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僕は毎日酒を飲む。そして次の朝には必ず後悔する。しかし、後悔しながら酒を飲むからこそ僕は詩人なんだ。
萩原朔太郎さんはそういいつつ酒を飲んだ。また「酒に就いて」彼はこんなことも書き残している。
酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。だが私自身の場合でいえば、たしかに疑いもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飮まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされていた。そのため生きることが苦しくなり、不断に自殺のことばかり考えていた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にいるほどだつた。それが酒を飮み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体の調子も良くなってきた。酒は「憂いを掃う玉箒」というが、私の場合などでは、全くその玉箒のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たようなものである。
酒が意志の制止力を無くさせるという特色は、酒の万能の效能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。実際酔中にしたすべての行為は、破倫というほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに酔っている中が好いのであって、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴わない快楽というものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、始めから酒を飲まない方が好いのである。酒を飲むということは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。平常素面の意識では出来ないことが、所謂酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまった男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓うであらう。その悔恨は鞭のように痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飲まなかったら、生涯そんな豪遊をすることも無かったろう。そして律義者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかった。酒を飲んで失敗するのは、始めからその冒険の中に意味をもっている。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。
酒飲みどもの人生は、二重人格者としての人生である。平常素面で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末におえない好色家になり、卑猥な本能獣に変わったりする。前の人格者はジキル博士で、後の人格者はハイドである。そしてこの二人の人物は憎み合つてる。ジキルはハイドを殺そうとし、ハイドはジキルを殺そうとする。醒めて酔中の自己を考える時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。私がもし醒めている時、酔ってる時の自分と道に逢ったら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまうであろう。
この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
この映画には二人の主役人物が登場する。一人は金持ちの百萬長者で、一人は乞食同樣のルンペンである。百萬長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知って怏々として居る。そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探している。それは人間の最も深い悲哀を知ってるところの、憑かれた悪霊のような人物だった。そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔って死場所を探している不幸な紳士が、場末の薄暗い地下室で、チャップリンの扮している乞食ルンペンと邂逅する。ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがった事情によって、人生にすっかり絶望している種類の人間である。そこで二人はすっかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髭面をつけて接吻さえする。酔っぱらった紳士は、ルンペンを自宅へ伴い、深夜に雇人を起して大酒宴をする。タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出そうとするのである。しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飮ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寢かせ、互に抱擁して眠るのである。
朝が来て目が醒めた時、紳士はすっかり正気になる。そして自分の側に寝ているルンペンを見て、不潔な憎悪から身震いする。彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴をおもてへ掴み出せと怒鳴るのである。彼は自殺用のピストルをいじりながら、昨夜の馬鹿げた行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。彼は自分に向って「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。そこでまたすっかり感激し、「おお兄弟」と呼んで握手をする。それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りったけの札束をすっかり相手にやってしまう。だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰った時、大金をもっているルンペンを見て、この泥坊野郎などと罵るのである。そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。
宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によって自己の半身(百萬長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士としての紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによって、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映った一人二役の姿であった。しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のように嫌厭している。それでいて彼の魂が詩を思う時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。
チャップリンの悲劇は深刻である。だが天才でない平凡人でも、こうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知っている。特に就中、酒を飲む人たちはよく知ってる。すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現れて来る紳士である。夜になって泥酔し、女に大金をあたえて豪語する紳士は、朝になって悔恨し、自分で金をあたえた女を、まるで泥棒かのように憎むのである。酔って見知らぬ男と友人になったり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になって百度も唾を吐いてうがいをする。そして髮の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向って痛感する。
すべての酒飲みたちが願うところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になって記憶にとどめず、忘れてしまいたいという願望である。即ちハイドがジキルにしたように、自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまいたいのだ。しかしこのもっともな願望は、それが実現した場合を考える時、非常に不安で気味わるく危険である。現にかって私自身が、それを経験した時のことを語ろう。或る朝、寢床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。私はどこかで怪我をしたのだ。そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思い出す原因がない。後になって友人に聞いたら、酔って自動車に衝突し、舖道に倒れたというのである。もっとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行ったら、女給が「昨夜遅くなってお帰りが困ったでしょう」という。昨夜その店へ来た覚えがないので、私が妙に思って反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だって昨夜来たくせに」という。不思議に思ってだんだん聞くと、たしかに昨夜来て居たことが、少しづつ記憶を回復して解って来た。それがはっきり解った時、私は不思議な気味わるさから、真っ青になって震えてしまった。
こうした記憶の喪失ほど、不安で気味のわるいものはない。なぜなら或る時間内に於ける自己の行為が、一切不明に失喪して、神かくしになってしまうからである。昨夜の自己がどこで何をしていたか、どこを歩きまわり、何を行動していたかということが、自分で解らない時の気味わるさは、言語にいえない種類のものだ。夢遊病にかかった人は、自己の行為に対して記憶を持たず、病気が治った後で、その過去の生活と、その半身の自己とをすっかり忘れてしまっている。ウイリアム・ゼームスの心理学書には、こうした夢遊病者と人格分裂者の実例がたくさん出ている。或る患者等は、病気中の自己をB氏という他人名で呼び、自分とすっかり別の人物として語っている。しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客観的の見方をしている。すべての酒のみ人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。
シャルル・ボードレールは、酒と阿片とハシシとに就いて、その薬物学的比較観察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危険性がない上に、意志を強くするといって推奨してゐる。阿片やハシシに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有ったところの、自然の天与した飲物である。猿のような動物でさえも、自らかもして酒を飲むのだ。支那人が酒の精を猩々に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに例えたのは、まことに支那人らしく老莊風の思想である。この「酒の目出度さ」という思想が、キリスト教の西洋人には解らない。そこで彼等のピューリタン等は、酒を悪魔のように憎悪するのだ。酒の宗教的神聖の意味を知ってるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。
ー抜粋/萩原朔太郎「酒に就いて」より