南無煩悩大菩薩

今日是好日也

LGBTQもしくはBLACKあるいはWHITEあるいはYELLOWということについて。

2022-01-23 | 意匠芸術美術音楽

(picture/source)

フランスの詩人ルネ・シャールさんは、

「汝の正当な奇妙さを発達させよ」

と云った。

差別や偏見というものが生じるということは当人の正当な奇妙さをないがしろにしているか、もしくは不当で稚拙で根拠のない惰性の認識のせいかもしれない。

例えば「性」についてフランスの哲学者ミシェル・フーコーさんは次のように言っている。

「セクシャリティは私たちの振る舞いの一部です。私たちの世界の自由の一部なのです。セクシャリティは、私たち自身が創造する何かです。それは私たち自身の創造でもありますし、私たちの欲望の隠れた側面を発見する以上のことを意味します。欲望とともに関係の新しい形態、愛の新しい形態、創造の新しい形態が生まれているということを私たちは理解しなければならないのです。性は必然ではありません。それは創造的生の可能性です。私たちは同性愛であると断言するだけでは十分でありません。同性愛の生も創造しなければならないのです」。

Nothing Else Matters (Metallica) : MOZART HEROES (Official Video)

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「酒の目出度さ」という思想

2022-01-10 | 酔唄抄。

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僕は毎日酒を飲む。そして次の朝には必ず後悔する。しかし、後悔しながら酒を飲むからこそ僕は詩人なんだ。

萩原朔太郎さんはそういいつつ酒を飲んだ。また「酒に就いて」彼はこんなことも書き残している。

酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。だが私自身の場合でいえば、たしかに疑いもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飮まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされていた。そのため生きることが苦しくなり、不断に自殺のことばかり考えていた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にいるほどだつた。それが酒を飮み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体の調子も良くなってきた。酒は「憂いを掃う玉箒」というが、私の場合などでは、全くその玉箒のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たようなものである。

酒が意志の制止力を無くさせるという特色は、酒の万能の效能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。実際酔中にしたすべての行為は、破倫というほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに酔っている中が好いのであって、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴わない快楽というものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、始めから酒を飲まない方が好いのである。酒を飲むということは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。平常素面の意識では出来ないことが、所謂酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまった男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓うであらう。その悔恨は鞭のように痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飲まなかったら、生涯そんな豪遊をすることも無かったろう。そして律義者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかった。酒を飲んで失敗するのは、始めからその冒険の中に意味をもっている。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。

酒飲みどもの人生は、二重人格者としての人生である。平常素面で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末におえない好色家になり、卑猥な本能獣に変わったりする。前の人格者はジキル博士で、後の人格者はハイドである。そしてこの二人の人物は憎み合つてる。ジキルはハイドを殺そうとし、ハイドはジキルを殺そうとする。醒めて酔中の自己を考える時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。私がもし醒めている時、酔ってる時の自分と道に逢ったら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまうであろう。

この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
この映画には二人の主役人物が登場する。一人は金持ちの百萬長者で、一人は乞食同樣のルンペンである。百萬長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知って怏々として居る。そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探している。それは人間の最も深い悲哀を知ってるところの、憑かれた悪霊のような人物だった。そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔って死場所を探している不幸な紳士が、場末の薄暗い地下室で、チャップリンの扮している乞食ルンペンと邂逅する。ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがった事情によって、人生にすっかり絶望している種類の人間である。そこで二人はすっかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髭面をつけて接吻さえする。酔っぱらった紳士は、ルンペンを自宅へ伴い、深夜に雇人を起して大酒宴をする。タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出そうとするのである。しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飮ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寢かせ、互に抱擁して眠るのである。 

朝が来て目が醒めた時、紳士はすっかり正気になる。そして自分の側に寝ているルンペンを見て、不潔な憎悪から身震いする。彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴をおもてへ掴み出せと怒鳴るのである。彼は自殺用のピストルをいじりながら、昨夜の馬鹿げた行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。彼は自分に向って「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。そこでまたすっかり感激し、「おお兄弟」と呼んで握手をする。それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りったけの札束をすっかり相手にやってしまう。だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰った時、大金をもっているルンペンを見て、この泥坊野郎などと罵るのである。そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。

宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によって自己の半身(百萬長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士としての紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによって、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映った一人二役の姿であった。しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のように嫌厭している。それでいて彼の魂が詩を思う時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。

チャップリンの悲劇は深刻である。だが天才でない平凡人でも、こうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知っている。特に就中、酒を飲む人たちはよく知ってる。すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現れて来る紳士である。夜になって泥酔し、女に大金をあたえて豪語する紳士は、朝になって悔恨し、自分で金をあたえた女を、まるで泥棒かのように憎むのである。酔って見知らぬ男と友人になったり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になって百度も唾を吐いてうがいをする。そして髮の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向って痛感する。

すべての酒飲みたちが願うところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になって記憶にとどめず、忘れてしまいたいという願望である。即ちハイドがジキルにしたように、自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまいたいのだ。しかしこのもっともな願望は、それが実現した場合を考える時、非常に不安で気味わるく危険である。現にかって私自身が、それを経験した時のことを語ろう。或る朝、寢床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。私はどこかで怪我をしたのだ。そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思い出す原因がない。後になって友人に聞いたら、酔って自動車に衝突し、舖道に倒れたというのである。もっとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行ったら、女給が「昨夜遅くなってお帰りが困ったでしょう」という。昨夜その店へ来た覚えがないので、私が妙に思って反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だって昨夜来たくせに」という。不思議に思ってだんだん聞くと、たしかに昨夜来て居たことが、少しづつ記憶を回復して解って来た。それがはっきり解った時、私は不思議な気味わるさから、真っ青になって震えてしまった。

こうした記憶の喪失ほど、不安で気味のわるいものはない。なぜなら或る時間内に於ける自己の行為が、一切不明に失喪して、神かくしになってしまうからである。昨夜の自己がどこで何をしていたか、どこを歩きまわり、何を行動していたかということが、自分で解らない時の気味わるさは、言語にいえない種類のものだ。夢遊病にかかった人は、自己の行為に対して記憶を持たず、病気が治った後で、その過去の生活と、その半身の自己とをすっかり忘れてしまっている。ウイリアム・ゼームスの心理学書には、こうした夢遊病者と人格分裂者の実例がたくさん出ている。或る患者等は、病気中の自己をB氏という他人名で呼び、自分とすっかり別の人物として語っている。しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客観的の見方をしている。すべての酒のみ人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。

シャルル・ボードレールは、酒と阿片とハシシとに就いて、その薬物学的比較観察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危険性がない上に、意志を強くするといって推奨してゐる。阿片やハシシに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有ったところの、自然の天与した飲物である。猿のような動物でさえも、自らかもして酒を飲むのだ。支那人が酒の精を猩々に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに例えたのは、まことに支那人らしく老莊風の思想である。この「酒の目出度さ」という思想が、キリスト教の西洋人には解らない。そこで彼等のピューリタン等は、酒を悪魔のように憎悪するのだ。酒の宗教的神聖の意味を知ってるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。

抜粋/萩原朔太郎「酒に就いて」より

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2022-01-03 | 意匠芸術美術音楽

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 うさぎかめと、どっちが早いかということは、長い間、動物仲間のうちで問題になっていました。あるものは、もちろん兎の方が早いさと言います。兎はあんなに長い耳を持っている。あの耳で風を切って走ったら、ずいぶん早く走れるに違いないと。
しかしまた、あるものは言うのです。いいや、亀の方が早いさ。なぜって、亀の甲羅はおそろしくしっかりしているじゃアないか。あの甲羅のようにしっかりと、どこまでも走って行くことが出来るよと。


そう言って、議論しているばかりで、この問題はいつまでたっても、けりがつきそうもありませんでした。
そして、とうとう動物たちの間には、その議論から一戦争ひとせんそうはじまりそうなさわぎになったので、いよいよふたりは決勝戦をすることになりました。兎と亀とは、競走をって、どっちが早いかを、みんなの動物たちに見せるということになりました。


「そんな馬鹿々々ばかばかしいことはいやですよ。」
と、兎は言いました。が、彼の味方たちは一生懸命兎を説きふせて、ともかくも競走に出ることを承知させました。


「この競走は大丈夫、私のかちですよ。私は兎みたいにしりごみなどはしませんよ。」と、亀は言いました。亀の味方は、どんなにそれを喝采かっさいしたことでしょう。

競走の日は、まもなくやって来ました。敵も味方も、いよいよ勝敗の決する時が近づいたので、口々に大声でどなり立てました。
「私は大丈夫勝ってみせますよ。」と、亀はまた言いました。
が、兎は何にも言いませんでした。彼はうんざりして、ふきげんだったのです。

「しっかり走ってくれ。」
と、亀の味方は言いました。そして「しっかり走れ」という言葉を、きま文句もんくのように、みなは口々にくりかえしました。
「しっかりした甲羅を持って、しっかり生きている――それは国のためにもなることだ。しっかり走れ。」

いよいよ、二人は出発しました。敵も、味方も、一時いちじにしんとなりました。
兎は一息ひといきに、半分ばかり走りぬきました。そして、自分のまわりを見廻みまわしてみると、そこには、亀の姿すがたも形も見えないではありませんか。
なんて馬鹿々々しいことだい。亀と競走をするなんて。」兎はそう言って、そこへすわんで、競走をやめてしまいました。


「しっかり走れ、しっかり走れ。」と、誰やらが叫んでいるのがきこえます。「やめてしまえ。やめてしまえ。」と、ほかの声が言っています。

が、しばらくしますと、亀は兎のそばへ近づいてまいりました。「やって来たな。この亀の野郎。」と、兎は言いました。そして、彼はあがって、せい一杯いっぱいの早さで走り出しました。亀がどんなにせいを出しても追いつけないような早さで。

兎は、もう半分ばかり走りつづけて、もう少しで決勝点というところへつきました。が、その時彼は、うしろの方に姿さえ見えない亀と、一生懸命競走している自分は、何と馬鹿げてみえることだろうと、考えました。そう思うと、もう競走するのが、すっかりいやになって、またそこへ坐りこんでしまいました。

「しっかり走れ。しっかり走れ。」「いや、やめさせてしまえ。」と、大勢おおぜいは叫んでいます。


「どんな用があったって、もういやなことだ。」兎はそう言って、今度はゆっくり腰をすえてしまいました。ある人は、彼は眠ってしまったのだと申します。

それから、一二いちに時間ばかり、亀は死にものぐるいで走りつづけたのです。そしてついに競走は亀が勝ってしまいました。
「しっかり走ること、しっかりした甲羅を持っていること――それが、それが、亀の何よりのたからだよ。」と、味方のものは言いました。
 そして、それから彼等は亀のところに行って、「競走に勝った時の気持きもちをおらし下さい」と言いました。亀は自分ではうまい返答が出来ないので、海亀のところへ聞きに行きました。すると、海亀は、「やっぱり、お前の足が早いから、名誉めいよの勝利を得たのさ。」と言いました。そこで、彼は帰って来て、友だちにその言葉をくりかえしました。動物たちは、「なるほどそうかなア」と思って聞きました。

そこで、今日こんにちまで「足が早いから名誉の勝利を得たのだ」という言葉を、亀や、かたつむり類は、そのままに信用しています。
が、実際はもとより兎の方が亀より早かったのです。ただ、この競走を実際に見た動物たちが、そののちまもなくおこった大きな森の火事で、すっかり死んでしまったため、本当のことが伝わらなかったのです。

森の火事は、大風のある晩に突然起りました。兎だの、亀だの、そのほか五六ごろく匹の動物は、その時ちょうど森のはずれの小高い禿山はげやまの上にいたので、すぐ火事を見つけることが出来ました。彼等は、大いそぎで、この火事を森の中の動物に知らせに行くには誰が一番いいだろうかと、相談しました。その結果、ついにこの間の競走で勝った亀が、その役目をひきうけることになったのです。

もちろん、亀が「しっかり走って」行くうちに、森の中の動物たちは、残らず火事にやかれてしまったのであります。ー参照/ロオド・ダンセイニ「兎と亀」より

"Teardrops" by The Tiger Lillies LIVE at Principal Club

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新年を賀して候

2022-01-01 | 日日是好日。

新年の御寿目出度く申し納め候(そうろう) 

御家皆様御揃いにてのどかに御歳越遊ばされ候段御慶びの至りに存じ上げ候

次に私宅一同も恙なく馬齢を加え候間憚りながらご放念下されたく候

旧年は一方ならぬ御厚情に浴し御礼の申し上げようも候わず本年もまた相変わらず御眷顧の程希望に堪えず候

先ずは年始のご祝詞まで斯くの如くに御座候 

謹言

 

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