南無煩悩大菩薩

今日是好日也

つくばい。

2010-11-30 | 酔唄抄。

真ん中の 口 を中心に、 吾 唯 足 知 という字になっている。

われただ足るを知る。


唐の詩人、蘆同は茶のたしなみをこう詠んだ。
「一椀はわが唇と喉を潤し、二椀はわが孤悶を破る。三椀はわが枯腸を探れども、そこに五千巻の文字を見出すのみ」

ちなみに私はこの日も酒を呑みすぎていた。
「一杯はわが唇と喉を潤し、二杯はわが孤悶を破る。三杯はわが枯腸を探れども、そこに一巻の終わりも見出せぬ呑み」

われただ足るを知らぬとうつむいてつくばい。
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在りかたの妙。

2010-11-29 | つれづれの風景。

よくわれわれの間で使われる表現だが、人生の深刻だが滑稽な出来事にまったく関心を示さないならば、われわれはそういう人を「茶気がない」というふうに評する。
逆に、人生につきものの悲劇的出来事を無視して、感情の赴くままにはしゃぎ、感情を抑えられない唯美主義者には、「茶気がありすぎる」という汚名をきせる。-岡倉天心-


ないよりあるほうがいい。
だがありすぎるのはみっともない。
しかしまるでないのはどうしようもない。

そんなことがよくある。
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似ている二人。

2010-11-27 | 有屋無屋の遍路。

アレクサンドロス大王の時代、ギリシャの哲学者にディオゲネスという人がいた。

頓着も欲も無い人で、家の代わりの大甕と拾った物を入れる頭陀袋だけで暮らしていたという。

大王の呼び出しにも応じず、仕方なく大王が会いに行き、挨拶をして、何か欲しいものはないかと問うと、彼はこう答えたという。

「そこをよけてくださらんか。日陰になる。」

そこで、大王はこう言ったという。
「余がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスでありたい。」

言うほうも大物だが、応じるほうも大物だ。お互いの人物を認め合っている。


賢人は賢人と、草は草と、鳥は鳥と、甲虫は甲虫と、共に親しい。
人は人に、猫は猫に、孔雀は孔雀に、蝶は蝶にとって、最も美しく見える。

似ている二人は惹かれあうようにできている。

頼み込むようなことをしなくても、きっと惹かれあう。

ひらがなでかくと 「でぃおげねす」
「おねげぇです」 とは言わないのである。

似てまったく非なるものもなかにはある。
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ないのにあるもの。

2010-11-26 | 有屋無屋の遍路。

ある光景を記憶に留めようと努めるなら、
それを見た後に一旦目を閉じて思い浮かべてみる。

目に焼き付けるというより、心に焼き付ける。

人の能力や技量を測るのは、再現性と反復性においてである、と誰かが言っていた。

ある話を記憶に留めようと努めるなら、
それを聞いた後に、一旦耳をふさいでもう一度その言葉をなぞってみる。

耳に刻むというより、心に刻む。

ある作家は、一本の線を引く最良の方法は、目を閉じて引くことだ、と言った。

豊かな記憶は、豊かな感性を磨くらしい。

僕も目を閉じ、耳を覆ってみる。
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散らかるとよいものとよくないもの。

2010-11-25 | 有屋無屋の遍路。

私たちの脳はコントロールしてやる必要があるという。

本能としてもっている様々な事象に対応しようとする脳は、必然的に注意力の散漫を招き、集中力をそぐ方向に向かうらしい。

例えば本を読むということは、単一の静止した対象に向かい、切れ目なく注意を持続させるという集中力が無くては、続けられないし、身にもならない。

そのためには、ほっておくと散漫に向かおうとする衝動に抵抗するよう、自分の脳を訓練しなければならないということだ。

本能の衝動をトップダウンでコントロールする脳が必要だというわけだ。

ロバート・デシモンという学者さんによると、
脳が注意力に対してトップダウンのコントロールを維持するためには、前頭前野のニューロンの同時発火が必要とされるようであり、強力な「注意散漫の」インプットを処理しないようにするためには、前頭前野の力が相当必要だという。

授業中に暴れるなどの落ち着きの無い子供たちのように、注意力が散漫だということは、前頭前野の開発が未熟だということでもありそうだ。

USJやディズニーランドで本を読ませたり、薪を背負いながら読ませたりするほどのスパルタは必要ないだろうが、本を読むことを好きにさせてやることで、この分野の強化を促すことにつながるのではないだろうか。

散漫をコントロールし、相対的に中断することなく単一の作業に集中できる能力は、自らの脳を自らで規制するという、高度な脳力の賜物だということでもありそうだ。


大事なところで、「気が散る」というのはよいものではないが、冬の「木が散る」のは、なかなかよいものである。
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所得耐性。

2010-11-24 | 有屋無屋の遍路。

1946年に、「J・R・ヒックス」という人が「所得」というものの定義をこう唱えた。

「コミュニティーがある一定期間だけ消費を続ける時、その期首と期末で経済的な豊かさを悪化させることなく消費できる最大限の物量」


国家でも、会社でも、家庭でも、期首よりも期末が減じているならば、分不相応な消費、つまりリミットを越えた過剰所得の可能性がある。

現在の国家予算も、多大な借金でその既得権化した所得水準を維持している状況になっている。

全体の経済的な豊かさを悪化させながら、部分の経済的な豊かさを維持するということは、高度成長再びの奇跡を待っているとしか思えない。

夢のような期末(将来)を願って問題を先送りにして、今を借金でまかなうような所得認識の乏しい人の、破産者になる確立は非常に高い。


私は思う。

JRの切符を買うのにも、540円しかなければ、570円のところへ行こうとしてはならないし、30円足らないことを嘆き悲しんでもならない。お金が降ってくるなんて言う奇跡を待ってもならない。

もし570円の所へ生きたいならば、30円分は歩かねばならない。もっと遠くならもっと歩けばいい。

かえって健康的だし、楽しいことが待っているかもしれない。

そういうふうに折り合いをつけるほうがずっといい。
これを、「JR・フィックス」という。
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みっつの実。

2010-11-22 | つれづれの風景。

一つの実は必然ともいうべきもの、天。

一つの実は時候ともいうべきもの、時。

一つの実は関係ともいうべきもの、人。


この三つが一つになってダンスを踊るとき、

僕たちは、営為の「結実」ということの本当の意味を知るだろう。
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路を目指す。

2010-11-20 | 酔唄抄。
(浮世小路)
(心斎橋筋)




大路(おおじ)を歩こが 小路(こみち)を行こが はずせないのが 人の路

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晴れ渡る。

2010-11-19 | つれづれの風景。

晴れ渡る空、流れる小川、色彩々の木々、澄んだ空気。

初冬の一幅の借景の中を散策するわたし。

小川には、橋がかかっていてわたしはそれを渡る。

誰かがそれを見る。

そして言う。

みてみて、晴れ渡っている下を禿げ渡っている。

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意識界無限界。

2010-11-18 | つれづれの風景。

耳が聞こえる子供なら、言葉を覚えるのに特別な努力は必要ないだろう。
人の唇からこぼれ出た言葉が、飛び回っているところを喜んで捕まえればいいだけだ。
だが、耳の不自由な小さな子供の場合そうはいかない。苦しみながら、時間をかけて言葉を罠にかけて捕らえなければならない。-へレン・ケラー-

続けて女史はこうも言っている。
「試練により思考が研ぎ澄まされ、人生をより切実に理解できるようになった。」


健常である。ということは、健全である。ということの前提ではない。
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移ろう。

2010-11-17 | つれづれの風景。

命脈を保つための葉脈が、命脈を絶つための物質の運搬者になる。

葉脈を有している以上、それを逃れる術は無い。

紅葉の美しさは、リアリティの、現実の、流動するものの、その矜持にある。

なにかにしがみつくことなく、流動こそが現実だと、そういうきっぱりさにある。


さっぱりきっぱりくっきりうつろう
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はずれのあたり。

2010-11-16 | つれづれの風景。

チャールストンという名のバラから蜜を集める蜂がひょいとでてきた。

蜂に逢うつもりはなかっただけに、ちょいとうれしかった。
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グッドモーニング。

2010-11-15 | つれづれの風景。

目覚めると そこは朝陽に照らされて 

おもむろでおぼろげなかげがうかび かすかに揺れるのをみた

静かの朝の 洗濯物


むすめの派手な パンティーに はさまれゆれる わしの猿股


グッドモーニング。
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私たちの地平。

2010-11-13 | 有屋無屋の遍路。

今朝トイレで新聞を読んでいたら、G20(20カ国首脳会議)の写真が載っていました。

各国の首脳のにこやかな集合写真の、その後ろに小さく標語らしきものが掲げてあり、そこに目が留まりました。

Shared growth beyond crisis

Shared growth 成長を共有、beyond crisis 危機を乗り越えて、おおむねそういうことが掲げてありました。

色々と頭に浮かびましたが、都合上あまりトイレでじっくりと思索するわけにも行かず、そこそこにけつをまくってしまいましたが、電車に揺られているうちに、昨日読んだ本に出ていた言葉が頭をよぎったので、書いておこうと思いました。



「その壱」
人々の問題意識はますます強まっていますが、努力するのは(自分ではなくて)隣人であることを欲しています。・・しかし、政治の役割とは、政治に「血と涙」が必要であるかどうかを予期して約束することであり、全ての問題を解決するかのように装ったり、目的地の変更に痛みがともなわないように思わせたりすることではありません。-セルジュ・ラトゥーシュ-

「その弐」
あらゆる時代は、それ自身の像を自らに与えている。時代の経験の全てを統一する何らかの地平を(それがどんなに虚ろで不確かな地平であろうとも)。-エルネスト・ラクラウ-

「その参」
社会の理想は実在しない。われわれが進むにしたがって少しずつ変化する地平線があるだけである。矛盾も緊張関係も無い完全に調和した社会など決して存在しないであろう。そのような社会があるのは墓場においてのみである。・・したがって将来世代がどのように生きなければならないのかを決めつけたりすることが重要なのではない。重要なことは、今日地平線として現れているものについて語り、それに向かって進む道筋を提案することに他ならない。-フランソワ・パルタン-

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錯誤の後。

2010-11-12 | つれづれの風景。

3人の男が1万円ずつ握り締めキャバレーに行った。
男達は3万円ポッキリのコースでお金を渡し飲んでいた。
その日はキャバレーの秘密の割引サービス日で、2万5千円で飲める日であり、店長はホステスに5千円を渡し、男達に返すように言った。
ホステスは、その日チップをまだもらってなかったし、5千円は3人で分けると半端なので、2千円は自分でもらい、千円ずつを3人に返した。
3人は9千円ずつ払ったことになりしめて2万7千円、ホステスの手には2千円、全部で2万9千円になる。
もう千円はどこに消えたのだろう。



無いことをあると思ってしまったり、あることを無いと思ってしまったりしない為には、シンプルな思考は大事ということでおます。
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