南無煩悩大菩薩

今日是好日也

神秘教の妙薬

2022-07-27 | 酔唄抄。

(picture/source)

それは酒である。

百薬の長といわれたり、般若湯といわれたり、酒中の趣人知らずなどと謳歌されたり、酒は神秘教の象徴である。

酒に宗教があり、詩があり、精神の良薬であるなどというと、この詩趣神秘を知らぬ人は不思議に思うだろう。もっともである。彼らは飲酒の本来の意義を忘れたのみならず、また解するだけの宗教心もない。

ここにひとり酒の理解者がいる。普段はいかにも戦々恐々としている、まことに温良で模範的な人物である。

ところが、一杯やると忽然として人物が違ってくる。その妙所に入るときは、本来の面目をいかんなく発揮する。洒脱自在の活人物が現れる。

今まで自分で作った縄に縛られかしこまっていた男が、ただちに無限者へと進化し、まわりもまきこまれる。

第一に自他の区別を超越する。すなわち空間的に自在となる。

それから時間に囚われなくなる。時計が5分10分1時間2時間と刻みゆくのを何とも思わない。つまりだらしなくなる、電車に間に合わなくても構わない。それで時間の制約を飛び越える。

酔っても酔っていないという、明日のことを考えない、借金を忘れる、王侯の前でも憚らない、この男はこれで完全に道徳や因習や因果をその足の下に踏みにじる。

こんな人間は自在者、無限者でなくて何であろう。昔から酒が感傷的な人に好かれ、また日々労働の圧迫に堪えた人に好かれるのももっともなことではないか。

有限から無限へのあこがれが宗教であり、芸術であるなら、酒飲みは宗教そのもの、芸術そのものである。

晩酌を少しやると薬になるなどといって飲む連中はけちな連中である。酒は有限から無限に至る道行であることを忘れて、有限の生命に肥料するなどは、信心が足りない。

しかしそれでもなにか陶然としてくるなら、自覚はないとしても有限の拘束を離れた気分になるそこに、一種の美的趣がないとはいえない。この点からみると酒はその材料の穀物と同様、人間に必要なものかもしれないので、あまり税をかけないほうが良いと思われる。

と、誰だったかは知らんけどそんなことをある酒飲みがゆうておった。

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Set Me Free

2022-07-20 | 意匠芸術美術音楽

painting/Janina Magnusson)

無縄自縛という言い回しがある。縄はどこにもないのに、自分勝手に無い縄で自分を自分で縛る。

「むじょうじばく」と読む、これは考える葦として避けがたいことのようでもある。

人間ほど妙な動物はない。頭で何かこしらえて、そのこしらえたもので、自ら悩まされている。無い縄を想像的につくり出してそれに縛られることで悩んだり怒ったり喜んだりしている。

猫はニャンとないたり犬がワンとほえたりするが、犬や猫自身が、なぜニャンなのかワンなのかと自省したり悦に入ったりすることは無いようである。

そもそも初めから縄を編まなければいいのだが、どうも本能とやらが承知しないようで、卑やら誉れやら善やら悪やらとなにかと編み出す。

自分でつくったことなのだから自由にどうにでもなるはずが、なんともならず困ってくるという、いたく滑稽な反応だともいえる。

進行する歴史は、そんな反省でいっぱいだが、有史以来、代々生まれ来る人間は相も変わらず懲りずそんなことを繰り返している。

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風流のひとこと。

2022-07-08 | 野暮と粋

(/鉄翁祖門 蘭図)

正直にして、天理に通じ、慈悲を以ってよく人に施す。

無欲にして、足ることを知る。

平日、行事正しくして邪なく、物を愛して執せず。

俗塵凡情、一点も無き、これを古人、風流と云う。

-鉄翁和尚

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とっとと不風流

2022-07-06 | 野暮と粋

(picture/source)

時は元禄のころ、芭蕉の門人に大店の店主がおりまして、ある日芭蕉を家に呼んで、いろいろともてなしていたそうです。

そのうち日も暮れて燭台に火をともそうとやってきたそこの小僧さん、しかし誤って種火の芯を切って火を消してしまいました。

主人はそれをたいそう咎めて、大事なお客様のもてなし中に粗相をしたと、持っていた扇で小僧さんを叩きました。

芭蕉翁は、それを見て興ざめし席を立ってとっとと帰ろうとします。主人あわてて、せっかくお越しくださいましたのにもうしばらくお過ごしくださいと、引き止めます。

芭蕉翁答えて、

『いやいや私は俳諧師としてこのような不風流な席には少しも居たくありません。

考えてもみなさい。「燈籠の芯を摘むとて火を消して」という前句があるとして、後句に「持った扇で小僧打たれる」などとつけて俳諧になるものですか。

「折しも月の空に出てたなり」などとつけてこそ、風雅に聞こえるものです。

この風流の心こそ、万事に必要なものです。もしそれを忘れて力業に訴えるような不風流な振る舞いでどうしてこの世の神髄を学べるでしょう。』

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