南無煩悩大菩薩

今日是好日也

浮景。

2008-01-29 | つれづれの風景。

空に浮かんでいるものが水に浮かんでいる。

杞の人々が憂いたようなことが起こるべくも無い。

空が落ちてくる。

杞憂である。

水に浮かんだ月を取ろうとしている猿のように間違うわけでもない。

月の影取るましら。


楼閣の影が水止鏡明に浮かんではにじむ。

記憶や夢の曖昧さや、それにつきまとう無銘の事実は、一服の浮景である。

あらぬそらにあらぬ楼があらぬ水に浮かびあらぬ姿を見せている。

空を見ているのか、楼をみているのか、水をみているのか。

わたしはいったい何をみているのだろう。


なぜに玉葱。

2008-01-28 | 有屋無屋の遍路。

流れる曲線がうねりながらひろがりえもいわれぬ感度でふくらみしゅうそくする。

重ね着をひらひらとぬぎおとすそのたびにおぼえる可憐。

まっしろでつややかなはだみにただよういとおしきも浮き立つ色香。


ああ。


なぜにお前は玉葱。


きりきざまれるわがみこころのせつなさよ。

涙が出るぜ。


類推。

2008-01-26 | つれづれの風景。

以前から鬼瓦を撮っていて思うことは、いくつかの趣の系統に分類されるのではないかということだ。

とにかく力強い系統。睨みつけながらもどこか愛嬌のある系統。まるみのある優雅な系統。というぐあいに。

断言は出来ないが、鬼瓦職人の出自や窯の土着性や、産出風土、作製年代かなにかによって、流派とでも呼べるものがあるようだ。

鬼瓦に限らず、人は何事においても類推の感性をもともと備えているようだ。

その類(たぐい)のものを纏め上げ、違う類との相違点や相似点を基準に分割管理することで、それそのものがどの類に当てはまるか当てはまらないかを推理する。

認知・識別能力とも密接にかかわりを持つであろうこのような能力が、どのようなメカニズムで出来上がるのか不思議なことである。

そういえば。

「そんなの関係ねぇ」と「あっしには係わり合いのねぇことでござんす」と。

時代を超えてリバイバルした、はやり言葉の映す時代性には、どのような類推が成り立ち得るのだろうか。


花札。

2008-01-25 | つれづれの風景。

松に鶴。や、梅に鶯の図案も美しい日本のカードゲーム、花札。

実は、松にコウノトリ。梅にはメジロ。だという落ちもつくようだ。

鶴も鶯も木で生息する習性はないからだという。

間違えたのかわざとそうしたのかは別にして、組み合わせの妙というものはある。

四季を映しながら、日本の風物を図案にした花札の組成は秀逸に思える。

花札の組み合わせの転用では、紅葉に鹿で、鹿肉を粋にもみじと呼ぶ。

猪なべは、牡丹(ぼたん)鍋であるが、花札では、牡丹は蝶とカップルであり、猪は萩とであるが、これも粋な間違いであろうか。

柳の蛙の図案や、月見で一杯。花見で一杯。などなど、うれしい組み合わせ遊びが花札の佳い所だろう。

翻って。


松に禿。


どうもいただけないが、こんなものを松のカス札にしてできあがる48枚があったら面白くないか?

・・・。

失礼いたしました。


結界。

2008-01-21 | つれづれの風景。

意識的に境界を創り、可視化する事で、違った世界への想いを促すなにものかを結界と呼ぶ。

言葉通りなら結ぶ境界である。

立ち入り禁止の青竹の結界等は、入ってはいけない領域界であると同時に、入る事の難しい領域に、結びの境があることを示しているものといえよう。


物理的にいえば、我々は普段から、その気になれば立ち入る事の出来ない場所はない。

しかし、どうも、物理的な経験のみにおいて、精神的な満足が得られるわけでもない。ということを私達はよく知っている。

そこに、生まれるのが結界という、キーワードになっているかもしれない。

入り込めない仲。入り込めない感覚。入り込めないブラブラブラ。


入ったとしても、出たとしても、そこに何の意味も認識も見出せないのでは、その境を越えたことにはならない。

結界という境目は、心の結ばれる境界線を、自らで設定するものであろう。

空気が読めない。とは、そういうことを言うのではなかろうか。


簡単には超えられない認識の結び目ほど、すぐに超えられそうな簡素で優しい姿をしている。


渡り鳥。

2008-01-19 | つれづれの風景。

地球全方位システムを内臓しているのが渡り鳥。

渡り鳥にとって方向音痴は致命傷だ。

よくぞ今年もやってきた。

数々の危険を冒し幾千幾万のディスタンスを渡る。

躊躇はない。

鳥類の冒険野郎、渡り鳥。

尾羽枯れ果てるその日まで渡りは続くのである。

冒険を無謀なものとしないためには備えられるべきものが備えられている必要がある。

渡り鳥達の、しばしの休息。


五劫。

2008-01-12 | つれづれの風景。

ごこうのすりきれ。

寿限無の噺にもでてくる五劫とは時間も越える全ての世界である。すりきれとはそれをも超えよとの寿ぎの言葉である。


山河。という歌がある。

小椋佳さんの作詞である。

「かえりみて恥じること無い足跡を山に残せたろうか

 永遠の水面の光増す夢を河に浮かべたろうか

 愛する人の瞳に 愛する人の瞳に 

 俺の山河は 美しいかと」

五劫ならずともなにごともすりきれるところはある。

ちゃんとすりきれられれば、寿ぎだろう。

ちゃんとできるのだろうか。

私の頭文字は、K.Yである。

これから よくなる。

・・・。

曇り空になれた瞳に映る光は、どうも眩しい。


絡繰。

2008-01-10 | つれづれの風景。

からんでくりだすからくり。

恋のからくり夢芝居。

人はからくりを楽しむが、犬同士はどんなもんだろう。

種の分化の度合いを超えた、2匹の犬は?

楽しみあえるのである。現実に。



「姿かたちに惑わされないで、仲良くしましょうよ。」

「そうやなぁ。
 でもあんまりくんくんするなよ。」


なんてことばが交わされていそうでございます。


そこにどんなからくりがあろうとも、求めることに確かな理由はないのかもしれませんなぁ。


おおらか。

2008-01-08 | つれづれの風景。


天井の高い家で子供を育てると大器になる。などと言われることもあるが、こういう景色を常にみていると、なるほどそうかもしれないともおもえる。

人の視界にはいろいろなものが入るが、不必要なところや、雑多なところをトリミングして、なるべく大らかな気持ちになるところを見るように心がけると、よさそうだ。


青い成層圏いっぱいいっぱいの鳳凰。


話は変わるが、大器の持ち主というものは、案外本人は気付いていないことも多いようだ。

おおらか?おらがか?

控えめなのである。


木の精。

2008-01-07 | 有屋無屋の遍路。

融通が利かず、妙にしゃちほこばった固い事ばかり言う人に、よく言う言葉がおます。

「木の股から生まれた訳でもあるまいに・・」

しかし。もしかしたら。木の精霊はこんなところから生まれるのではなかろうか。


・・・。

それは、きのせい。


新年も七草時から、えらいすんません。

なんや、背中が かゆ くなりました。


願。

2008-01-04 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。


築山の石の大山に願をかける。


諸悪莫作 衆善奉行。

人間是非一夢中。


苔林の森の高さになって願をかけてみた。


造園の縁の地べたに座り込み、賢人の言の葉に模して吾身を叱咤する。


聖徳太子と良寛和尚の言の葉を、願として復唱してみた。

ねがい。とは別物の。がん。をかける。



はつはるうらら。

2008-01-03 | つれづれの風景。

なんてんが。はつはるうらら。

南の天に。初春麗。

ゆっくりと時間が過ぎるのは、この数日。

聞いたような聞いたことのないよな。そんな一日。

見たような見たこと無いよな。そんな一日。

はつはるうららに。うろうろうらら。

よいことありそな。うららうららうらうらよ。


黎明。

2008-01-02 | つれづれの風景。

あけまして。を黎とするならば。

おめでとう。を明としようではありませんか。

年の初めにこそ、燃える火は似つかわしい。

零時零分に燃える火は、黎明の時を照らす。

神の手から、火は人に託された。

唯一火使いとしての忖度を仰せつかった。

火をもてあそぶのではなく、火を大事に使える歳になりたいものであります。

年年歳歳火色同じゅうして、歳々年々顔色同じからず。


今年も一年。よろしゅうお願い申し上げます。

西暦2008年。国暦平成20年元旦にて。