南無煩悩大菩薩

今日是好日也

素材の使い方。

2011-11-30 | つれづれの風景。

素材はそれそのものは物質であり、それ以上でもそれ以下でもなく「在る」ものです。

でもひとたび、人がその気になると、用いられ組み合わされて意図された状態を現し、その「人」の頭の中を語り始める。

何を表したいか、何を伝えたいか、何をしたいのか、ということをです。

しかし少なくても、どんな素材があり、どう使えばいいのかという基礎知識と、本当にしたいことは何かという、概略が頭の中で意識されていないと、その素材は「在る」と言う事以上には輝き始めないもののようです。

クッキングの仕方でも、どこにでもある素材を使って新しい味を作るのと、めったにない素材を使って新しい味を作るのでは、頭の中の概略はかなりちがうものであることは確かです。

もちろん、美味しいかどうかは、素材の使い方、つまり腕次第でしょうけど。
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ほっこり。

2011-11-29 | つれづれの風景。

あんまりほっこりしてましたから。

あくびといっしょで、ほっこりも移るようでございます。

よろしいなぁ、おっちゃん。

おおきに。
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運命。

2011-11-26 | 意匠芸術美術音楽
(source)

するべきか ぜざるべきか

それが問題だ。

ハムレットの有名なせりふではないが、人生いたるところ、誰でもシェークスピア的懊悩の場面に出くわす。

頭も呆けていないし、内臓も四肢も元気な九十七歳の老人に初期の癌がみつかった。医者が切りますか?と尋ねると、老人は、いや、もういいでしょう。といったという話を聞いた。

このおじいちゃんは、自分の運命をきっぱりと選択したようだ。
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よろめき考。

2011-11-25 | 意匠芸術美術音楽

この挿絵は、三島由紀夫氏の「美徳のよろめき」古本の表紙絵です。どなたの筆なるものかは不肖ですが、よろめきというものの心象が忍ばれる印象深い画であります。

そういえばよろめきドラマなることばも近頃は聞かなくなりましたが、よろめきがよろめきではなくよろめくのが当たり前になってしまったのでしょうか。

そんなこんなを思っていたら、なぜか西東三鬼さんの次の狂歌を思い出しました。

中年や 遠くみのれる 夜の桃
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己に信を問う。

2011-11-24 | 意匠芸術美術音楽
((許由巣父図(きょゆうそうほず))

低俗かつ下品、陳腐かつ醜悪、そんな話しを持ちかけられた翁は、裏の清流で耳を洗い、それらの聞いた言葉を流し去る、の図。

まじないとして以上の効果は在ると思える。

意識しないと、遠ざけるには難しいことがある。
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天秤。

2011-11-22 | 世界の写窓から
(source)

砂に足を取られながら天秤棒をかついで家路を急ぐ少女たち。

姉妹だろうか、まだあどけなさが残る。

「良い」仕事をしているように思える。

良い、というのは、より多くでもなければ、より良くでもなくて、良く生きると言う意味において。
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誕生のビッグバン。

2011-11-21 | 古今北東西南の切抜
(切抜/LIFE)

現地での今日、日本時間で昨日は、天文学の父、ハッブルさんの誕生日だそうだ。

この宇宙の誕生の不思議さ偉大さは何をもってしても説明のつけようがない。

私にも誕生日はある。しかし、大抵は母の産道から顔をのぞかせたときとなっているが、そのときにはもう人間としては出来上がっている。

起源は父の精子もしくは母の卵子の生成時、もしくは共同作業を始めたときかもしれない。

私の誕生とは、もっと辿れば、それらの栄養となった、一つの焼き芋や味噌汁の豆腐だろうか?

いやいや誕生の秘密は私の知る由もない、もっと隠された行為が影響しているかもしれない。

この宇宙は、この世界のことは、本当に不思議で満ちている。

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天使の取り分。

2011-11-19 | 酔唄抄。
(original unknown)

年代物の酒は、封を切らずにおいてあるものでも、量が少しづつ減っていく。

誰も呑んではいないのに時間と共に減ったその分を「天使の分け前」と酒のみは言う。


先日義母と話していると、「歳寄りになってこの何年かで五センチも身長が縮んでしまったのよ」と言われた。

これも天使の分け前なのかもしれないと思った。


どんな天使が相手かはわからないけれど、天使と分け合いながら呑む酒がこれから僕にも増えそうだ。
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健常な存在。

2011-11-18 | 世界の写窓から
(original unknown)

田舎の叔父は古希を数年前に超えたいまでも、狩猟をする。先日が解禁だったようだが、こんな事を言っていた。

この頃は、鳥の羽をむしるのも、猪の皮をはぐのも、なんだかおっくうになってきた、昔ほど食べたいとは思わない。食べもしないものを捕るのもそれらに申し訳なく、そんなこんなでこの頃気合も入らない。

食べる分だけ殺す。必要な分だけ所持する。あとはあっけらからんと共存する。

そんな生き方は健康的だろうと思う。
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装、奏、送。

2011-11-17 | 意匠芸術美術音楽
(Veruschka in Japan © Richard Avedon)

霊魂なるものは火なり。

肉体は薪なり。

薪尽きて火滅す。

かくのごときのみ。

-中江兆民-
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いけどもいけども交わりそうで交わらない。

2011-11-16 | 世界の写窓から
(photo by Hengki Koentjoro)

仲良く並走しながらも、絶対に交わることのない、二本のレール。

それはつまり二本でななくひとつである。そういうものに共感ともつかぬ何かを思うのは、実生活の中に同一的な何かを抱えながら生きているからだ。

イソップ物語の、胃と足の喧嘩や、天国と地獄の食事風景の寓話にも似た何か。

自分の胸のうちに収めて、墓まで持っていく。

何か。
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もとより独行の道

2011-11-15 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo)

閑来事として 従容ならざるは無し  

睡り覚むれば東窓 日すでに紅なり  

萬物静観すれば 皆自得  

四時の佳興は 人と同じ  

道は通ず天地 有形の外  

思いは入る風雲 変態の中  

富貴にして淫せず 貧賤にして楽しむ  

男児此に到らば 是豪雄  

-吟詠「秋日偶成」-
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祈りに近い願い。

2011-11-11 | 有屋無屋の遍路。
(source)

人一倍健康に気をつけていても、知命をも待たず病に倒れる人がいる。
酒は浴びるように呑み、尻から煙をはくほど煙草吸いながらも、楽々と還暦越えをする人がいる。

同じ境遇であっても、慙愧にたえない人もいれば、どこ吹く風の人もいる。

シルクを着て喜んでいる人もあれば、穴の開いた使い古しを着て喜んでいる人もいる。


人、同一の志趣を抱懐しながら、様さまざま、あるものは本懐を遂げ、あるもの届かず。
しかしなれども、あらゆるものは一掬の涙に終わる。



-沖の鮑に願いを聞けば あたしゃ真珠を孕みたい-
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質感の美

2011-11-10 | 世界の写窓から
(source)

同色のグロスとマットの組み合わせ、其の質感のバランスがよい感じ。

ただ誰にでも似合うと言うようなものではなさそうだ。

わたしのよう人間では、野良仕事で土に汚れた爪にしか見えないだろうから、コンビネーションと言うのはとても大事な気がする。



黒の質感の美といえばグレイス・ジョーンズさんを思い出した。

(source)
おまけ。
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死後の自分。

2011-11-09 | 古今北東西南の切抜
(切抜/Life)

レントゲンを撮ってくる、というのは正確ではないかもしれない。

佐藤さんや鈴木さんを撮ってくると言っているのと同じようなものだから。

1895年の昨日、ウィルヘルム・レントゲンさんが、エックス線を見つけたようだ。

初期の頃のこの写真は奥さんの手で、彼女はこれをみて一言、「死んだ私を見た」といって驚いたという。

しかしこの発見のおかげで、どれだけのひとが恩恵に預かったのかも計り知れない。

やっぱり、レントゲンを撮りに行ってくる、でいいような気がする。
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