南無煩悩大菩薩

今日是好日也

折々を楽しむ。

2010-06-26 | つれづれの風景。

夏至もすぎて、もう七月。

あついあついといわれるなかも みつきもせぬうちあきがくる。

とかく人はアルミのちゃびん、熱しやすくさめ易い。

四季の移り変わりの激しいニッポン人だから仕方がないか。

ま。それも考えようで、良いことも悪いこともそう長くは続かないものだという、諦念を産むにも到る。

変化を楽しみ、自分を抑え周りを活かすことを喜ぼう。

それが美の壺かもしれないと思うこの頃。


新品の配水管のようになってはいけないのだ。

・・つまらない。

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道徳と不徳。

2010-06-25 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

人間は、自然のうちでももっとも弱い一本の葦(あし)にすぎない。

しかしそれは考える葦である。

これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。
なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。
我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。
だからよく考えることを努めよう。
ここに道徳の原理がある。-パスカル「パンセ」より-


人間は考える葦である。

あまりにも有名なため、僕はこの言葉の基盤にこんな脈絡のあることを知りませんでした。

もっと早くに気付く、いや考えるべきであった。

そのことは、僕の狭小な考えをどのように開眼させ一本の筋を通させてくれるのかということを。

将に、不徳の致す処であったわけです。
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花の白さ。

2010-06-24 | つれづれの風景。

それにつけても、花の白さよ。


先日最年長の従姉がポテチンと逝った。
それにつけても、花の白さよ。


古くからの友人が心筋梗塞をやっちまった。
それにつけても、花の白さよ。


私は、土地は持っていないけど、じぬしだ。
この頃ちょっと痛む。
それにつけても、花の白さよ。
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あざみの教訓。

2010-06-23 | つれづれの風景。

手にとるな ただ野におけよ あざみ花


見るにはよろしき花なれど、その手に欲しくてよれば刺す。

みてるだけ~ というのがよろしいこともある。

突っ込んでいい首もあれば、突っ込むと痛い思いをする首もある。


この写真を撮っていた私は、後ろの伏兵のアザミに尻を刺された。

痛い思いをしてはじめてわかった。

尻を刺されただけに、あざみはやっぱり あなどれない。

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したくとせいり。

2010-06-22 | つれづれの風景。

仕事はその前に仕度をする。

旅に出る前は、支度をする。

せっせとするも、だらだらとするも、ちゃっちゃとするも、まごまごとするも、その所作には取り組み方と性格が出る。

したくをちゃんとすると、その仕事もはかどるし、旅も楽しい。

整理整頓もおなじこと、理にかなったやり方をしなければうまくいかない。

生理が不順ではなかなか心配なのだ。

したくとせいりをちゃんとしている人は、見ていても気持ちが良いし、信頼と期待がわく。

何よりも本人が楽になる。

ちゃんとしなさいといくらいってもだめなのだ。

ちゃんとできる人に任せたほうがいい。

そのほうが楽になるし、気持ちも良くなる。

何事にも性格は出るし、性格は変えられるものではない。

しかし、考え方はいくらでも変えられるので、僕もそうしようともう。


長い時間の淘汰に耐えて生き残ったものには、尊敬に値する何かがある。

老舗といわれる処のしたくとせいりの所作は、とても美しい。
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ある一日。

2010-06-21 | 有屋無屋の遍路。

墓前に樒(しきみ)をたて、線香をたき、般若心経をとなえる。

くゆるけむりに、とけこむ不如帰(ほととぎす)の声。

山裾落ち、清流抱える座敷に立ち返り、朴訥堅牢の田舎豆腐を、冷涼鮮明なる麦酒で戴く。

銘なる酔とともに、染み渡り聞こゆるは、鶯の声明。

時忘れるほどに、杯を重ねるほどに晩妙を向かえ、対岸に返しそぼふり鳴く河鹿の序章。

ぽつぽつと立ち現れては消ゆるほのかなる、鳴かぬ蛍が身を焦がす。


立ち枯れつつも立ち枯れぬ古木のごとき時間。


ある一日。

ここにしかない豆腐を食えば、ちさきころがよみがえる。

ふるさとは とうふにありて おもうもの。

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つゆの晴れ間に。

2010-06-19 | つれづれの風景。

つゆのまにまに つゆのはれまに 




つゆとおち つゆときえ いのちくれない


ふったのも ふられたことも いまはむかし 託と結んで花咲かす。

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そのさき、出たとこ勝負。

2010-06-11 | つれづれの風景。

空のしらさぎ 行く先聞けば しらぬさきよと 風に乗る



明日もし何かが起こったとしても、起こらなかったとしても、今それを知ることはできません。

白鷺が肩で風きり飛んでいます。

その先には何かが、やがては必ず起こりうる何かがあるものです。

白鷺が長い首をたたんで飛んでいます。

それこそ、先の不安を、おくびにもださず。
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空はうまい。

2010-06-10 | つれづれの風景。

青い梅は食ったらいかん。

お腹をこわす。

青い空は気持ちええ。

青いものがいかんとゆうてるんじゃない。


青い梅を食ってお腹をこわしたからといって誰も梅に怒ったりはせん。

でも人は、人を見損なったというて怒ったりする。


青い梅は食ったらいかん。


青いものがいかんとゆうてるんじゃない。

青い空は気持ちがええ。

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泉にもらう元気。

2010-06-09 | つれづれの風景。

滾々(こんこん)と滔々(とうとう)と朗々(ろうろう)と 湧く泉。


滾々(こんこん)と滔々(とうとう)と朗々(ろうろう)とであるかぎり、泉は汚れない。


垢や 糞や 毒や迷い いかなるものを投げ込まれようとも、すべからく浄化する。


古代より、情念において、魂において、誠において、泉たれとの説話は尽きない。


滾々(こんこん)と滔々(とうとう)と朗々(ろうろう)と。

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いってきて。

2010-06-08 | つれづれの風景。

写真を撮っていたら僕の目の前を巫女さんが横切った。

巫女さんが行って、

また写真を撮ろうとしたら、



巫女さんがまた横切った。

行って来たのか、来て行ったのか。

僕は巫女さんを撮ろうとした訳ではないけれど、巫女さんに向けてシャッターを押した。

神社に巫女さんがいるのは当たり前だけど、当たり前ではないような落ち着きのなさを僕は覚えた。

行って来たのだから、また来て行ったりしないだろうかとちょっと思ったりもした。

でも巫女さんはみんな同じように見えるので、本当は行った巫女さんと来た巫女さんは別人かもしれないから、いってきては間違いで、両方とも行ったか来たかで、行って来たと思ったのは、僕の見間違いかも知れない。
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グッドデイ。

2010-06-05 | つれづれの風景。

僕にとって良い一日とは、僕にとって良い日であること。

本来、人生とは楽しいものである。といってみたくなるようなこと。

人がきょとんとするようなことでも、僕にとっては良い日であることを思い笑むこと。

まだ一日は始まったばかりであっても、良い日であると口に出せること。


それで十分、なにがあっても、よしんば肥え溜めに嵌って雲子にまみれても、

それでもいおう、

グッドデイ。

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ハートで勝負。

2010-06-04 | つれづれの風景。

人間、ハートで勝負よ。

心臓の病でない限り、ドッキンドッキンするのはよいことだ。


物資底をつき、手練ままならず、見通し暗雲立ち込める、そんなときこそハートの出番。

ドッキンドッキンと心電図を復調させるのは、ハートしかない。


どんなハートに御籤を結びつけるのか、そんな選択が出来る選挙になっていって欲しいなぁと思う今日この頃です。

あ。ハトではありません。ハートです。
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観念を調理する。

2010-06-03 | つれづれの風景。

交合についての観念を哲学者ならこんな風に言う、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌である。なんて。

私たちの日常生活のあらゆるところで、観念 は幅を利かす。


あのひとが僕に優しくしてくれるのは、僕が男前だからだ。
これは、のうてんきな思い込み。

あのひとが僕に優しくしてくれるのは、隙を見て僕を刺そうとしているからだ。
これは、強迫観念。

どちらも事実としての用をなしていない。


肉料理は、こういっちゃあみもふたもないが、何らかの動物の死体を食するための行為である。
みもふたもなくても、観念としては事実である。


事実を事実としてうまく料理するためには、観念の調理に負うところが多いのかもしれない。

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負けるが価値。

2010-06-02 | つれづれの風景。

なぁ君、そんなことをしてもどうにもならないってこと、忘れたのかい。

ええ、でも、どうしても気が収まらないのです。

だからといって、君まで馬鹿者にならなければならないのかい?



勝ってニコニコするよりも負けてニコニコするほうがずっと難しい。

ま。落ち着いて考えてみなはれ。

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