南無煩悩大菩薩

今日是好日也

平成三十一年弥生さくら花

2019-03-31 | 日日是好日。
(gif/original unknown)

花見る宴、平成見納櫻と相成候。

‘嬉しい’は花ならつぼみ、今日もさけさけあすもさけ。

Fanfare Ciocarlia - Moliendo Cafe


花は同じくしてもとの花にはあらず。



散る桜残る桜も散る桜

年年歳歳、歳歳年々、感慨亦新。

Capricho No. 16 Paganini con arreglo de cuerdas - Grupo Recoveco

飽くまで生き抜く力

2019-03-26 | 古今北東西南の切抜
/月岡芳年「山中鹿之助 月百姿」)

飽くまで生き抜く力と言っても、朝から晩まで肩肘張って力んでいることではありません。相手や、場合によってそうしなければならないこともあるでしょうが、始終そうやっていては誰だってくたびれてしまいます。
 
人間は一面、ゴムの紐と同じようなものであって、あまり長く緊張し続けるとのびてしまいます。
若い時、かなり激しい気性の人で、活動し続けて来たのが、老後になってぽかんとしてしまったという老人など、たまにみなさんの周囲にお見受けになりませんか。

そうかと思うと四十過ぎまでは、何の存在も認められなかった人が、中年からそろそろ活動を始め、老境に入るに従っていよいよ冴えて来たという人もあります。
 
それからまた、若い時から忙しい生活をし続け、一生それを押し通し、老いてますます盛んな人もあります。

以上三つの型に人間の生涯が区別されます。
 
これはどうしてでしょうか。一つは気魄や、体質により、一概にも言われませんが、概して、人間のうちにある「飽くまで生き抜く力」というものを、信仰とか信念とかで掴んだ人が活動が続くようです。

終日語って一語も語らず。終日行じて一事も行ぜず。

いつも青年の気を帯び、老いてますます盛んな人をよく観察して御覧なさい。必ず何らかの一貫した信念を持っている人であります。

たとえそれは俗情のものであっても。それから中年後になって活動を開始したという人は、そのときはじめて何らかの信念を握った人で、それまでは自分の力だけで、自分の工夫だけであくせくしていたのであります。まして正道の信念を得た人の活動力は素晴しいものであります。

それでは、自分だけの普通の力とか、自分の工夫努力は全然不必要かというと、これはまた、本当の飽くまで生き抜く力を知らない人の言うことであります。飽くまで生き抜く力を仰ぎ得た人は、その大きな力の中へ、自分の力も、工夫努力もみんな籠めてしまうのであります。

自分の普通の力、工夫努力が多ければ多いほど、飽くまで生き抜く力を引っ張り出すのに、それだけ余計に沢山の力を利用することが出来るのです。

かくて、ひとたび信念によって生き出したものは、実はどこまでが仰いだ力でどこまでが自分の普通の力なのか、区別がつかなくなるのであります。

仰ぐ力と、信念と、自分の力と、この三者は、時に円融し、時に鼎分(三つに分れること)し、そこに反省あり、三昧境あり、以て一歩一歩、生きる力の増進の道を踏み拓いて行くのであります。

そこに信念生活の妙味があるのであります。

-切抜/岡本かの子「仏教人生読本」より

憂きことのなほこの上に積れかし 限りある身の力試めさん

-山中鹿之助

愛さずにはいられない

2019-03-25 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(写真/永井荷風)

‘I like you’ と ‘I love you’は、どう違うのでしょう。

佛陀はこんな風に表現したようです。

その花をあなたが好ましく思うならば、そのままその花を摘んで手に入れたくなるでしょう。

その花をあなたが愛おしく思うならば、そのままその花に毎日水やりをして見守るでしょう。

その理解は人生の理解にも通ずる、と。

その意味において荷風さんもたぶん、女性たちを愛する人だったのでしょう。

UB40 CAN'T HELP FALLING IN LOVE

安吾さんの遺言

2019-03-21 | 酔唄抄。
(写真/坂口安吾)

私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。礼儀というものは、そんなところへ出席するところにあるとは思っていないから、私は何とも思っていないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどと、日本はうるさいところである。

「コンドル」という、これはつまらない映画であったが、然し、そのなかで、墜落事故で瀕死の飛行士が、これから死ぬから、みんな別室へ行ってくれ、死ぬところを見られたくないから、という場面があって、身につまされたことがあった。

人間は生きているうちが全てである。社会人としての共同生活でも、生きている人のためには、色々とはかりたいが、死んでしまえば、もう無、これはもう、生きた生活とはかかわりがない。
友人同志でも、生きているうちこそ、色々と助け合い、励まし合うことが大切で、死後の葬式の盛儀を祈るなどということに、私は関心を持ちたいとは思わない。
 
告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうことに、こだわることも、あるいは、無意味かも知れない。
私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからでなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。

‘もっとも、法要というようなものは、ひとつのたのしい酒席という意味で、よろしいと思っている。’

‘私の死後でも、後始末が終ってのちに、知友に集ってもらって、盛大に飲んでもらって、私が化けてでて酩酊することができるぐらいドンチャン騒ぎをやらかして貰うのは、これは空想しても、たのしい。’

私は家人(これは女房ではなくて、愛人である)に言い渡してあるのである。私が死んだら、あなた一人で私の葬式をやり骨の始末をつけなさい。そのあとに、知友に死去を披露して、ドンチャンのバカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。

-参照/坂口安吾「私の葬式」より

蝙蝠、猫になめられる。

2019-03-19 | 世界の写窓から
(gif/source)

(*なめる:とは相手やある物事を馬鹿にしたり、みくびったり、軽んじる、蔑むといった行為で、戦国時代には既にこうした意味で使われている。なめるは主に敵・ライバルといった人(グループ)を対象とする他、武器や商品、案件など様々なものを対象とする。「なめてかかる」「なめくさる」「なめた面(ツラ)」「なめたまね(=なめた行動・行為)」のナメはこのなめるからきたものである。)

人が人をなめるというのは生得的な本能である。なぜなら未熟な自尊心はそれによって守られることもままあるからである。

人をなめてかかる場合、そこにはおおむね二種類の「なめかた心理」があるのではないか。

自己承認欲求のため相手の劣等性にのみ注目し自己優位性を希求するなめかたと、絶対的優位性を自覚しながらそれを隠す自己弁護的かつ自己陶酔型のなめかたである。

前者は人をみくびったなめかた、後者は自分をかいかぶったなめかた。と言えなくもない。

誰でもひとは皆自尊心を糧に精神を守っている。尊重し尊重されることではじめてひとは己の存在に意味を見出し自信を育み経験による豊かな個性を積み上げていく。

だからわれわれは自尊心をより成熟させていく必要がある。つまりなめかた、なめられかたにおいて、もっと「粋」にならなければならない。

成熟した自尊心とは、それは「ああ、なめられているな」と確認した後においてなお、許容と寛容の美味をテイスティングできるようになることだ。

知らんけど。

“On your lips I read the monologue of goddesses,”

コペルニクス的転回的の的

2019-03-17 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

‘コペルニクスから、われわれは近代社会へと入りはじめるが、その結果、不安と困惑にさいなまれることになる。異なるが関連しあう仕方で、コペルニクスの革命は思考を変革した。

(ⅰ)物理学上、これまで不動の中心であった地球が太陽のまわりを回っていることが示された。コペルニクスによって、しかしより根本的にはブルーノとガリレオによって、中世の世界観である、閉じられた有意味な宇宙は、無限にして潜在的に無意味な宇宙へと開かれはじめた。パスカルがその次の世紀に記したように、「無限空間の永遠の沈黙が私を恐怖で満たす」のである。

(ⅱ)形而上学上、コペルニクスの革命は、変化し続ける世界の中にある不動点としての神から立ち去り、自己へと転回することである。しかしこの自己は勝ち誇った個人ではなく、むしろパスカルが感じたような不安をとおして姿をあらわす何かである。すべてのものを懐疑に投げ入れ、確実性の探求に乗り出すことでのみ、この自己は己そのものになるのである。この自己は与えられておらず、むしろ未知なるもののひとつである。’

-source/Simon Critchley [The Book of Dead Philosophers]

自己、つまりあなたやわたしの思考が変革し今後180度転回した場合、魅惑的かつ寓話的な甘美を伴うかもしれないが、否定的かつ断罪的な関所が立ちはだかるということは容易に想像できる。

ただ帰結がどうあれ、すでに起こった思考の変革は非可逆的なものである、あなたやわたしは言えるだろうか、かってガリレオが身の危険から表面上地動説を撤回した後に言ったように。

‘それでも地球は回っている。’

シャトレ夫人の手紙

2019-03-14 | 古今北東西南の切抜
(picture/source)

「私の価値について、あるいは私の価値の欠如について、私を判断なさってくださいませ。

けれど、私をこの元帥やあの学者、フランスの宮廷で輝くこの花形やあの名高い作家の単なる付属品と見なすことはなさらないでください。

私は自己の生得的な権利によってまったき人間でありますし、私の存在すべて、私が話すすべて、私が行うすべての責任はただ私自身にのみございます。

私はお会いしたことがございませんが、世の中には数多の形而上学者や哲学者がおりますし、彼らの学識はおそらく私のもの以上に偉大でありましょう。

しかし、彼らもかよわき人間であることに違いはありません。それに、欠点だってございましょう。ですから、私のすべての美点を合計したとき、私は誰にも劣っていないと自認しております」。

-エミリー・デュ・シャトレ(1706~49年)「フリードリヒ大王への書簡」より


women weman

2019-03-13 | 世界の写窓から
(picture/original unknown)

‘ほんらい女性は太陽であった’ 確か、ブルーストッキングのらいてうさんはそういった。

異存はない、太陽であり地球であり母である。また、そのうち人間はオスを必要としなくなるような進化を遂げる可能性もあると言われたりもする。

如意。ただ、男にとって女性のいない世界が味気ないように、男がいない世界も雅趣に欠けるのではないかという気もする。が、単なる無知かもしれない。

Parno Graszt ~ Káde shukár

牧水さんの酒

2019-03-10 | 酔唄抄。
(像/若山牧水)

 それほどにうまきかとひとの問ひたらば何と答へむこの酒の味

真実、菓子好きの人が菓子を、渇いた人が水を、口にした時ほどのうまさをば酒は持っていないかも知れない。一度口にふくんで咽喉を通す。その後に口に残る一種の余香余韻が酒のありがたさである。単なる味覚のみのうまさではない。

無論口で味わううまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味わいを持っている。あの「酔う」というのは心が次第に酒の味をあじわってゆく状態をいうのだと私はおもう。この酒のうまみは単に味覚を与えるだけでなく、ただちに心の栄養となっていく。乾いていた心は潤い、弱っていた心は蘇り、散らばっていた心は次第に一つにまとまってくる。

 酔ひ果てては世に憎きもの一もなしほとほと我もまたありやなし

わたしは今年が世にいう大厄であった。それまでよく身体が保てたものだと他も言い自分でも考えるくらい無茶な酒の飲み方をやってきた。この頃ではさすがにその飲み振りがいやになった。いやになったといっても、あの美味い、言い難い微妙な力を持つ液体に対する愛着は寸毫も変わらないが、この頃はその有難い液体の徳をけがすような飲み方をしているように思われてならないのである。

湯水のように飲むとかまたは薬の代りに飲むとかいう傾向を帯びてきている。そういう風に飲めばこの霊妙不可思議な液体はまた直にそれに応ずる態度でこちらに向かってくるようである。これは酒に対しても自分自身に対しても実に相済まぬことと思う。
 
そこで無事にこの歳まで生きて来た感謝としてわたしはこれからもっと酒に対して熱心になりたいと思う。作ること、読むこと、共に懸命にならうと思う。一身を捧じて進んで行けばまだわたしの世界は極く新鮮で、また、幽邃であるように思われる。それと共に酒をも本来の酒として飲むことに心がけようと思う。

そうすればこの数十年来の親友は必ず本気になってわたしのこの懸命の仕事を助けてくれるに相違ない。

(参照/出典