南無煩悩大菩薩

今日是好日也

Think what you want

2018-10-29 | 世界の写窓から
(photo/original unknown)

「踏まれても、踏まれても立ち上がる」雑草にそんなたくましいイメージを持つ人も少なくないかもしれません。しかし実際には、雑草は何度も踏まれると立ち上がらなくなります。だからといって雑草の生き方が「たくましくないか」といえばそんなことはありません。

そもそもどうして立ち上がらなければならないのでしょうか。

植物にとって、もっとも大切なことは花を咲かせて、種を残すことです。踏まれても立ち上がるという無駄なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながら種をつけることの方がずっと大切です。雑草は無駄に立ち上がるようなことはしないのです。

がむしゃらに頑張るよりも、その生き方はずっと合理的で戦略的なのです。強いイメージのある雑草ですが、植物学的には「弱い植物」であるとされています。他の強い植物が生い茂るような深い森の中には生えることができません。そこで強い植物が生えることのできないような困難な環境を選んでいます。

それが、よく踏まれる道端だったり、よく草取りが行われる空き地だったりするのです。逆境はいやなものですが、恵まれた環境では弱い植物は、強い植物に勝つことができません。弱い植物にとっては強い植物が力を出し切れない「逆境」こそが、チャンスなのです。

植物は動くことなく、平穏な暮らしをしているように見えるかもしれませんが、そんなことはありません。枝や葉は光を奪い合い、見えない土の中では根が栄養分や水を奪い合っています。植物たちもまた、常に激しい生存競争を繰り広げているのです。

雑草は、勝てない相手と競争するよりも、踏まれたり、抜かれたりする逆境を選びました。

雑草にとって大切なのは、立ち上がることでも、強い植物に立ち向かうことでもありません。大切なのは「種を残すこと」です。ただこの目的に対して最大限で合理的な努力をしています。

大切なことを見失わない生き方、

これこそが本当の「雑草魂」なのです。 -切抜/稲垣栄洋「雑草は強くない!」より

Hindi Zahra - Stand Up

Life finds its way

2018-10-25 | 世界の写窓から
(photo/source)

我々が意思決定をする対象、そして、そのために探求する対象の大半は、別の可能性を提示する。

我々の行動は偶然性を持つ。必然性に基づいて決まることはほとんどない。

-アリストテレス

なるほどこの人生、確実性とはほぼ無縁ですが、偶然性、信念、探究心、冒険心などといったものとは深く関わっているようにおもえます。

百年の孤独

2018-10-24 | 酔唄抄。
(source/García Márquez)

孤独に耐えることがじょうずになるとうまい酒もやってくる。

年時を重ねるほどまろやかに芳(かんばし)く醇(あつ)くなるのが酒と酒飲でなくてはよろしくない。

もうひとつの大事、孤独はよろしいが、孤立はいけない。

Trece Líneas Para Vivir (Gabriel García Márquez)

復活への条件

2018-10-20 | 世界の写窓から
(photo/source)

成長の過程においては、挫折しかかる時が幾度も来る。

そこで、自信を無くしているようではいけない。今までの自分の能力を自覚できる程度の見識を持つに至ったということだ。

「復活」のためには状況に適応し続けるという事が欠かせず、単なる「復元」を望んでいてはいけない。

「進歩」しているという保証はないにしても、「進化」しているとみなさなければいけない。

才能はまた別の話である。

アンバランスの飢え。

2018-10-18 | 古今北東西南の切抜
(illustration/source)

人が極端に良いか極端に悪いか、どちらかの行為をするとき、それは、その人が自分の人間性の一部を抑圧し、排除し、拒否していることを示唆する。

悪人も聖人も、両方ともバランス感覚を失っている。

例えば、弱さに同情したり、共感したりできない人は、いじめる側になり、ついには弱さに対する怒りで身を滅ぼすだろう。

一方、暴力に共感できない人は臆病者になり、攻撃にあったときの恐れで身を滅ぼすだろう。

たくさん罰を受ける人間関係の中で成長した子供は、力に飢えており、力を求めるようになる。

人は力を与えられなければ、食べ物に飢えるのと同様、力に飢えるようになる。

価値のないものとして扱われた子供は力に飢えるようになるとあらゆる弱さを抑圧することを覚え、自分自身が軽蔑されているように、弱さを軽蔑するようになる。

だが、おそらく、手遅れにならなければ、トムが赤ちゃんと触れ合うことで優しくなれたように、自分の弱さを隠さなくても友達がつくれることを、学ぶことができる。

そして、これが再びその子を完全にする。完全な人間はおそらく弱い者いじめをするようには育たないだろう。いじめは、何かが欠けている証拠だ。

いじめもアンバランスな反応なのだ。

- Getting to Maybe 「誰が世界を変えるのか」より

神経の多様性

2018-10-17 | 古今北東西南の切抜
(picture/source)

ASD(自閉症スペクトラム障害)、統合運動障害(神経に由来する身体疾患)、失読症、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、社会不安障害などのような非定型発達は、人間のゲノムの自然で正常な変異である。

というニューロダイバーシティの発想が広まり、必要な配慮や支援を提供することで、ニューロダイバースな人材(非定型発達者)を取り込む動きが企業に広がりつつある。

実際、これらの特質を持つ人材は特定の能力が非常に優れており、生産性、品質、革新性の向上など、企業に多種多様な恩恵を生み始めている。

ニューロダイバーシティの概念を大切にする人の多くは、ニューロダイバースな人材が必要とするのは、治療ではなく支援や受容だと考えている。

誰しも、ある程度は特異な能力を持っている。なぜなら人は皆生まれも育ちも違うからだ。各人の発想は、生来の「骨組み」と経験による「方向付け」によって決まる。

そもそも人間はパズルのピースのように不定形である。にもかかわらず企業社会は、多様な個性の恩恵をほとんど活かせずにいる。

多様性という恩恵を活かすことは、つまり従業員を取り換え可能な「人的資源の器」としてではなく、個性を持つ資産そのものとして扱うことを意味する。

イノベーションは十中八九、異能によってもたらされるのだ。

-切抜/neurodiversity as a competitive advantage dhbr 2017 November

‘ 汝、我を見いださない限りは、我を探し求めもすまい。’ -パスカル