南無煩悩大菩薩

今日是好日也

ナラティブものがたり

2022-04-07 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

一千年以上も前からの記録、スーフィ―の物語にはこんな話もある。

昔々、自然の働きを観察することに非常な興味を持っていた男が、努力と集中の末に、火をおこす方法を発見した。その男の名はノウルといい、彼は自分の発見した方法を部族から部族へと演じて見せながら旅をすることにした。

ノウルは多くの部族にその秘密を伝えたが、彼の知識を活用するところもあれば、その発見の有用さを理解できず危険な人物として追い払われることもあった。そしてついにある日ある部族で火をおこして見せたとき、彼の事を悪魔だと思い込み、恐慌状態に陥った人々によって、ノウルは殺されてしまった。

その後何世紀かが過ぎ、ノウルの教えは様々な形で受け継がれていった。ある部族では、火に関する知識を聖職者たちが彼らだけの秘密として独占し、他の人々が寒さに震えながら暮らしているのに、彼らだけは富と権力を保持し続けていた。またある部族では、その使い方は忘れられていたにも関わらず、火をおこす道具が礼拝されていた。三番目の部族では、ノウルの像が神として祭られていた。四番目の部族では、火をおこす物語が伝承されていたが、それを信じる者もいれば、信じない者もいた。五番目の部族では、火が実際に利用され、暖かな暮らしや、料理や、有益な品物の製造などが行われていた。

その後さらに時は流れてゆき、これらの部族の住む地域を賢者とその弟子たちの一団が通り過ぎて行った。弟子たちは彼らの目にした多様性に驚き、「これらの信仰はすべて、火を作り出すことに関係があるものばかりで、宗教上は何の意味もありません。我々は彼らを導いてあげるべきです」と口々に師に訴えた。

師は答えた。「それではこれから引き返して、われらの旅をやり直すことにしよう。旅が終わったとき、まだ生き残っている者たちは、真の問題が何であり、それをどのように扱えばよいか、学んでいるだろう」。

最初の部族を訪れたとき、彼らは好意的に迎えられ、祭司から火をおこす儀式に招待された。火がおこされ部族の人々がそれをみて熱狂している最中に、師が弟子たちに言った。「誰か彼らに意見を述べたい者はいるか?」

「真理のために、私は黙っているわけにはいきません」とある弟子が言った。「おまえが自分ひとりの責任でそれを行うのなら、やってみるがよい」

その弟子は、部族の長と祭司の前に歩み出て、「私もこの奇跡を行うことができる」と言った。「あなたがたはこれを神のたぐいまれなる顕現だと思っているらしいが、もし私が同じことを行ってみせたなら、長年にわたって誤りを犯してきたことを認めるか?」

「そいつを捕らえろ!」と祭司たちが叫んだ。弟子は連れ去られてゆき、二度とその姿をみせることはなかった。

賢者の一行は、火をおこす道具を礼拝している次の部族へと向かった。そこでも弟子のひとりが、部族の人々の迷妄を解く試みを志願した。師の許しを得て、その弟子は人々に言った。「分別をわきまえているみなさんに、ぜひ聞いてもらいたいことがあるのです。あなたがたが礼拝しているのは、たんなる道具にすぎません。それを使うことによって生じる有益な現象について、私はお話ししたいのです。この儀式に秘められている本当の意味を、私は知っています」

この部族の人々は、最初の部族よりも理性的だったが、彼らもまた、その弟子にこう言った。「われわれはあなたがたを旅の客人として歓迎していますが、あなたがたのような異国の人に、われわれの習慣を理解することはできません。あなたはわれわれの信仰を奪おうとしているか、あるいは改めさせたがっているのでしょうが、あなたの意見を聞くわけにはいきません」

賢者の一行はさらに旅をつづけた。

三番目の部族では、最初に火を作り出したノウルの像が、すべての家の前に立てられていた。弟子の一人が部族の指導者たちに話しかけた。「あなたたちが神の像として崇めているこの人物は、ある有益な技術の象徴であり、この男を崇拝するよりも、その技術について学ぶことのほうがずっと重要なのです」

ノウルの崇拝者たちはこう答えた。「あなたの言われる通りなのかもしれないが、秘められた真実を見抜くことができるのは、ごくわずかな特別な人間だけです」

「理解しようと欲する者だけが、そのわずかな人間になれるのであり、真実から目を背けていたのでは、永遠にそのような人間になることはできません」

「これは明らかに異端の考えだ」と聖職者たちは囁き合った。「この男はわれわれの言葉を満足に話すことさえできないよそ者だし、われわれの信仰で認めれれた聖職者でもない」この弟子もそれ以上、話を進めることはできなかった。

一行はさらに旅を続けた。四番目の部族でも、弟子の一人が人々の集まりの中に入ってゆき、彼らに話しかけた。「みなさん、火の伝説は、たんなる作り話なんかじゃありません。本当に火をおこすことができるのです。わたしはその方法を知っています」

人々は混乱し、異なった意見を持ついくつかの集団に分かれた。ある集団ではこのように話し合っていた。「この男の話は本当かもしれない。火をおこす方法を教えてもらおう」しかし彼らの意見をよく調べてみると、ほとんどの者がそれぞれの利己的な目的のために火を利用しようとしており、それが人間の進歩に役立つものだということには、まったく気づいていなかった。

別の集団ではこのように話し合っていた。「火の伝説が、本当の話であるはずがない。あの男は私たちをだまして、うまい汁を吸おうとしているのだ」。また、このように話し合っている集団もいた。「火の伝説は、われわれを結び付けている絆なのだから、これまでどおり大切に守ってゆくべきだ。伝説を捨て去ってしまい、後になってからあの男の言い分は間違いだということになったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまう」そして、それ以外にも、さまざまな意見を抱く、さまざまな集団が存在した。

賢者と弟子たちはさらに旅を続け、火の使用が当たり前になっている最後の部族を訪れた。しかしそこでも彼らは、火以外の、別の偏見に出会ったのであった。

旅が終わったとき、賢者は弟子たちに言った。

「これでおまえたちにも、分かっただろう。人は教えられることを望んでいない。したがって、おまえたちはまず、教える方法について学ぶ必要がある。そのさいに肝心なのは、いかにして学ぶかを、教えなければならないということだが、そのためには、まだ学ぶべき事柄があるのだということを、前もって彼らに納得させておかなければならない。彼らは、自分には学ぶ用意ができている、と思っている。しかし、彼らが学ぼうとしているのは、学ぶ必要があると彼らが勝手に思い込んでいる事柄であり、実際に彼らが学ばなければならない事柄ではない。この事を理解してはじめて、おまえたちは教える手立てを見出すことができる。教える能力を伴わない知識は、知識でもなければ、能力でもない」

ー切抜/「火の伝説」より

モノガタリには、読者や聴衆の意識に応じた七つの意味がある、と言われている。ほとんどの物語は、それが学ばれる時や場所や方法などの影響を受ける。したがって、多くの人々はそこに、娯楽や謎解きや寓意といった、自分たちの期待したものしか見いだせないとも言われる。「聞く者の理解力に応じて語れ」ということはつまり、「聞く者がすでに知っている事柄を使って、未知なるものを説け」という方法論に帰結するのかもしれません。

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