南無煩悩大菩薩

今日是好日也

例えば蟹の形而上学

2020-01-30 | 世界の写窓から
(photo/original unknown)



本来、「悪蟹」も「善蟹」もない。しかし而して形というものは、私たちに何かを示唆して止まない。

「善さそう」「悪そう」という感覚は時々情緒や理性を超えて強い指向性を持ち私たちを翻弄する。

とはいうものの、喰うとしたらどっちからだと考えてしまう。

Philip Glass - String Quartet No. 3 "Mishima" , VI


*形而上学:現象を超越し、またはその背後にあるものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在を純粋思惟によりあるいは直感によって探求しようとする学問。神・世界・霊魂などがその主要問題。
ー出典/不詳
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紐を結ぶ

2020-01-29 | 意匠芸術美術音楽
drawing/Egon Schiele)

靴ひもの結び方でさえ、言語で正確に伝えることはとても難しい。

今日の脳科学では、ヒトの脳の働きの90%以上に、自分で意識できない部分が存在する。つまり無意識領域が人間を動かしているともいわれる。

とすればややこしい。たとえば犯罪が故意かそうでないか、責任能力があるかないかとか。無意識でやってしまったにせよ意識的にしたにせよ本人がした悪行は罪や罰に問われるという前提と、場合によってはそうではないようなことになったりもする結末がある。意識が無意識の結果を弄ぶかのような居心地の悪さ。そもそも罪や罰でヒトは変わるのかという議論の並行線。

無意識の嘘と意識的な嘘の違いを述べよ。という複雑怪奇な共通一次。

つまり意識を買い被ると、無意識を売り被ることになる危険を知りつつ、誰もその結び目の説明に確固としたものを見いだせてはいない。

買い被る、とは高く買いすぎてしまうこと。売り被る、とは安く売りすぎてしまうことだ。

それがヒトだと吐息をつけばヒトだと言えるのかもしれないが、おもうことは、世間と自分との結び方は、誰も教えてくれないし、教わっても同じようには結べない。

Life Story
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Forever Heart

2020-01-26 | 有屋無屋の遍路。
(gif/source)

Forever Heart展に行ってきた。

その人の絶筆らしき書は、「今日も楽しい!」と筆跡豊かにしたためられていました。

その人は、ずっとHeartというものを描きながら追っていたのか追いながら描いていたのか、そのようなその人だと僕は勝手に解釈している。

僕に「往来」と名付けてくれた人はその追悼作品らしきものに「素粒子になったあなたへ」という題をつけていた。

京都市立美術館で、大阪市立美術館で、ギャラリーで、いわんや新地のクラブで、Heartを一義にしたその人にその作品に触れられたこと今思えば万僥のいたり。

またとの機会を思っていましたが、もうその機会はなくなったようです。ここしばらくの無沙汰を顧み鑑み噛みながら、陰ながらご冥福のお祈り祈りつ。

亡くなってからしか言えないのが常ながら、さようなら、安倍さん。ありがとう安倍さん。「今日も楽しい!」と言い切れるよう生きていきたいと思います。

Armand Amar - Inanna (Most Emotional Piano Drama)



art/Abe Kiyotaka)
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めいいっぱい、ね。

2020-01-22 | 世界の写窓から
(photo/original unknown)

そもそも
自分で人生の意味を
問うてはいけません。

自分は人生に
問われている立場であり

自分が人生の答えを
出さなければならないのです。

(quote/Viktor Emil Frankl)

SUKIYAKI - (Kyu Sakamoto / Original Japanese Version with Lyrics)


Don’t use your energy to worry. Use your energy to believe.

100万年後、キリンの首と象の鼻とどっちが長くなっているか、わかったものじゃないではないか。

ね。
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是也此之 我今成奈里

2020-01-20 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo source/Hiroshi Watanable [Riki-Baka])

-これなり これこれ わたしはいまなるなり- とは円空さんの受け売りである。

-眼横鼻直- がんのうびちょく 道元さんは仏法の本質を問われてそう答えたらしい。 眼は横に着き鼻は縦に伸びている。それそれそのまんま。

今日に生きる つまり life to live である。

小泉八雲さんは「力ばか」と言う話を掘り出した。

これらはすべからく、是也此之 我今成奈里 ということではないか。

つまれうまれるところ、他日あることなし、である。
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「汲む」ということ。

2020-01-18 | 世界の写窓から
quote/Socrates)

誰かが何かに対して「イエス」と言う、それをそのままに受け取っているとき、なにか違和感を覚えたことはないだろうか。

忘れないでいたいのは、人が何かを肯定するときは、そうでないものに対しては否定をしている、その深層からかの無意識の反応であることもあるということ。

「イエス」は「ノー」ではないというだけのことでもあるし、もしくは、「ノー」と言わんがための「イエス」である場合がある。

本当の汲むということの賢さとは何か。

賢いなぞという小賢しさを捨ててこそ、浮かぶ瀬もある樫の実よ。
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主体と客体

2020-01-16 | 意匠芸術美術音楽
(source/M a r k - R o t h k o`Orange red and red')

骨相学の大家はかって、金日成と三波春夫は思想的に一緒だといった。お客様は神様だとチュチェ思想というのはおなじだというのだ。

そういえばアーネスト・ヘミングウェイとオーソン・ウェルズも骨相学的には似ているのではないかと私は思う。

どちらも前者とはまた違った意味で主体的だ。

ただそんなあれこれを思うにつけ、主体思想という形容詞にたいして、何らかの示唆を与えてくれるような気がしないでもない。

Orson Welles - I Know What It is To Be Young - 1984
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風に吹かれて

2020-01-15 | 世界の写窓から
(photo/Rudi Herzog - The Netherlands, 1966)

一つか二つ多くても三つくらいしか知らないのに、みんながそうだなんてゆう人は多い。

Peter, Paul and Mary - Blowing in the Wind
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意味のあるなし

2020-01-14 | 意匠芸術美術音楽
(illustration/Gianni De Conno)

例えば、できるお医者さんは知っている。

彼は聞く、「あなたは1から10まで痛みがあるとして今どれくらいですか?」

例えば患者は「5です」と答える。

そこで医者が、どう考えても軽症だから、あなたは2でしょう。とか、かなり重症だから8ではありませんか?などと言ってもそこに意味はない。

経過上、5の人が2になりましたと言えば快方の可能性、8になりましたと言えば、重篤化の可能性、ぐらいがわかるだけのことである。


(甲斐バンド/テレフォン・ノイローゼ)

`出合ってひと月目 どれほど 思ってるって聞くと、君は四週間分よって そっけなく'....

この一か月4週間というのも、数字は確実ながら、言う方と聞く方と、互いの取り持つ意味は本人たちにしかわからない。

if it is art, it is not for all, and if it is for all, it is not art.

こんな感覚にしてもたぶんその延長にある。
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Waiting In Vain

2020-01-13 | 世界の写窓から
(collage/original unknown)

Sitting quietly doing nothing, the spring comes and grass grows by itself.

山があって谷があると思ってきたものの、いつしか山もあって谷もあると思うようになっている。

Dianne Reeves - Waiting In Vain (Live @ Lotos Jazz Festival 2014)

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「知るや君」

2020-01-12 | つれづれの風景。
こゝろもあらぬ秋鳥の
声にもれくるひとふしを
        知るや君

深くも澄める朝潮の
底にかくるゝ真珠を
        知るや君

あやめもしらぬやみの夜に
静かにうごく星くづを
        知るや君

まだ弾も見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の音を
        知るや君

ー島崎藤村「若菜集」より

2020年(令和弐年)成人を迎える君たちへ、おめでとう。


-知るや君「シャキーン」より
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WHY Are We Here?

2020-01-11 | 酔唄抄。
(photo/source)

下戸不知藥
上戸不知毒

酒のみは酒の呑めないものにたいして、本当の薬を知らないという。
酒を呑まないものは酒のみにたいして、本当の毒を知らないという。

We all eat lies when our hearts are hungry.

心が餓えているとロクでもないものを信じてしまう。

牛も鳴き狐も鳴きて別れ哉

もうもうこんこん。

酒のうえだけではない、下戸も上戸も。

Nils Frahm - Says (Official Music Video)
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刺激を貰う。

2020-01-08 | 世界の写窓から
(gif/originalunknown)

Oh! Fantastic! ニコニコしながらそういいたいのである。

ストイックに努力、ビューティフルに対応、エクセレントに処理、したればチャーミングに生きられる。

かもしれない。

クリエイティブな嗜好は、幻想的ながらもその先行く末の憧れである。

Taraf de haidouks - Stari Rumun sa violinom ......
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角を矯めて牛を殺すことなかれ

2020-01-05 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

人間にしても同じことです。どうも私はおこりっぽくていけないからとて、その感情の根を押し潰し、また私は欲望が多過ぎて苦しいからとて、その根を断ち、また私は子供っぽくて困るからと、その根を刈ります。結局生きているのか、死んでいるのか判らないような人間になって、世の中の役に立たなくなってしまいます。これは人生の素人であります。

すべていけない方に目を付けてこれを刈込んでしまう。これでは誰でも、何事でも、痩せて、枯れて、滅してしまう一方です。

子供を育てるにしろ、人を使うにしろ、相手をすっかり萎縮(いじけ)さしてしまって、その特色を引き抜いてしまいます。

ちょうど正反対の方面があります。何でも、あるがままがよいとして、食べたい放題、遊び放題、無理の言いたい放題、不義理のし放題――それを、また世間でも、磊落だとか無邪気だとか言って買い被り、苦笑しながらも黙って見ているようなことがあります。もし世の中が、あるがままがいいということになったら、人生は骨折りも努力もいりません。

残すだけを残した髯と、無精髯とは見分けてやらねばなりません。

人間がたった一人、この世の中に生れて来て、そして自然の中に生きて行くのなら、相手も自然、こっちも自然、それで気が合ってよろしいでしょうが、しかし、人間が二人となり三人となる以上、協調ということが生活上必要になって来ます。協調ということは折れ合うこと、折れ合うということはしたいことも相手に遠慮して差し控えるということです。程よく保ち合うということです。

まして人間には、たった一人のときでも自分を完成し、周囲の自然を開拓しようとする意志は持って生れているのですから、その人間本来の意志に従わず、勝手気ままな外界の自然のありさまを手本にでも見習うような放縦な生活は、どうあっても「真理」の逆行です。

私たちの持っている人間性、これを刈り取ってはいけず、さればと言って、伸び放題うっちゃって置いてもいけない、なかなか難しいことになりました。

でもそれは言うまでもなく、前に述べましたように、一見、邪魔、不善に見える人間のいろいろの性情の根は、実は非常に大切なものでありますから、これを潰したり押えたり、刈り取ったりしないで、これらをみんな活かして善用して行き、立派に役立てて進んで行くという人生の大道です。

「煩悩即菩提」(迷いや欲の本性は取りも直さず悟りのもと)と言ったり、「凡聖不二」(愚かしい心と霊知の心と根は一つ)と言うのは、この事を指しているのです。

田の草をそのまま田への肥料(こやし)かな

これなぞも人間性といわれる性質の中のどれ一つとして絶対に人間に不利益と見究めのつけられるものは一つもない、みな使い方によっては立派に人間の向上、進歩、発展の薬になるものだという寓意を含んでおるのであります。

「自分がいくら骨を折ってやっても、することなすことみな無駄になる」
 
苦学をして勉強していた一青年が、こう歎じました。実際彼が骨を折ってなしたことがみな無駄だったように見えました。彼はすっかり懐疑家になり、しばらく呆然(ぼんやり)として暮していましたが、反撥心を起して、こう言いました。

「こうなったら、もう自暴(やけ)だ。今度は逆に、無駄なことばかりしてやろう」

青年はそう決心はつきましたものの、さて、その決心に添うような無駄事を探す段になって、はたと行き詰りました。世の中の事は何一つとして必ず何か用途を伴うもので、全く無駄というものはない。ふてて、ごろりと寝ていることさえ、身体の休養になってしまう。
 
消炭の屑は鍋釜の磨き料になるし、コロップの捨てたのは焼いて女の黛になるし、鑵詰の空鑵は魚釣りの餌入れになるし、玉子の殻はコーヒーのアク取りになるし、南瓜のヘタは彫って印になるし、首のもげた筆の軸は子供のしゃぼん玉吹きになるし、菜切庖丁の使い減らしたのは下駄の歯削りになるし、ズボンの古いのは、切って傘袋になるし――。青年は家の中を見廻して、あまり無駄なもののないのに圧迫を感じて居堪まれなくなって表へ飛び出しました。

青年はふとラジオ店の前に立ちました。某水産技師の講演放送中でありました。
「みなさん、あの何万粒の数の子の中から孵って鰊になるのは、ほんの二、三匹に過ぎないということを聴いて驚かれるかも知れません。自然は何という無駄をさせるだろうと。しかし、それは人間の頭の考えであります。自然にしたらば、はじめからその何万粒の無駄を承知で、その中のいくらかの鰊の生を世に送るのであります。もし何万粒の無駄がなかったら、そのいくらかの鰊の生もないのであります。

従って自然においては、いくらかの鰊の生のために他の何万粒の犠牲は無駄どころか当然なかるべからざる用意なのであります。故に、自然は、その何万粒のどれにも厚薄のない同等の念を入れて世に送るのであります。それを無駄と考えるのは人間の頭であります。ここに自然の考えと、人間の考えとのスケールの大きさが違うのであります」

もう青年は、これ以上聴く必要はありませんでした。無駄をしまいしまいという考えは却って無駄をすることになるのだ。それはちょうど生きるだけの鰊の数しか数の子の粒を用意しないようなものだ。孵らないにきまっている。その中に無駄のあることを予想してかかる仕事こそ、却ってその無駄を意義あらしめる結果になるのだ。自然が何万粒の数の子を、いくらかの鰊として予算するようなものだ。そう考え付いた青年は、腕組みして、強い息を吐きながら、折りしもつきかけた町のネオンサインの旋廻を眺めながら言いました。

「僕も、無駄を平気でやれるような人間になろう」

人間に心があり、心に感情がある以上、だれにも好き嫌いの気持ちがはたらくのはあたりまえです。それを好いてはいけない、嫌ってはいけない、と道学一ぺんに叱ってしまったら、目も鼻も撫でて延ばしてしまった顔のようなのっぺりした人間ばかりになってしまうでしょう。

松や桜や、梅や竹や、その百木千草の変化があって自然の風光が面白いように、人間に好き嫌いの気持ちの陰影があってこそ、むしろ人々の変化やリズムがあって面白い、世の中が単調に流れません。ですから好き嫌いは大いにあってよろしいのです。
 
ですがこういったあとで殊にも言い添えなければならないのは、くれぐれもその好き嫌いの気持ちに捉われてはいけないということです。捉われて、それをいこじに通して行こうとするとき、その人は我儘者になるわけです。

-切抜抜粋/岡本かの子「仏教人生読本」より
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思いと考え

2020-01-03 | 意匠芸術美術音楽
(illustration/source)

考えとはなにか、僕はこう思いました。思いとはなにか、僕はこう考えました。

思い考えとはちがう、そこんところを聡明に自覚できれば、多分整理できるはずだ、なにかを。

考えても分からないから僕はそう思っている。ハートを理屈に押し込むのはやめた方がいいと少なくともそう考えている。

そしてそれらのことを想う。

Imam Baildi ft. Vempo - Poso Lypame
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