南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ころんでもころんでも

2020-05-31 | 古今北東西南の切抜
(gif/source)

古代エジプトでは、スカラベ(糞転がし)は、復活と自己生成という高度な概念を象徴していた。

スカラベは、丸めた糞に卵を入れて、東から西に向かってフンの玉を転がす。これを見た古代エジプト人は、夕方に「死に」日の出で「生き返る」太陽の、毎日の活動周期を思い起こした。というのも、卵が隠されているなんて思いもよらなかったから、糞の中で卵がかえり、幼虫が出てくると、スカラベに自己生成の能力があるように見えたのだろう。

動物の糞は、フンコロガシのエサで、卵を入れておく孵化室の材料にもなる。オスは糞の山にたかって、運べる限りたくさんの、ときには自分の体重の50倍もの糞を集めて球場に丸める。糞の玉は雌へのプレゼント。

また、フンコロガシは、糞の玉を転がす前に、玉によじ登って、くるくるまわる。糞のダンスをするのは、障害物にでくわしたときや、玉が転がっていったときにも踊る。

そして、逆立ちして、後ろ足で糞を押しながら一直線に進む。人間なら自分がどこをどう進んでいるかわからない。

フンコロガシは、糞の上でダンスをしているあいだに、頭の中で空の「スナップ写真」を撮影して、移動中にときどき実際の夜空と比べながらコースをたどっているようだ。

神聖な糞転がしは、満天の空の下で糞の玉に乗ってダンスをしているときに、頭の中に星図を描いている。

(参照/ベリンダ・レシオ「INSIDE ANIMAL HEARTS AND MINDS」)
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真情流露の候

2020-05-28 | 意匠芸術美術音楽
(photo/source)

”真情流露”

とかいて、

”ありのまま” とよむ。

なんとも粋ないいまわしやおもいます。

阿波踊り(徳島盆踊り唄) / お鯉 Okoto "Awa Odori" Japanese Traditional Folk Song
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手放すことのセンス

2020-05-26 | 世界の写窓から
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春秋、冬夏、巡りくるものであるということは信じるに値するか。

邂逅の慶びには別離と言う前提がある。

還ってくると私は信じる。その放下着のこと。

Club Des Belugas - A Men 's Scene
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看過するとつまらなくなる。

2020-05-24 | 世界の写窓から
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世にもてはやされるもの、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。

各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。

もしその看た結果がつまらなければ看る者の頭がつまらないためで、そこに在るものがつまらないわけでは決してない。

-source/unknown

地上の星 / 中島みゆき [公式]
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居家如客

2020-05-21 | 古今北東西南の切抜
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「一つ、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類に親しくし、下人等に至るまでこれを憐れむべし。主人ある輩は各その奉公に精を出すべき事」。

これは先輩中沢翁拝読せられたお上の御高札の写し、幾度聞いても聞き飽きのない有難いことなので、これに倣って話します。畢竟、人は互いに仲良くして、世界中小言なしにニコニコと機嫌よく暮らせということじゃ。

もしこれが間違って、「一つ、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類と喧嘩し、下人等に至るまでこれを酷く使うべし。主人ある輩は各その奉公に精を出すべヵらず」。とのお達しならば何とする。

明六ッの鐘がなると親子兄弟夫婦そろそろ寝所から喧嘩をはじめ、茶の沸く時分までひといき掴み合って、まず息休めに朝めしを食い、箸を下に置くやいなや、子は親に口ごたえし、弟は兄のよこつらを張り、亭主は女房を引きずりまわし、泣くやらわめくやら、茶碗割るやら煙草盆踏み砕くやら、ほっとした時分に昼めしを食い、それからまた叩き合い、日が暮れても精出して夜なべ仕事に喧嘩する。

なんと365日こんなことが していられようか。それでもお上のお達しならば、否応でもしなければならず、これがなかなか三日も続けられそうもない。
この仲良くすることは、元来人の生まれつきのことなので、生まれつきの通りしなさいということなら、喧嘩せずに100年でもいられる。例えば、手の指の内へ曲がるは生まれつきなので、何回曲げても楽なもの。もしこれを外へ曲げるとたちまち痛んで歪み、使えなくなる。これと同じことじゃ。

人、この世に仮に客に来たと思え。客なれば夏の暑さも冬の寒さもこらえねばならぬ。妻や子や孫もなおもって相客なれば、挨拶よくしてお暇申すまで。

父母に呼ばれて仮に客に来て心残さず帰る故郷

家ニ居ルヤ客ノ如シ

いかさまこう心得ると辛抱ならないものはない。自宅に居れば丸裸でもまだ暑いような夏の日でも、人様の家に呼ばれ客だと思えば、ネクタイ姿でも小言云う気ままも辛抱がなります。厳冬素雪の冬の日に、青洟垂れてずずぶるいに成っていながら、いえいえ暖かにございます、と言う歯の根もあわなくても客だと思えば辛抱がなる。

(引用/鳩翁道話より)

とにもかくにも何事もニコニコと機嫌よく堪忍して仲良く暮らすが、よろしかろう。なにはともあれ、いこう、いけるとこまで。

L'Oceano di Silenzio - Franco Battiato - Salar de Uyuni (Bolivia)
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Post Nighthawks

2020-05-20 | 酔唄抄。
(gif/source)

誰もいないじゃないか。

画像は、エドワード・ホッパーの1942年の絵画「Nighthawks」のパロディ。

ホッパーの当時は工業化の幕開けであり大量生産へと突き進んでいた。量産された家電や電灯は家庭生活を明るくするだけでなく、夜の街も変えた。以来、繁華街の食堂や酒場は深夜営業が増え、ナイトホークス(夜更かし)たちのたまり場となった。

2020年今現在、夜更かしたちは行くところが無くなっている。賑やかな都会の片隅にある魂の孤独、なんていう気取ったことは贅沢な過去の事のようになっている。

ころなはずじゃなかった。

original/Nighthawks
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さりながら御免蒙らず

2020-05-19 | 酔唄抄。
/カフェライオン鼻つまみ番付)

しかるに御免蒙りたい人たちには、

村松正俊、一日に八遍も来るから。
辻潤、酔うと女に抱きつくから。
松崎天民、あいも変わらず偉そうなホラばかり吹くから。
千田是也、肩ばかり怒らせているから。
英百合子、卑猥な顔をしているから。
プラウデ、鮭みたいな顔をして、色男ぶるから。
山田耕作、金もないくせに特別室へ入るから。
尾崎士郎、宇野千代に呑み代を貰ってくるから。
吉井勇、エッヘエッヘと笑うから。
近衛秀麿、毛虫眉毛をピリピリさせるから。
菊池寛、たまにきて女給を張るから。
宇野浩二、ハゲかくしに帽子をとらないから。
エトセトラ・エトセトラ・・、とそうそうたる人たちも目くそ鼻くそでおらっしゃる。

ご同輩諸氏、斯くの如し、世の酒飲みはどこぞにかでも世間にて酔う限り身に覚えあるものと、思し召しくだされ。

さりながら、ところが、鼻つまみもんでこその愛嬌、連れ合い好き合い嫌い合いなりにまた杯を勧むということも無きにしも非ず。

さればこそ、この世の名残酒の名残と申すものであります。

まつのき小唄
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友愛は無担保無保証。

2020-05-18 | 世界の写窓から
(picture/Heroes)

お願い(要請)するなら保証がないといかん。そんなことは本当のことなのか。

あたしを愛して、とか、ボクに優しくしてくれ、とか、ちゅうことのリレーションシップについて私はいま考えている。

愛せない、優しくできない、それは誰のせいでもありゃせんじゃないか。

生き延びる種のつよさは、保証のない世界をかいくぐり結果選択されてきたからではなかったか。

宇崎竜童 ☆ 絶対絶命  横須賀ストーリー
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アナウンス

2020-05-17 | 世界の写窓から
(copy/source

自然をみるときは、気分を明るくして、現実から離れてみてね。

AMKK presents: Botanical animation "Story of Flowers" full ver.
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有るものを費やして無いものを包む

2020-05-16 | 世界の写窓から
(photo/source)

時間はあっても金が無い。

その境涯もまた一段の風流と云わねばならぬ。

当たりまえのことは当たりまえではないという処に行かぬ限り知れるようなものではない。
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雲梯

2020-05-15 | 世界の写窓から
(gif/source)

スタンフォード大学で生態系について教えるマーシャル・バークは、この

「異常さを理解するには尋常の考えは役に立たない」、

と言わんばかりに、次のパラドクスを指摘した。「COVID-19のおかげで中国の大気汚染が緩和されましたが、それによって、この感染症で命を失った人のおそらく20倍の数の命が救われたのです。COVID-19の大流行が有益だと言っているのではありません。私たちの経済システムがどれほど健康を害しているか考えた方がよいということです。コロナウイルスがあってもなくても同じです」

このウイルスは、平時では考えられないような厳しい外出禁止措置を引き起したが、そのおかげで、社会的`な隔たりの間にある壁'がしばし`打ち破られた'ように見えた。

卒然として、ウォールストリートの銀行家と中国の労働者が同じ恐怖に慄いたはずだ。

しかしすぐに、やはり金がものを言うようになった。一方で、庭付きの邸宅にこもって、足のつま先をプールの水につけながらテレワークをしている人がいる。他方、介護士、清掃作業員、スーパーのレジ係、運送業の配達員など、日常の細々したことに携わる普段は目立たない人が、裕福な人たちの避けたリスクを背負うようになったがために初めて社会の表面に出てくる。

テレワークする人でも、子供たちの騒ぐ声が響く狭いマンションに閉じ込もっている人がいるし、閉じこもる家があれば、と思っているホームレスだっている。

(引用/参照
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雑多紛々の人生

2020-05-13 | 意匠芸術美術音楽
(Art/Mark Tobey, Title:Untitled,1972)

種族が異っても、国が異っても、文化が異っても、やはり人間だから、考えることが似たり寄ったりである。それを思うと、今更ながら最初にかえることが必要だという気がする。経文あっての仏法ではない。また哲学あっての思索ではない。もっと先の先にその縁り起って来る原始的本体があるのである。それに注目せよ。

いろいろと面白いことがあるが、先づ打たれるのは、雑多紛々の人生である。その雑多紛々の人生の記録である。つまり盲目なる人生の河である。

客観が現れて来て、始めて人間はその人間の大きさを、単なる物ではないことを、宇宙のリズムに合致していることを、自分は自分ばかりではないということを、人間であると同時に宇宙の存在であるということを知るようになる。つまり自己を始めて空間に置いて見るということになる。そこに行って、始めて自己がわかり、他がわかり、他の存在がわかる。即ち自己を他の中に発見し、また他を自己の中に発見するという心の境である。そうなればもはや盲目の人生の河に泳いでいるものではなくなる。

饒舌するものよ。少しく静かであれ。争うものよ。暫くその叫びを止めよ。争いは単に争うがためにあるものではない。闘うものは単に闘うためにあるものではない。底に流れているもののいかに静かで且つ厳かであるかを見よ。

自己がわかり他の存在がわかるということの上にのみ本当の自由があり、本当の独立があり、本当の人生がある。

言うだけのことを言って聞くだけのことを聞く。その先はどうにもならない。人間がどうにもならないやうにどうにもならない。そこを深くつかむことが肝心である。そこを本当につかんでいさえすれば、敵の重囲の中にいてもびくともするものではない。

怒るのも、悲しむのも、笑うのも、また不快に思うのも、多くはその外面の理由だけで解釈されるべきものではない。皆その縁って来るところがあるものである。それはその時は激情に捉えられていてわからなくとも、ある期間時を置けば、必ずはっきりとして来るものである。あぁあの時はああいうことがあった、こういうことがあった、そのためああいう風に怒ったり悲しんだりしたのだというようにわかって来るものである。

百尺竿頭一歩を進めよという言葉がある。唯一歩である。普通に考えてる境から唯一歩を進めれば好いのである。反射して来た対象物に唯一歩深く入って行けば好いのである。そうすれば、いろいろな世界が開けて行って、人の心が具象的に不思議な絵になって見えて来る。言はない言葉がはっきりと耳について聞こえて来る。あらわれるべくしてしかもまだあらわれないものがはっきりとそこに出て来る。

完結すべきものではあるまい。何故というのに、この人生は決して完結していないからである。一つから一つへと絶えず心が縁り起って、無窮に活動を続けて行っているからである。菩提のあとに煩悩が来り、煩悩のあとに菩提が来り、更にまた菩提のあとに煩悩が来るという風であるからである。刹那と永劫とが全く違った言い表し方であつて、そして同時に同じものであるからである。

二つのものがあって、それが全く異っていて、しかもそれを追求するといつか同じになっている、

こんなことなども不思議と言えば不思議だ。

-切抜/田山録弥(花袋)「くつは虫」より

Behind the Curtain
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A farewell

2020-05-11 | 意匠芸術美術音楽
(photo/source)

故人を悼むなら、死んだ日より誕生日だ。

過人に懐かしむなら、別れた日より出会った日だ。

粋人と望むなら、さよなら よりも、ごきげんよう だ。

Farewell the Bliss
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ゴールは逃げる

2020-05-10 | 古今北東西南の切抜
(illustration/source)

 アキレスは、亀に追いついて、甲羅の上に座ってくつろいでいました。

「じゃあ貴方は競走コースのゴールに到着したというんですか?」亀は言いました。「コースは無限に連なる距離からなるというのに。ゴールなんてできないって、誰だったか頭のいい人が証明したんじゃありませんでしたっけ。」

「できるんだよ」アキレスは言いました。「やってやった! 案ずるより歩くが易し。分かるだろ、距離はだんだん減っていくんだ。だから……」

「でも、だんだん増えていくとしたら?」亀は遮って言いました。「そしたらどうですか?」
「そしたら俺はここにいないだろうね」アキレスは謙遜して答えました。「それで君は今ごろ世界を何周もしてるだろう!」

「褒めすぎ……、いえ、重すぎです」亀が言いました。「なにしろ貴方はとても重々しい。間違いようもありません。ところで、ある競走コースの話をお聞かせしましょうか。二歩か三歩のステップでゴールに着きそうだとみんなが思うのに、実際には無限の距離からなるコースで、しかもどんどん長くなっていくんです。」

「ぜひとも!」ギリシアの戦士はそう言って、巨大なノートと鉛筆を兜から(ポケットなんて当時の戦士には無かったのです)引っ張り出しました。「続けてくれ! ただし話はゆっくりと頼むよ。速記術なんてまだ発明されていないんだから!」

「かの美しき、ユークリッドの第一命題!」亀は夢見るようにささやきました。「ユークリッド幾何学を愛していますか?」
「情熱的に! 少なくとも、今から何世紀も経たないと書かれない文献を愛する、なんてことができるならね!」

「それでは、第一命題にまつわるちょっとした議論を取り上げましょう。二つのステップと、そこから引き出される帰結、それだけです。どうぞ、ノートに書き込んでください。話がしやすいように、それらをA、B、Zと呼ぶことにしましょう。
(A)同一のものに等しいものは、互いに等しい。
(B)この三角形の二つの辺は、同一のものに等しい。
(Z)この三角形の二つの辺は、互いに等しい。

ユークリッドの読者は、AとBからZを論理的に導けると考えていますよね。つまり、AとBを真だと認める人は誰でも、Zが真だと認めなければならない、と。」
「間違いない! 高校に入ったばかりの子供でも分かるだろう。高校が発明されればすぐだよ、それまであと二千年くらいかかるかもしれないが。」

「もしも、AとBを真だと認めない読者がいたとして、それでもこの一連の流れ自体は妥当なものだと認める、ということはありえますよね?」
「そういう読者も間違いなくいるだろう。彼はこう言うんだ、『もしAとBが真であるとしたらZは真でなければならない、という仮言命題(仮定を含んだ命題)が真であることは認めるよ。でもAやBが真だとは認められない』。そんな読者は、ユークリッドを捨ててフットボールをやるのが賢明だろうな。」

「他に、こんなことを言う読者はいないでしょうかね、『私はAとBを真だと認めるけど、その仮言命題は認めないよ』なんて。」
「確実にいるだろう。やはりフットボールをやったほうがいいな。」

「どちらの読者も」亀は続けました。「Zを真だと認めることに論理的必然性があるとは、まだ思えないんじゃないでしょうか。」
「全くその通りだ」アキレスは同意しました。
「では、私を、いま言った二番目の読者と見なして下さい。そして論理的に、Zを真であると私に認めさせてください。」

「フットボールをやる亀なんて……」アキレスは言いかけました。
「珍妙です、もちろん」亀はあわてて遮りました。「話をそらさないで下さい。まずはZのことです、フットボールは後で!」
「Zを認めさせればいいんだな、俺は。」アキレスは考えながら言いました。「今の君の立場は、AとBは認めるが、仮言命題は認めない。そうだな?」

「その仮言命題をCと呼びましょう」亀は言いました。
「…では、
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。しかし君はCを認めない。」
「そう、それが今の私の立場です」亀は言いました。
「じゃあ、Cを認めるように君にお願いしなければいけない。」

「認めますよ」亀は言いました。「貴方がそのノートに書き加えてくれればすぐにね。他に何が書いてあるんですか?」
「ちょっとしたメモだけだ」アキレスは、神経質そうにページをパラパラめくりながら言いました。「ちょっとした…、自分が活躍した戦いのメモだ!」
「白いページがたくさんありますね!」亀は明るい声で言いました。「それ全部必要になりますよ!」(アキレスは震えました。)「では私の言うとおり書いて下さい。
(A)同一のものに等しいものは、互いに等しい。
(B)この三角形の二つの辺は、同一のものに等しい。
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。
(Z)この三角形の二つの辺は、互いに等しい。」
「Dと呼ぶべきじゃないか、Zじゃなくて。」アキレスは言いました。「他の三つの次なんだからな。もし君がAとBとCを認めるなら、Zを認めなければならない。」

「どうして、認めなければならないんですか?」
「論理的に導かれるからだ。もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない。君だって反論しようがないだろう。」
「もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない」亀は考え込むように繰り返しました。「それはまた別の仮言命題ではないですか。それが真だということが分からなければ、私は、AとBとCを認めても、まだZを認めないかもしれませんよ?」

「そうだな」誠実にも英雄は認めました。「全く驚異的な鈍感さだが、そういうこともありうる。では、君にもう一つ仮言命題を受け入れるようお願いしなければならない。」
「よろしい。喜んで受け入れましょう、貴方が書き留めたらすぐにね。それをDと呼びましょう、

(D)もしAとBとCが真ならば、Zは真でなければならない。

 「ノートに記入しましたか?」
「したとも!」アキレスは楽しそうに叫んで、鉛筆をケースにしまいました。「ついにこの観念的な競走コースのゴールに着いた! いまや君はAとBとCとDを認めたのだ、当然、Zを認めるだろう。」

「私が?」亀は無邪気に言いました。「きっぱりはっきりさせましょう。私はAとBとCとDを認めた。それでも、私がZを認めることを拒否するとしたら?」
「その時は、論理が君ののどにつかみかかって、無理にでも認めさせるだろう!」アキレスは勝ち誇って答えました。「論理は君に告げる。『お前に自由は無いぞ。AとBとCとDを認めたからには、Zを認めねばならない!』だから君に選択の余地は無いんだ。」
「論理が私に教えてくれるような素晴らしいことなら、書き留めておく価値があります」亀は言いました。「どうぞ、ノートに記入してください。それをこう呼びましょう。

(E)もしAとBとCとDが真なら、Zは真でなければならない。

 私がそれを受け入れるまでは、当然ながら、Zを受け入れる必要はありません。これはやむを得ないステップです、そうですよね?」
「そうだ」アキレスは言いました。その声は悲しげでした。

 ここで語り手は、銀行に行く急ぎの用事がありましたので、幸せな二人組のもとをやむなく立ち去りました。そしてその場所を再び通ったのは、数ヶ月後のことでした。アキレスは、まだ我慢強い亀の背中に座っており、書き込みを続けていて、ノートはもういっぱいになりそうでした。亀が言っていました。「最後のステップを書き込みましたか? 数え間違いがなければ、千一番目です。これからまだ数百万はありますよ。

ところで、もし良ければ、これは個人的な好意で申し上げるのですが、私たちの対話が十九世紀の論理学者たちにいかにたくさんの教訓を与えるかを踏まえて……、十九世紀に私のイトコの海亀モドキが言いそうな洒落なのですが、もし良ければ、トータス(亀)ならぬ『トート・アス(私たちに教えた)』と呼ばせて頂けないでしょうか」

「好きにしてくれ!」へとへとの戦士は、両手で顔を覆いながら、全てを諦めた様子で答えました。「君のほうこそ、海亀モドキが決して言わなそうな洒落で、アキレスならぬ『呆れす』に改名するといい!」

*本文末尾の「呆れす」は、原文では「A Kill-Ease(安らぎをぶち壊す者)」です。「Achilles(アキレス)」は英語では「アキリーズ」と読まれるため、「ア・キル・イーズ」と同じ発音になっているわけです。

-切抜/ルイス・キャロル「亀がアキレスに言ったこと」石波杏訳
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恙なし

2020-05-06 | 世界の写窓から
(photo/source)

「私は敗残者だ 負け犬だよ その運命を受け入れる 修正は不能だ だがいずれ変わる 絵を描くときだけは 生の実感がある」

かのゴッホ画伯は、こんな書簡を弟のテオに送っている。

「生の実感」とは「生の意味」など考える必要もないほど強烈なものだろうと思える。

私は未だかってそれほどのことを知る者ではない。

翻って、生物には紡錘細胞と言われるものがある。紡錘細胞は、人間では、感情や共感、社会的交流をつかさどるものと言われており、「人間を人間らしくする細胞」だそうだ。ちなみに鯨には人間の三倍も多くあるそうだが。

もとい。

たとえば、人に「ズル」をされた経験は誰にでもあるだろう。ズルをすることに関して言えば、ズルをする人なら、ズルい人と付き合うのも構わないだろう。けれども誠実な人は、ズルをする人には近づきたくないと思っている。

ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)と言うのは元来そう云う事かなとも思うが、今様では近づきたくない人に限らず身体的距離をとりなさいと言うことを指しているのだろうと理解している。

それにつけても、生の実感、恙なし。
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