南無煩悩大菩薩

今日是好日也

あすなろ

2019-12-31 | 日日是好日。
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来年こそは・・と、毎年思うのだがいつまでたってもものにならない。

老子が言ったように具体的な見返りを求めている内はとうてい無理かもしれない。

がしかし、ある賢人はこんなことを言っていた。

「ものになるというのは不思議なもので、誰も気づかない時にものになる。昨日までものになっていない人が、今日ものになるということがあり得ることを、私は何人かで見て来ました。だから今日ものにならない人が、明日ものになるかも知れない。明日ものにならない人が、明後日ものになるかも知れない。ものになるとはきめられないが、ものにならないともきめられない。絶えず勉強するもの、絶えず進歩するものは、いつかものになると言っていいと思いますが、いつなるかは、誰にもわからない。思わぬ時にものになる」

と、ここまで書いてきている内にもう一人の賢人のこんな言葉を思い出した。

「期待なしに人生を生きること、具体的な結果を必要とせずに生きること、これが自由と言うものかもしれません」



なるべく努めることを重ねていこうと思いを新たにする今日大晦日である。

人生肯定の道

2019-12-29 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
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私は人生を肯定できている者ではありません。しかし、人生を肯定したいと思って今日まで歩いてきたもので、私の一生はこの一つの目的に集中されて来たといっていいのであります。

私たちは人生に対して何等の要求をする資格もない者であります。人生がどんなにつまらない、無意味なものであっても、生まれた以上は仕方のないものであります。私たちはつくられたままに生きてゆくより仕方がないので、どんなにまずくつくられていても、私たちは不平は言えないのであります。

言えるかもしれませんが、言ってもどうにもならないものであります。例えば我々が蛇身のような姿につくられていても、我々は何ともしようがないのであります。

私は指は六本あったらいいとは思いません。目は三つ欲しかったとも思いません。人間の手以上の手を欲しいとも思わず、人間の身体以上の身体を持ちたいとも思いません。もっとも、顔や身体の出来のよしあしについては、いろいろ注文したいこともないとは言えませんが、人間であることに不服はないわけであります。

私はそれ以上、人間の心の出来に不服を持たないものです。人間の心がどうつくられているか。私はそれを自分が十分知っているとは思いませんが。しかし私の知れる限りでも、人間の心は良く出来ていると思うので、私はその点、ことにありがたいと思っているもので、その結果、私は人生は肯定できるものではないかと考えるようになり、今日までそのために骨折って来たわけです。

骨折ったと言っても、別に大して骨折ったわけではありませんが、しかし私の考えの中心は、まず自分の生命を肯定したい、そして人間に生まれたすべての人の生命を肯定してあげたい、これが私の本願でした。

このことを最近、私は確実に知ることが出来たのであります。今までも今日ほどはっきりそのことを自覚してはいませんでしたが、その目標を目指して歩いて来たのは事実と思います。人間以外の動物は自分の生命の無意味さを痛感する能力を与えられていないように思うのです。彼らは自然に生き、自然に死ぬ。生の喜びと、死の苦しみ、恐怖は痛感させられているのでしょうが、何のために生きなければならないかということは考える必要はないのだとおもいます。

ところが人間になると、いろいろ考える能力を与えられている結果、自然のままに生きることで満足せず、自分勝手にいろいろ考える結果、「自分が生きて何になる」というような、自己否定の考えさえ抱くようになったのであります。

人間はこの世で苦しんで生き、その結果、最後に死苦がある。人間に生まれなかった方がよかったのだ。そう考える人さえ出て来たのです。むしろ正直に言って、私たちも人間の生きる不安をいつも感じさせられているわけで人生否定の方が、人生肯定よりずっと安価に持つことを我々は強いられているわけで、考えない人は別ですが、少しでも考える人は、人生肯定なぞは、出来ない話のように思っている人が多いのではないかと思います。

そして、多くの人は考えると人生が面白くなくなるので、なるべく考えないことにしているというのが現状ではないかと思われるのです。少なくとも私にはそう思われるのですが、私はそれで満足出来ないのです。そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。

人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間は生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。

つまり私たちは生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇跡が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。何が我々が生まれることを望んだか、私にはわかりません。しかし原因があって結果があるのです。何かの力がなくして我々は生まれるわけはないのです。

子供が生まれれば、皆めでたいと言う。生まれた子供も、生々と生きられる時は、実に元気で、いつも嬉しそうにしている。この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。内からあふれる生命力、まず私はそれを信じるのです。本来の生命、自然はそれに何処までも生きよと命じているのです。

この命令は我々にとって絶対と言っていいのであります。私たちが今日まで生きて来られた原動力はこの力であります。しかしこの力は他の生物にとっては無批判に生かされて来たのですが、人間になって、その力は理性的に生かすことを命じられたのであります。

ここに人間の人間たる所があるわけです。ですから我々はこの与えられた理性で我々の内からの生命をよく生かしてゆけば、自然からよしと見られるわけで自然からよしと見られることは、自己の生命が自然に肯定されたことになるので自然から肯定された生命はすなわち内心から肯定された生命になるのです。つまり人生を肯定したいものは、自然から肯定される生活をすればいいわけであります。

ですから私は、自然の深い意思に沿って生きることを心がけ、また人々にもそれをおすすめしたいとおもうのであります。人生は理屈ではありません。理屈でわからないことだらけです。しかし実感で自然の愛を感じられ、ありがた涙を流すことが出来ればそれでいいのです。

ある尊敬する老いたる文豪は死ぬとき「さわやかだ」といって死んだそうですが、さわやかさを実感して死ねれば、それでいいのではないですか。人生は美しい、私はそれを知って生きてゆきたい。

ところがこの世には愚かなものが多すぎて、人生の美しさを知らず、花が爛漫と咲匂っている下を歩きながら、何か金でも落っこっていないかと探して、無いのでちまなこになって、人生は醜いと言っている人が少なくないのではないのですか、もとより今の世の中は、人生の美を知らない人々によってつくられているので、醜いことだらけ、悲惨なことだらけと言えるかもしれませんが、それは人生が悪いのではなく、人間が愚かなのだと思います。

自分の中の梁(うつばり)を気にしないで、他人の目の中の塵を気にするものが実に多く、好んで自分を不幸にしているもの、世の中を不幸にしているもの、他人を不幸にしているもの、真理に背中を向けているものが実に多い。そういう人ばかりと言いたいくらいです。しかし我々は誇張してものを考えるのをやめましょう。存外世の中にはいい人が多い、真面目な人が多い、親切な人が多い、善良な人が多いと思っていいのだと思います。

そしてそれらの人は意識しないけれど、自然から愛されている平和な勤勉な人々であります。しかしそれらの人は深い自然の意志を知っているわけではありませんから、何ものにも動かされない落ち着きを持っているわけではありません。偶然幸福な時が多いのにすぎません。我等はそれで満足はできません。我等は人生を肯定する道を、すべての人と一緒に前進し、すべての人が自然の意志に適うように、生きることを望んでやみません。それはつまり、すべての人が最も深い内心の欲求で、本来の姿をそのまま正しく生かすことです。

自我心も、恋愛も、夫婦の愛も、博愛も、自然の意志、人類の意志に適った形において貴いのです。虚偽であってはならないのです。またどんな逆境でも、孤独な時でもその人が全力を出して、自分のなすべきことをなすとき、最も力強い生命がその人の体内に、あるいは精神的にあふれ出て、その人に生き甲斐を与えるのであります。

日々決心を新たにして、自己の本来の生命を完(まった)き姿で生かそうとするもの、その人こそ人生肯定の道を歩いている人と言えるわけです。

理屈ではなく、実感で、全心全身で人生を肯定出来る道をお歩きください。このことはいかなるときでも、人間が生きている限り、可能なことであります。それを信じて生き抜いて下さい。

-抜粋参照/武者小路実篤「真理先生」より

Hey,Mambo.

2019-12-22 | 日日是好日。
(gif/source)

一説によると、Mamboという言葉はハイチの土着宗教ブードゥー教の女司祭の名前で「神との対話」の意味を持つということです。

今日は、冬至です。南より北へ回帰線からの反転をお祝いしつつ。

Rosemary Clooney - Mambo Italiano - 1954 originals

‘それ’から‘これ’から

2019-12-19 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(quote/source)

とにかく自分自身に正直になり、自分が動揺していることを認めます。

私たちの内部にそれが存在し、自分では気づきませんが、私たちを制御する力を持ちます。それからどうして自分が動揺しているのか考えます。

仏教徒はこれにしっかり向き合っていますね。仏陀はすべての人為的ジレンマの根本は、自己中心主義にあると教えました。

自分自身に打ち勝てば、こうした衝突に勝つことができます。

自分自身が克服出来たら、そこから、責任をもって状況について考えることができるようになります。

「無欲か利己主義か。一日を通して問い続けることを勧めたい」。

-マイケル・カリー

Billie Holiday - I'm A Fool to Want You.

潮干潮満

2019-12-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
/狩野探幽)

‘世の中に たえてさくらの なかりせば春のこころは のどけからまし.’

在原業平は齢五十をすぎた。一夜限りの共寝を遂げた恬子(やすこ)斎王は齢三十にして退下し尼となられた。業平、待ちに待ち久方ぶりに恬子様より願いごとの誘いあって喜び勇み庵へと赴く。

・・・

業平に、恬子様が声をかけられます。
「・・・お願いと申すのは、この杉(伊勢の方)でございます。今日まで長く私に仕え、縁付くこともなく参りましたのを、かねがね心痛めておりました。都へ戻りしのちには、良き縁などあればと案じておりましたが、このような山里の暮らしでございます。業平殿のおそばに・・・・」

業平は驚き、しばらく言の葉も出ません。妾か妻に、との申し出でございます。

「・・・どうぞ業平殿、このまま杉をお連れなされて、都へお戻りくださいませ。杉には言い含めてございます」

業平、恬子様の頼みに呆れ、思い惑います。恬子様の願いとは、若いこの女人を預け頼まれることであったとは。

お答えできぬまま、しばし時がたち、伊勢の方(杉)が、伏せておられた面をあげられ、そしてキリリと張りのある声にて、申されたのです。

「・・・私は業平殿の元へ参ります。内親王(恬子)の願いに背くことは致しませぬ。ではございますが、妾にも妻にもなりませぬ。私はこのような年寄りは好みませぬ。下女としてお仕え致します」

業平、あまりにいさぎよい伊勢(杉)の声に、思わず笑い声をたてました。このように自らの心を言いつのる女人がおられようとは。

「ならば急ぎ、お発ちください。お二方のお背を、屏風の内より垣間見にて、お送りいたします」

業平、笑いがたちまち心苦しさへと変じ、袖を顔に当て息を止めております。

「・・・このような願い事など、思いも及ばぬことでありました」

「今生は儚く、あの世もまた朧にて、すべて夢かうつつか判らぬまま・・・・」お別れいたします。

・・・

都へ連れ戻りました伊勢の方(杉)でございますが、高倉邸の「西の対」にしばらくお住まいになられました。

このような年寄りは好みませぬ。

恬子様の御前にて、ありのままのお気持ちを申されたのは、業平の胸に刺さりおります。

この御方の優れたところはまさにこの直なお気持ち。

さよう、私は年老いた。

業平は五十を過ぎたわが身を、静かに眺めております。

業平も、若き頃のように、強いて「西の対」を訪ねることをいたしません。この御方の気丈さを楽しみに面白がっております。

たとえば、老いたればこそ、あの白き明るさの満ちた伊勢へ、共に行き住みたいものだと誘い試すと、このような歌を返してまいります。

「大淀の浜に生ふてふみるからに 心はなぎぬ語らはねども」
-伊勢の国の大淀の浜に生えていると申す海松(みる)ではございませんが、私はあなた様のお顔を見るだけで、心は穏やかに満ちております。共寝などしなくとも。

いつもながらに連れない様子。とは申せ、歌の才は見事でございます。

共寝より歌の遣り取りこそ面白い。などと思う業平です。

-切抜引用/高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」より

‘つゆにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを’

業平、辞世の句といわれている。

真理先生

2019-12-11 | 古今北東西南の切抜
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-人を殺すことはどんな時でもよくないのですか-
「あなたが殺されていい時がありますか。あなたが殺されていい条件があれば、それを聞かしてください。あなたがどんな時でも殺されるのがいやなら、少なくともあなたは人を殺してはいけない」

-私を殺しに来た人はどうですか-
「その時にならないとわかりませんが、人を殺すものは自分が殺されてもいいということを証明している人間ですから、その時なら殺してもいいでしょう。しかしおそらく、人殺しするものは、もっと簡単な動機で無考えに人を殺すのでしょう。つまり反省する力が無いのです。教育されていない野蛮人なのです。だから教えることが必要になるのです。他人を殺すものは自分を殺す権利を他人の手に与えるものだ。自分が殺されたくないものは他人を殺してはならない。自分が殺されたい人だけが、他人を殺していい人だ。しかしそんな人は他人を殺すような面倒をするよりは、まず自己が殺されるがいい」

-なぜ人間は死ぬのです-
「なぜ人間は生まれなければならないのか、僕にはわかりません。この地上に人間が生まれた事実は認めないわけにはゆかない。奇跡を信じない限り人間は生まれるべくして生まれた者だということはわかっています。しかし人間が生まれたらどうなるのですか。僕にはわからない。しかし僕には人類が完成に向かって進んでいること、いつか人間はすべて人間として生きなければおさまりのつかないことを信じています。そこに人類の意志がある。そして人類の完成のためには、一人の人間がいつまでも生きているよりは、いろいろの人が死んだり、生まれたりする方がいい。自分が地上でなすべきことをした人は、もう休息していいことになる。。休息が死です。だからこの世で生きられるだけ生き、するだけのことをした人は安心して死ねるのが自然だと思う。多くの人はこの世でしなければならないことをしないうちに死ぬ。だから死を割り切れないものに感じるのです。するだけのことをしたものにとって死は完成です。僕はこういう死を願って、働いているわけです」

-戦争はなぜやまないのです-
「人間の内に野蛮さがまだぬけ切らないからです。人肉を喰うということは野蛮であるということは誰にもわかっています。しかし人を殺すことの野蛮さはまだ誰も本当には知っていないのです。ごく少数の例外を除いては、戦争の種を自分の内に持っているのです。憎悪の念を内に燃やす者は、その種を内に持っているものです」

-敵を愛せよという言葉は真理ですか-
「真理です。敵も人間です。人間を愛することが真理です。この真理を知らないものは、戦争の種を自分の内にもっているものです」

-先生の考えは実に平凡ですね-
「ありがとう」「僕はあたりまえのこときり言いたくない。今の人はあたりまえのことを知らなさすぎる。何でも一つひねくらないと承知しない。糸巻から糸を出すように喋るのでは我慢が出来ない。わざと糸をこんがらかして、その糸をほどく競争をしているようなものだ。あたりまえでないことをもっともらしく言うと、わけがわからないので感心する。こういう人間が今は多すぎる。僕はそんな面倒なことをする興味はもっていない」

-引用/武者小路実篤「真理先生」より-

なまけ、だらけ、ぐうたら、で、サバイバル。

2019-12-08 | 古今北東西南の切抜
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ナマケモノの毛皮に刻まれた段差は水を集め、八十種類を超える藻類と菌類のオアシスになっている。

ナマケモノが緑色がかってみえるのはそのせいだ。

ある研究によると、一匹のナマケモノが九種類の蛾、六種類のダニ、七種類のシラミ、四種類のカブトムシを養っていたそうだ。カブトムシには一匹につき九百八十もの寄生者がいた。

全身に虫がたかり、地面を引きづり回されたような外見ながら、彼らは見た目も臭いも、木にそっくりだ。そしてほぼ一日中木のようにじっとしている。

種全体として言うならば、ナマケモノはさまざまな外見をとりながら六千四百万年を生き延びたサバイバーであり、その秘訣は、あのだらけた性質だといわれる。

ナマケモノは異常なほど代謝が悪く、同じサイズの哺乳類の半分にしかならず、体の深部の温度もせいぜい二十八~三十五度だ。ほとんどの哺乳類はいつも温かい三十六度の体内環境に助けられているのだが。カロリーを使って体内の燃焼エンジンを動かし、体を温める代わりに、熱帯暮らしだというのに南極大陸の動物並みの分厚い毛皮を着ている。

「ナマケモノはとても効率のいい動物で、手に入るものすべてを最大限使いこなしているのです」と、専門家はいう。

また彼らがとてつもなくタフなのは本当だ。コスタリカの保護区の職員たちは、電線で感電したり。犬に襲われたり、車に轢かれたりしたナマケモノたちが奇跡に近い回復を遂げるのを目にしてきた。

「瀕死の重傷を負った彼らがなぜ復活できるのか、その謎は今も残っています」

ヤモリの遺伝子発現と肢の再生を研究する教授によると「ヤモリは尾を再生しなければいけないとき『胎児状態』に入る。簡単に言えば体を癒すのにすべてのエネルギーを注ぎ込むため、代謝率を下げる」のだそうです。

ナマケモノの代謝の悪さも同じような機能があるのではないか、がんの発病を逃れたり、先天異常をあえて維持して進化を支え、有効な新しいシステムを構築したりするためではないかという意見もある。

例えばキリンよりも椎骨の多い、珍妙な長い首がそうだ。あの長い首のおかげで、自然界のぐうたら屋である彼らは首を二百七十度回し、無駄に体を動かして貴重なエネルギーを空費することもなく、四方の葉を食べつくすことができる。

いわゆる世界一怠惰なこの動物は、一日二十時間近くをうつらうつらしながら過ごすと言われたきたが、最近の研究では、野生のナマケモノはその半分程度の一日平均九・六時間しか眠らないとされている。

「じっとしているからといって、寝ているわけではないんですよ」

彼らの一日はいわば瞑想状態で、静かに、両目を開けてぼんやりと宙を見つめながら、木の枝からぶら下がった格好で過ごす。‘意識はあるが動作はしない’この状況こそ、エネルギーを節約し、生き延びるための鍵なのです。

まるで「禅」のようだ。けれどいつも昼寝している。いわば動かぬ草の発酵袋(胃は二週間強かけて木の葉に含まれる食物繊維や毒性を分解する。食べた葉っぱが消化管を通して糞になるまでおよそ五十日)のような存在です。

彼らは自然界でも群を抜いたぐうたらや屋で、樹上でのんびりくつろぎ、ゆっくりと葉を消化することで、不要な努力をせっせと回避しているのです。

(引用/ルーシー・クック「動物の秘密」より)

カンブリア期の夢を見た。

2019-12-03 | 日日是好日。
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奇妙な夢であった。

そのお告げはこうだった。

「歴史の転換点は必ずしも合理的に訪れるものではない。また善いとか悪いとかいうものでもない。ただ、あるがままに変わっていくのだ」。


(*絵/カンブリア爆発によって生まれた奇妙な生き物たち。バージェス頁岩で発見された化石から復元された。左側の大きいのがアノマロカリス、左上隅が世界最古の脊索動物ピカイア、その間がマルレラ(全部で5体いる)、砂上に2体いるのがハルキゲニア、右下がオットイア。)

・・・

9歳で大学を卒業する。そんな人がいるという。どんな速度で既存知を覚え理解するというのか。想像外である。もしやミュータントではないか?

地球の歴史の中で、最も最近に起きた地磁気反転の痕跡をとどめる国際標準として「チバニアン」が有力だという。地磁気反転て、なに?

とかとか、そんなつれづれのことと私の夢に関わりはない。ということはないのではないかと悩んでいる今日この頃である。

預言者

2019-12-02 | 世界の写窓から
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「思い出したい」

「なぜ?」

「自分を取り戻すために」

「本当の自分が何者か、皆追い求めるが、答えは過去ではなく現在にある。それが真実だ」

「過去が教えてくれる」

「過去は主観的な概念に過ぎない。我々にはそれが真実に見える。だが心は今を生きようとする」「心の中に、答えはある」。

-Total Recall

Max Richter - Never Goodbye