南無煩悩大菩薩

今日是好日也

轆轤を回す

2017-08-25 | 日日是好日。

ろくろは回してから創りたい形がわかる。創れるかどうかは別にして創りたい形が見えてくる。

まず先に土を乗せろくろを回すことで徐々に自分で求める形が見えてくる。

行為してはじめてそこから事後的に自分の起こした行為の意味を理解し繰り返し改善を求める作業である。

事前に計画するようなものではなく、動的な環境の中で徐々に何かが育ち形となる。

そんなことはたくさんある。それが楽しみだ。
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「反芻する」の比喩で、プレッシャーをストレスにしない考え方

2017-08-24 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

・・・プレッシャーはストレスではない。しかし、プレッシャーにある要素が加わると、それはストレスに変わる。その要素とは「反芻」、すなわち、過去や未来の出来事を負の感情を伴いながら繰り返し考え続ける傾向である。

もちろんリーダーは、将来の計画を立てたり過去の教訓を振り返ったりするなど、内省する必要がある。しかし、これは分析的な短時間のプロセスであり、プラスの効果をもたらすものだ。「反芻」は継続的で破壊的な行為であり、健康状態や生産性、幸福感を低下させる。慢性的に悩んでいる人は冠状動脈疾患にかかりやすく、免疫力が低下する。また、過去や未来ばかりを気にするため現在から引き離され、目の前にある仕事を完遂できなくなる。「反芻」する者にどのような気持ちかを尋ねてみると、「幸福だ」と答える者は一人もいないだろう。そのほとんどは悲惨な気持ちでいるのだ。

「反芻」を打破する四つのステップ

-覚醒する- 
人間は一日のほとんどを「覚醒的睡眠」と呼ばれる状態で過ごす。朝、職場の駐車場に車を入れる時、そこまでどのように運転してきたかを覚えてはいない。あるいは、会議で誰かに意見を聞かれたとき、話し合いの最後の数分を聞き逃してしまう。すべての「反芻」は「覚醒的睡眠」の状態で起こるので、第一のステップはこの状態を脱することである。それは物理的に実行できる。立ち上がるか、姿勢正しく座り直し、手を叩いて体を動かす。あるいは、心の中でこれを実行することも出来る。いま何が聞こえるか、何が見えるか、どんな匂い、どんな味がするか、何の感触があるかを観察し、自分の感覚を意識化する。これは、世界とのつながりを再び確立することだ。

-自分の注意力をコントロールする- 
「反芻」している時、あなたの注意力はハムスターの回し車のような非生産的な堂々巡りに陥っている。有益な行動を起こせる領域に自分の注意力を向け直す必要がある。企業幹部に勧めているのは、次のような方法だ。紙の上に円を一つ描く。自分がコントロールできること、影響力を行使できることをすべて円の内側に、できないことをすべて外側に書き出す。外側に書いたものについては、自分の仕事、チーム、家族に関する問題であっても、気にはかけても、思い悩むことはない。それを忘れてはならない。

-大局的にとらえる- 
「反芻」する者は些細な出来事を大事と見なす傾向があるのに対して、再起力(レジリエンス)のあるリーダーは自分自身やチームのために物事を大局的にとらえる。その為のテクニックとして、「対比」「自問」「再構成」という三つの方法を教えている。対比とは、過去のストレスを現在のものと比較する方法であり、たとえば、いま患っている重病と過去の販売の失敗を対比する。自問とは、「これは今後三年でどれくらい重要な問題となるか」「起こり得る最悪の事態は何か」「どうやって生き延びるか」と自らに問う方法である。再構成とは、自分が置かれている難局を新たな角度から見直す方法であり、「この状況において私がまだ気付いていない、どんなチャンスがあるか」、さらに「この状況の面白い点は何か」とまで考えてみる。

-あるがままにまかせる- 
多くの人にとって、最後のステップが最も難しい。あるがままに任せられるくらいなら、すでにそうしているはずだ。これには、次の三つのテクニックが役に立つことがわかっている。一つ目は受容、すなわち、その状況を好むと好まざるとにかかわらず、状況は変わらないと受け入れることである。二つ目は教訓を学ぶことである。人間の脳は出来事について、そこから何かを得たと感じるまで振り返り続けるものだ。そこで、「この経験から私は何を学んだか」と振り返ってみよう。三つ目は行動である。時に正しい解決法とは、リラックスすることではなく、状況に対して何らかの行動を起こすことだ。「ここでどんな行動が必要か」と自問しよう。

-切抜/ニコラス・ペトリ Nicholas Petrie「D.H.B.R.september 2017」より-
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途中の極楽

2017-08-15 | 有屋無屋の遍路。
この旅程未だ途中ながら、積乱の雲輝きしに遇いおもう。



釈迦は行け、阿弥陀は来い、との中が我、押され引かれて参るが極楽。

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きつね親爺

2017-08-14 | 世界の写窓から
(photo/original unknown)

ある獣医師の専門家によると、

キツネの魅力は人間臭いところにあるようだ。

哺乳類でお父さん、お母さんがいるのは、キツネとタヌキと人間だけで、あとはたいがい母子家庭らしい。

父親は浮気もするけれど、身を挺して家族を守りもする、さんざん苦労してネズミを狩ったところで大抵は妻に取り上げられるという。

一つの巣にオス一匹とメス2.3匹、赤ちゃんが10匹以上いる場合でも一夫多妻など羨むようなものじゃなく、娘が里帰り出産しているのだそうだ。

そうです、キツネでもタヌキでも、どんなオヤジでもちゃんと観察すれば切実に懸命に生きているのだということを発見できるのであります。
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72年前の、ある一枚の写真

2017-08-13 | 古今北東西南の切抜
(photo/Joe O’Donnell)

-焼き場にて-少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見続けた。

・・佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を 赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。 -Joe O’Donnell「トランクの中の日本」より/切抜-


少年よ
「立派な日本男児になれ」と
きみの父は出兵していったのか
「弟を頼む」と
きみの母は息をひきとったのか
きみはけなげにその言葉を守って
弟の遺体を背負ってここまで
歩いてきたというのか

少年よ
歯を食いしばって何をみているのか
戦争の悲惨さか
人間の愚かさか
それとも
あの青い空なのか

少年よ
それにしても
きみの直立不動の姿勢は
痛々しすぎる
あれから72年
今年も蝉が鳴いている
-文/切抜「新門日記」より-
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あはがり

2017-08-12 | 意匠芸術美術音楽
唄/「あはがり」朝崎郁恵 
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