教えなのである。

誰かの献身を無駄に利用することほど、罪作りなものはないのかもしれない。

えてして子は親に甘えるものでもある。

親への甘えは程なくしても、献身的な誰かへの甘えは、我侭傲慢という罰となり身を危険にさらすだろう。


しかし。


わが子よ。君もやがては知るだろう。

いただきます。とごちそうさま。の本当の意味の所在を。


そして君になってほしい。

社会の異物ではなく、献身的な社会の一員に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むすんでひらいて。

2009-04-27 | つれづれの風景。

咲いた咲いたちゅーりっぷの花が

並んだ並んだ赤紫に黄色

どの花みても綺麗だな。


どの花もどの唱もどの道も歓あり。

いわゆる甲乙付けがたし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あこがれの顔。

2009-04-25 | つれづれの風景。

性格は顔に出るというが、この顔はいい。

山里の小集落の高台の鎮守の森に鎮座する天満宮の牛爺さんである。

なんともうらやましい風貌である。

わし、うしですけどそれでなにかございましょうや?

凛々しいものを秘めながらも茫洋とした奥ゆかしさがこの顔にはある。

確かな年輪を擁するのでありましょうなぁ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

混じり八重。

2009-04-24 | つれづれの風景。

白い八重と桃の八重とが一緒に咲いている。

同じ木に違う色の花が咲くカラクリはわかりませんが、なかなかの枝ぶり。

金平糖も白玉にところどころピンクの混じっているのは上品な感じがする。

コンペイトウと違って、咲く花の混じり具合を意図する比率に管理できるものかどうかはわからないが、自然に任せたものには、割合のいいものが多いと感心したりする。

うまい料理人や職人さんが言うのには、ええ塩梅というのは、きっちりはかるより経験上の目分量が一番上手くいくらしい。

まじりっけの良し悪しは、バランス感覚なので多分に繊細さを求められるのだろう。


塩梅のよろしい混じり八重が咲いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蜂の熊公。

2009-04-22 | 有屋無屋の遍路。

図体がでかいわりに蜜を好むところなんざぁ、熊にそっくりじゃねえか。


おーい熊公!山躑躅の蜜はうめぇか?

なぁにぃ?食いすぎて屁ぇこいたってか。

やっちまったなぁ。

そりゃおめぇ、ぷーさんってんだ。


あ。飛んでいっちまいやがった。


さようおなら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足下。

2009-04-20 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

足下一尺一寸の風景。

寝そべって、大地の草いきれの芳香を含む。

幽(をぐら)なり。

拈華微笑は、足下(そっか)にあり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傘。

2009-04-18 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

君は覚えているだろう。

傘を差しかけられたことを。

それは雨の日に限らず。

そのひとは、多くを語らない。

そのひとは、そっと差しかける。

君の琴線は奏でる。

慈しみというものの調べを。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カラフルなチューリップ。

2009-04-17 | つれづれの風景。

が咲きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白いチューリップ。

2009-04-17 | つれづれの風景。

も咲いております。

一際目立つは、紛れ込んだ種子か、メンデルの言う遺伝か。

それは不明です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄色いチューリップ。

2009-04-17 | つれづれの風景。

咲いております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チューリップの気持。

2009-04-17 | 酔唄抄。

なんと言ってもチューリップは赤だろう。

ただ、白もいい。黄色だっていい。ま。どんなんもよろしい。

子供の頃、酔っ払いの叔父貴は酩酊してくると、「わしチューリップの気持んなった」とよく言っておった。

なんのこっちゃとわからぬまま、過ごすこと暫く。

今になるとよくわかる。

大柄の蕾が開き大杯の盃よろしく、その花弁は潔くも咲き落ちる。

一杯で喉を潤し、二杯で蕾は開き、三杯で上乗と咲き誇り、も一つ飲めば、チューリップの気持。なのである。

ポテチン沈没、我が人生に悔いはなし。

餓鬼ではわからない。この気持。


忌憚を許し、憂いを払い、嬉しい酒に憩えば、チューリップの気持。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろの風景。

2009-04-16 | つれづれの風景。

キャトル・クルール。

フランス語では、4っつの色をこう呼ぶらしい。

三色旗のトリコロールは有名であるが、4色の呼び方は知らなかった。

コローレは、色であるが、コロールになったり、クルールになったりするようである。


写真機をぶら下げてぶらぶらする事の楽しみは、何気ない風景も撮って見ることで、知っている事を思い出し、知らないことを調べてみようかという、動機付けになることでもある。


こうしてネット上に無駄に載せてみることも、同時に意味検索できる環境にあるので、アナログの時のように、何を調べたかったかを忘れてしまうようなこともない。

いまや知識的なことは、すぐに手に入る。

こうなってくると、俄然知恵の使い方に脚光は移るだろうなぁ。


常識を知ってはいてもいざ使うとなると、なかなか使いづらいものでもある。

知識も同じようなもんだろうか。

内の常識。外の非常識ともいう。

トリコロールで思い出したが、確か三段ロケットの国も3色であったような。

平和、友好、未来、を現す3色だったかどうかはわからない。


キャトル・クルールから脱線してしまった。

知識を得たからといって、知恵に消化するのはなかなか難しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あいまいな刺激。

2009-04-14 | つれづれの風景。

さるすべりの木は見ていて飽きない独特の造詣感がある。

寝っころがって何気なく見る、天井のしみなどもおなじで、いろんなものに見えたりする。

ロールシャッハテスト等でも用いられる、そのような投影的な造詣感は、個人的な性格や心理と密接に結びついているらしい。

さるすべりの木も天井のしみも、あいまいな刺激から、何かを感知するというのは、もしかしたら私達の生存に関わってきた原初的な能力のようにも思える。

こわがりには、ただの布の切れ端でも幽霊にみえるように、先入観も含め、見立ての心理は、その生存の世界観に根ざしたもののように思われたりもする。

それそのものとはいえないまでも、それと見てとる感覚は、視覚というよりも、同じような臭いを嗅ぎ分けるという、嗅覚的な感性が大事なような気がする。


私は、子供なりし時、布団にある種の造形を施し、これぞ失われた大陸ムー大陸ではないかと、感じいぶかったことがある。どうもそのように臭うのであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事。

2009-04-11 | つれづれの風景。

静止しているブランコ。

私が少し押せば、ブランコは揺れ始める。

物理的には私が仕事をしたことになる。

仕事の定義は、移動や運動を与える。つまりあるエネルギー、力をもって対象を「動かす」ということで、子供達がブランコで遊ぶのは、ブランコというある仕組みに対して、的確な仕事をしたうえで、その果実を楽しむわけである。



ブランコの腰掛部分を、重力や重量に耐えて維持する鎖は、子供達の安全を守るという意味においても立派な機能だ。ただ、静止している状態では、その強度を確かめられない。鎖が本来の仕事に耐えられるものかどうかがわからない。

自分が仕事をして、対象を動かしてみて、その機能の強度はわかる。

ん。物理的に考えてみるのも面白い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする