南無煩悩大菩薩

今日是好日也

77.

2007-08-31 | つれづれの風景。

49日もすれば、羽化するのだろうか?

しちしちしじゅうく。

そこまで毛虫が人間に意思表示するはずもないが。

もしかしたら、毛虫のオードリー、クローン毛虫か。

偶然か、空前絶後か。


カシミアでこんな柄のセーターはどないやろ。

素肌にさくっと着てみるか。


・・・。

いがいがしてきた。

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うろ。

2007-08-30 | つれづれの風景。

身体は食い物を食って生きるが、脳は情報を食って生きる。

ある実験によると、山小屋の中で、新聞ラジオ書物等の媒体、他人との交流、外出での自然との交流までも一切断った中で、長期間食物摂取だけで過ごさせた被験者は、明らかな脳の収縮・空洞化が確認されたという。

もちろん。こんな非人道的な実験を行えるということは、随分古い文献ではあるが。


虚になるのである。

物質的であれば、虚は包容と収納の機能は持つ。

脳という機能は、物質レベルでは捉えきれない。

情報と刺激と使い倒すという栄養がなければ、存在が虚ろになるのだ。

実験の真偽は別にして、そのように思える。



立ち枯れ近い木の虚をみて、親近感を持ってしまった私の脳は、大丈夫だろうか。

同類相憐れむ。というではないか。


しかしだ。

同時に、それなりの、役割を経たであろううろに、えもいわれぬ静寂と大きな広がりも感じる。


ミズカラで虚ろにしてはなるまいが。ミズカラのうろとなるなら。

それもよかろう。

と。おもえなくもない気もする今日この頃である。


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感無量。

2007-08-29 | つれづれの風景。

小生の叔父貴は、欄間彫師である。

珠に気分に任せて、注文品ではないこのようなものに、精魂を込める。

創造の神なのである。我々の存在そのものの原初の不思議に祈りを奉げる。

日本の偶像崇拝の原点である。


てなこといって格好をつけるようなものじゃないが。

西瓜に乗っけてみたら。

すいか。あまいか。

うん。案外絵になるものだ。

叔父貴も、人生の終盤になって、立派な一物を作り出すようになった。


えらそうなことを言うな。と拳骨だろうなぁ。

しかし。この神様の風景。なんだか感無量になるのは何故だろうか。

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雨上がり。

2007-08-28 | つれづれの風景。

処暑もすぎ、草いきれを残して、通り雨。

流れ行く雲の隙間から、あふれてしまった陽光は、まだら模様に落ちてくる。

花に落ち止まりし雨の雫は、稀有な輝きを放つ。

銀色だ。

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玉葱。

2007-08-27 | つれづれの風景。

ねぎがたばになってかかってくる。

土から掘り起こされ、玉になった葱がゴロゴロと。

へちまといっしょに。木梯子といっしょに。

トタンに割れた窓ガラスと。

土のにおい立ちあがる玉葱。

根菜類というものは、案外何かを訴える力がある。

簡単には食われてやらないぞ。と。


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石塚。

2007-08-25 | つれづれの風景。

かってこの場所には、樹齢2000年以上の欅が祠と共に立っていた。

神木である。

八方に伸びたまま、残された根が、ゆうに一抱えは超えるところにもかっての欅の巨木さを物語る。

その跡に設えられた石塚。

一つ一つ積み上げては、じねんの森羅万象を司るなにものかに、祈りを持つ。

枯れている榊に時の陰影が漂うようだ。



土佐では、大風呂敷を広げ見果てぬ夢をのたまう傾(かぶき)者を、天喰郎(てんくろう)という。

かってのてんくろうが、神聖なる石塚に汚点を刻んでみる。

もう芽が出るはずも無い男が、せめてと禿頭を出してみる。

神木は想っているはずだろう。

また罰当たりが帰ってきた。と。

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酸漿。

2007-08-24 | つれづれの風景。

ほほを寄せ合って、あなたと踊る。

別れに似合いの新地のクラブ。ってか。

下手の横突きほおずきほほずき葉月の頃。と。


宿酔いの朝に見ると、なんとはなしに、気分が落着く、酸漿であった。
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天国への階段。

2007-08-23 | つれづれの風景。

降りてきたことを忘れて、また上がろうとする。

いや、上がって下りたのだ。

まてよ。今から昇ろうとしているのかともおもう。

もしや。この階段ではなかったかもしれない。

んんん。

・・・ただの陸橋なんだが。

グリーンの階段が夕闇に溶け行く青い天国へと続いているように見えた。

どうも、酔いがまわってきている。

本当は、そんな風に階段は続いている。

せんないことである。

ステップ フォー ヘブン。
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水。

2007-08-22 | つれづれの風景。

竹の樋を伝って流れ落ちる清涼な水に命の源を見る。

善きことの上等は、水の如し。

味はえもいわれぬ淡白。無色透明、万物の総体。

末期には水を欲し所望する。酒やコーヒーを欲しいとは誰も言わない。

水だ。水なのだ。

水くさいことはいわないで。水を口に含んでみる。

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山椒。

2007-08-20 | つれづれの風景。

若い山椒だ。

小粒ながらも、ピリリとからくなろうとしている。

苦みばしった男前になろうとしている。

夏をしっかり取り込んで、負けず、りっぱな山椒になっておくれ。


さんしょ お見舞い申し上げます。


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禿山の守。

2007-08-18 | つれづれの風景。

野焼の禿山に守り本尊。ではないが。

こんなところでじっとできる君は大物だ。

暑さでやられているのは、私だけではないらしい。

正気の沙汰ではないのも、私だけではないらしい。

守だ、守宮だ、井守だ、とおもえば、子供の蜥蜴であった。

じっととどまり守っている。

28番札所のお寺の奥の院への参道の道端で出合った使いである。

禿山のお守りにしよう。

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漬物石。

2007-08-17 | つれづれの風景。

塩味が浸み込んでいる。

使い古されて黒光りがしている。

使っている当人も、代々のものでいつからあるかは知らない石。

おもしなのだ。

おもしがあってはじめて、漬物は保存に耐えられる。

おもしを嫌ってはいけない。

人の営為によって丸くなった黒い石の存在が、おもしとしての威厳を保ち、輝く。

これはすでに芸術品ではないか。


おもしの無いものに、保存は利かない。
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笹船。

2007-08-16 | つれづれの風景。

心配はいらないよ。

笹船に乗った気持ちでいてくれ。


僕のプロポーズの言葉。

・・んなことはないけれど、流れに翻弄されるこの船は、歳を重ねるごとに、精霊流しのように感じられてくる。

大船にはなれそうもないおっさんが笹で船をせっせと作る。



今年も、御霊(みたま)を想う季節が過ぎていく。

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花蛙。

2007-08-15 | つれづれの風景。

暑いでんなぁ。

たまりませんわ。

・・・。


洒落た日除けの洒落蛙。

真っ白い日差しに、紅い花が、洒落心を起こさせたか。

蛙に負けじと、洒落て暑さをすごしてみるか。

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寅二朗。

2007-08-14 | 有屋無屋の遍路。

山口は萩にて松下村塾を開く。

吉田松陰と号す。

不思議である。何故もあのようなところで、それもその後の英雄が固まって学んだのか。

いや。学んだからこその結果なのだろう。

人の環境と思想と時宜の不思議を思う。

高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、井上馨、・・・、個性が違うのである。しかるに、世の流れの変遷においても、英雄足りえる柔軟性が育っているのである。

江戸人から、明治人への橋渡しをした、いや、し得る人材を輩出した、鬼才ともいうべき人であろう。

表句は、若干29年の生涯を閉じるに当たり、死刑の呼び出しを受けて、詠んだという。
「 此程に 思定めし出立は けふきくこそ 嬉しかりける 」


思想家、為政者、教育者として、思い切り咲いた自負もあるのだろうか。


かって、明治人の安岡正篤翁は、その後年の昭和に生きてこんな言葉を残している。

「現代流行の考え方の更に一つの誤りは、大衆社会・集団勢力に眩惑して、個人の無力を感じ、個人的自覚や発奮材料を放棄して、集団的社会的退廃の中に自己を投じ、苦難を避け、安易に就こうとするものである」と。

平成の現代、松蔭や翁の思いはいかばかりであろうか。


・・・。


いつの時代にも、コモンセンスとリベラルの葛藤がある。

命あらん限り、一心にて啼き呼び交わり死に落ちる蝉の季節に、おもわず、「温故知新」その言葉を思い出したのであります。


「このほどに おもいさだめし旅立ちは 今日聞くこそ うれしかりける」

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