南無煩悩大菩薩

今日是好日也

人は一日を過小評価し10年を過大評価する。その逆も真なり。

2020-08-31 | 古今北東西南の切抜

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——分光法のなかでも岩田先生は「時間分解分光」という方法に取り組んでおられます。ピコ秒(10-12=1兆分の1秒)、フェムト秒(10-15=1000兆分の1秒)といった時間スケールの現象に着目されているそうですね。

特に私たちは、溶液中の化学反応に注目しています。たとえばコップの中に入っている水は、分子同士が1ピコ秒に10回くらいぶつかっています。

化学反応は分子と分子がぶつかった拍子に起こることが多いので、化学反応を見るためには、10分の1ピコ秒(=100フェムト秒)程度の時間スケールで分光測定を行わなければならないということになります。

——生体膜の物理化学的なおもしろさはどこにあるのでしょうか。

物理化学の視点からからみると、生体膜ってものすごく変な場所なんです。生体膜を構成する脂質二重膜は、リン脂質が2層になってできている膜です。リン脂質分子は親水性の頭部と疎水性の尾部からなっており、水っぽい部分と油っぽい部分を同じ分子のなかに持っています。そして、水の中では頭部を外側、尾部を内側にしてリポソームという脂質二重膜のカプセル状の集合体を作ります。膜の厚さは5nmほど。そのすごく薄い厚さの空間やそのすぐ近くで生化学反応が起きているのです。

水は反応性に富み、有機化学反応の中間体と反応して本来の化学反応を妨害することがあるため、一般的な有機合成反応では反応溶媒の脱水を念入りに行うなど、水は徹底的に嫌われています。だけど身体のなかでは、たくさんの水がすぐそばにいるところに油の集合体である脂質二重膜が浮かんでいて、そこで生化学反応が起きています。生きものはなぜ、どうやって、そんな「変な場所」を使って化学反応をしているんだろうということには、素朴に興味がありますね。

(引用/10兆分の1秒の世界で起きる誰も見たことのない現象を追う – 「時間分解分光法」で挑む、学習院大学・岩田耕一教授)

 

《「三島由紀夫は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」

「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」

「彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ」》 -ヘンリー・ミラー

 

Bryan Ferry - More Than This ( Rework Retro Remix)


その心や

2020-08-26 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

(sculpture/by Thomas Houseago)

戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや 国のため 大君のため 死んでしまうや

その心や

白い箱にて 故国をながめる 音もなく なんにもなく 帰ってはきましたけれど 故国のよそよそしさや 自分の事務や女のみだしなみが大切で

骨は骨 骨を愛する人もなし 骨は骨として 勲章をもらい 高く崇められ ほまれは高し なれど骨は聞きたかった 絶大な愛情のひびきをききたかった

がらがらどんどんと事務と常識が流れ 故国は発展にいそがしかった 女は化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ 兵隊の死ぬるや あわれ こらえきれないさびしさや 国のため 大君のため 死んでしまうや

その心や

-竹内浩三「骨のうたう」

Adagio by Quantz with three Pardessus viols


マルチバース

2020-08-23 | 意匠芸術美術音楽

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物理学で珍しい現象がある。二つの離れた粒子があり、片方に触れるともう片方も動く。

私たちは物質として存在している。

ただ、宇宙で通常の物質は4.9%、正体不明の暗黒物質(ダークマター)26.8%、そして68.3%はダークエネルギーと呼ばれる未知なるものが占めているといわれる現状だ。

風呂場の浴槽で見る渦巻きは、外側が内側よりもゆっくりまわる。だが銀河では中心近くと外側の回転速度はほぼ同じであることがわかっているらしい。銀河の形を保つには外側の力と釣り合う「何か」がいる。それを暗黒物質と呼んでいる。

宇宙の誕生時、物質と反物質が出来たらしい。反物質は物質と正反対の性質を持ち互いに打ち消し合うが、現実には物質が残っているおかげで、私はここに身体を持って存在している。

現在までに人類が築いてきた物理学の標準理論では17種類の素粒子を想定しているという。あるとしてなきものや、なきとみてあるものの選別はこれからだろう。

おもうに、現れたり消えたりする素粒子もあるというぐらいだから、あるのやらないのやら以上に、違う次元を行き来しているのかもしれない。霊魂やらあの世やらといった反物質的ないわゆる精神世界もあながち突飛で非科学的と切り捨てるには惜しい。

思考と反思考とが綱引きして、幸せになったりいたたまれなくなったりのことを想い返す。

Vangelis - Vangelis: Nocturnal Promenade


刹那のなりわい。

2020-08-23 | 有屋無屋の遍路。

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刹那はサンスクリット語で意味は念頃だという。

信念が始まるまでの時間の長さを指すようだ。

ユクスキュルによると、「われわれ人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。一瞬がすぎゆく間、世界は静止している。人間の一瞬の長さは十八分の一秒である」ということになる。

映画のコマも18分の一秒で、それ以上を我々は瞬間瞬間としては認識できず、一蓮托生と感得するらしい。

18分の1秒は、約0.056秒である。一刹那は、75分の一秒と言われもするから、凡人の感覚を超えている。

ー色即是空空即是色茶屋達磨詠うも舞うも般若波羅密。

南無煩悩大菩薩、どうしようもないわたしのなりわい。

《心經》Heart Sutra - 王菲 Faye Wong


手に入れてみたい力

2020-08-19 | 世界の写窓から

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現実を受容する能力(Allowing)、起こっていることを、起こっているままに受け入れる能力。

自分に対しても他者に対しても、オープンで柔らかい態度で経験と向き合うということ。

受け身の姿勢や弱さの表れではなく、過ぎゆくこの瞬間に生起していることを直視する能力。

これができなければ、自分や他者を批判的に見てしまい、実際に何が起こっているかを見誤ることになる

私が思ってきたもの、そうではない力。

*allowing:allowの現在分詞。(…を)許す、 (…の)入るのを許可する


ここぞ‘ねばり’のとき

2020-08-17 | 古今北東西南の切抜

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‘ねばり’ということは、これを他の言葉で申せば根気とか、あるいは意志とかという言葉に当たるでしょう。しかし言葉というものは実に微妙なもので、それぞれの生命を持っていると同時にまたその個性を持っているのです。そこでねばりというのと、根気とか意志力というのでは、大体の上では、同じ方向を示す言葉ですが、しかし今その一つ一つについて吟味してみると、それぞれ趣が違うのです。

そもそもわれわれが一つの仕事に着手して、これを一気に仕上げるという場合、どうしてもこれを仕上げるぞと決意する気持ちは、意志という言葉が最もふさわしいと言えるでしょう。ところがそうして決意した事柄を、実際に中断しないで持ち続けていくには、もちろん意志と言っても何ら差支えないわけですが、しかしある意味では根気と言う方が、よりふさわしいかと思うのです。

ところが人間が一つの仕事を始めてから、それを仕上げるまでには、大体三度くらい危険な時があるもののようである。もちろん事柄にもより、また人にもよることですが、しかしまず全体の三割か三割五分くらいやったところで、飽き性の人とか、あるいはそれほど進んでやる気でなかった場合には、ちょっと飽きの来るものです。この第一の関所を突破するには、‘意志’という言葉が一番ふさわしいでしょう。

この三割か三割五分あたりの第一関門をすぎると、当分のうちは、その元気で仕事が進むでしょう。ところが六割か六割五分あたりのところへ来ると、へたってくるのです。そして今度の‘へたり’は、前よりも大分ひどいのが常です。第一の関所で落伍するような人間では問題になりませんが、この第二の関門となると、心身ともにかなり疲れてきますから、まず七、八割の人は、ちょっとへたりこむのです。そこでその際立ち上がるのは、もちろん意志と言ってもよいわけですが、しかし私は、根気という方がもう少し実感に近いかと思うのです。

そこで根気を出して、この第二の関門もついに打ち越えたが、しかしその頃には、相当疲れていますから、持ちこたえるという程度の力しか出にくいのが普通です。つまり第一の関所のように、立ち上がりだしたら、ある意味ではこれまで以上の勢力で突破していくということは、容易にできにくいのです。そこで、とにかくへたり込まないで、なんとかがんばりを維持していく、それにはどうしても‘根気’という言葉が、最もふさわしいかと思うのです。

ところが八割前後になると、いかにも疲れがひどくなって、どうにも飽きがきて、何とか一息つきたくなるものです。しかしそこで一息ついてしまったんでは、もちろん仕事は成就しません。仮に後から補ってみたところで、どうしても木に竹をついだようなものになってしまいます。同時に‘ねばり’という言葉が、独特の意味をもってその特色を発揮し出すのは、まさにこの第三の関所においてです。

これは富士登山で言えば、まさに「胸突き八丁」というところで、最後の目標たる山頂は、眼前すれすれの所に近付いていながら、しかも身心ともに疲れ果てて、いたずらに気ばかりあせっても、仕事の進みはすこぶる‘のろい’のです。つまり油はほとんど出し切って、もはやエネルギーの一滴さえも残っていないという中から、この時金輪際の大勇猛心を奮い起こして、一滴また一滴と、全身に残っているエネルギーを絞り出して、たとえば、もはや足の利かなくなった人間が、手だけで這うようにして、目の前に見える最後の目標に向かって、‘にじりにじって’近寄っていくのです。これが‘ねばり’というものの持つ独特の特色でしょう。

そこで私は、この‘ねばり’というものこそ、仕事を完成させるための最後の秘訣であり、同時にまたある意味では、人間としての価値も、最後の土壇場において、この‘ねばり’が出るか否かによって、決まると言ってもよいと思うほどです。

すなわち百人中九十七、八人までが投げ出すとき、ただ一人粘りに‘ねばり’ぬく力こそ、ついに最後の勝利を占める、もっとも男性的な精神力と言ってもよいでしょう。同時にこうした‘ねばり’の‘こつ’は、運動をやっている人たちは、むろん分かっていることと思いますが、しかしそれが単に運動だけにとどまって、現実の人生そのものの上に発揮できないようでは、まだ十分とは言い難いのです。この点諸君の深く工夫あらんことを切望してやまないしだいです。

-切抜/森信三「修身教授録」より


日々是日々

2020-08-13 | 日日是好日。

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何とか登れそうだった。そこで蟻は、ただ上を目指して登り始めた。なにか目的があったわけではなく、その単純な神経回路にランダムな乱れが生じただけの事であった。

そうした乱れは、この世界のあらゆるところにある。地上の草の一本一本に、草の葉についた露の一粒一粒に、空の雲の一つ一つと、その彼方にある星々のひとつひとつに。

乱れにはなんの目的もないが、莫大な量の無目的な乱れが集まると、そこに目的が生じる。

蟻は、それほど長く登らないうちに、上のほうにいくつも溝があることに気付いた。たくさんの構造が組み合わさって迷宮のような複雑な構造になっていたる。蟻はかたちを把握する能力が高く、このかたちもかならず明らかにしてみせる自信があった。

しかし、その小さな神経回路の記憶容量には限りがあるので、そのためにはこれまで歩いて来たかたちをぜんぶ忘れてしまわなければならなかった。たえず忘れていくことは蟻の一生の一部になっていたから、それでも蟻は少しも残念には思わなかった。

死ぬまでずっと覚えていなければならないものは少なく、それらは遺伝子に組み込まれて、本能と呼ばれる情報エリアに保存されている。

・・巣を払いのけられた蜘蛛が、ふたたび巣を張りはじめていた。今までに蜘蛛の巣は一万回こわされ、一万回張りなおされたが、蜘蛛は、一億年前からそうだったように、それに倦むことも絶望することもなく、喜びを覚えることもなかった。

「生きているっていうのは驚くべきことだ。それがわからない人間に、もっと深いものなんて探せるわけがない」

ー引用参照/劉慈欣「三体Ⅱ」より

Ludovico Einaudi - I Giorni


Rolling

2020-08-12 | 有屋無屋の遍路。

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タクシーを捕まえようとして、駆け足で走れば「自動的に」心拍数が上がる。

聴衆の前に立って話をしようとすると「自然に」副腎からアドレナリンが分泌される。

魅力的な異性を見ると「反射的に」瞳孔が拡張する。

自動的に、自然に、反射的にとは、身体の自動システムが環境の変化に反応するときの様子を表した言葉である。

その様子を抱いて生きている。先祖の墓参さえ思う様子にならないこの夏にしても。

Chris Rea ~ Looking For The Summer (1991)


左様なら、司朗さん。

2020-08-03 | 酔唄抄。

2020年7月30日午前、司朗さんは逝った。

2011年12月14日に、司朗さんが私に差し出した紙切れにはこう記されてある。

「 命終の時にのぞんで 心転動せず 心錯乱せず 心失念せず あたかも禅定に入るがごとく 」

酒の恩師であり道の導師であり、なによりも若輩に対しこれほど肝胆照らしてくれた方はおらんのであります。

その昔、ある賢人は言いました、語り得ぬことにおいて、人は寡黙になるべし、まさしくその心境です。

数えきれない想い出ありがとうございました。

 

「 千里鶯啼いて緑紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝四百八十寺 多少の楼台 煙雨の中 」-江南の春 杜牧

「 春宵一刻値千金 花に清香有り月に陰有り 花管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈 」-春夜 蘇軾

 


何事も起こり得る。

2020-08-02 | 古今北東西南の切抜

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たとえば、プライバシーについてー

プライバシーに関する思想は社会に根差すので、気にする社会もあれば、気にしない社会もある。西欧の視点では、中国国民のプライバシー保護の欠如は、有害という見方もあります。しかし、中国人がそう感じているかどうかはわかりません。

・・米国人でさえプライバシーを守りたいと言いながら、生活の出来事のすべてをフェイスブックに書いている。ですからとても難しいのです。言行不一致だったりするので。プライバシーについて、我々は実はあまりよくわかっていないように思います。

 

たとえば、働き方改革についてー

我々は週に5~6日働いてきました。しかし生物学的には、週6日働かなければいけない根拠などない。人々がもっと短く働き、より多くの人に仕事を広げる職場環境が必要だという人もいます。

しかし、これらは憶測に過ぎないし、私は何が起こり、何が起こらないのかは、起こってみなければわからないと思っています。

(会社の目線では、平均的な人が週に2,3日働くよりも、優秀な人に高くお金を払って週5日働いてもらうという選択になるのかもしれません)

-アジェイ・アグラワル

 

起こらないことがあったのに気にしない、起こったとたんに気にするというのは、どうにもへんな対応ではありませんか。

何事も起こったか起こらなかったという事ではなく、護持すべきはすべての物事は起こり得るということではないでしょうか。