南無煩悩大菩薩

今日是好日也

私たちの分布から構成されるひとつの私

2016-10-27 | 意匠芸術美術音楽
(picture/source)

数知れぬ者の中の誰が私なのか、私たちは何者なのか?
私は見つけられぬ、唯一人の私を、
その者たちは、私の衣裳の中に姿を消し、
他所の街にいってしまう。

万事が都合よく運んで
私を聡明に見せようとするとき、
私の中に隠れている愚か者が
姿を現し、私に取って代わって話し始める。

私は眠っている
一廉の者達の中で、
勇気ある自分を探し求めるとき、
見知らぬ臆病者が
突然姿を現し私を取り繕う
何やらうまい言い訳で。

瀟洒な家が火に包まれ、
私は消防士を呼ぶ、すると
現場に突然現れるのはこの家の放火犯、
しかも、それはこの私。何ということだ?
いったいどっちが私なのだ?
どうけりをつければいいのだ?

私の読む本の
眩しいほどの主人公は、
いつも確かな自分自身だ。
彼らがたまらなく羨ましい
そして、吹きすさぶ風と硝煙いっぱいの映画の中で
私はカウボーイに目をみはり、
馬を見ては感動する。

でも、私が英雄を必要とするとき、
古い怠惰な私が現れる。
そして私は知らない 自分が何者であるか、
自分が何人であるか あるいは何人になるかを、
ベルを鳴らし
本当の私を招集したい、
なぜならもし私が本当に私自身を必要とするなら、
私は姿を消してはならない。

私が書いている間、私は遠くにいる
そして私が戻ってくるとき、私はいなくなっている。
私は知りたい、
他者も私と同じことをしているのか、
私と同じくらい多くの自己を持っているのか、
そしてその多くの自己が似ているのかを
そして私がこの問題に悩むとき、
私はすごく勉強しているのだ、
私自身を説明するのは、
地理学を語ることだと。

-詩/パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)「私は無数の自分」より-

GNOSSIENNE

2016-10-25 | 意匠芸術美術音楽
(写真/加藤唐九郎)

苦痛を知ることで、人生の苦悩は理解される。

同じように

己の執着を知ってこそ、手放すことができる。

GNOSSIENNE n.3 SATIE


*GNOSSIENNE:『グノシエンヌ』とは「知る」というギリシア語の動詞(Γνωρίστε:発音は "Gnoríste" グノリステ)の語幹をもとにして作ったサティの造語である。「思考の端末で」「うぬぼれずに」「頭を開いて」等、この曲の演奏者への助言として付された奇妙な注意書きがある。(参照/wikipedia)

学習とは認知の徒弟修業である。

2016-10-24 | 意匠芸術美術音楽
(picture/source)

その「意味」は最初から明確にあるのではなく、形成されてきたものだ。

それを「学習」するには「認知」の修行が必要だ。

修業は一足飛びには成らず、徒弟のごとく断続的に学びつつあらわれる階段、つまりステップを踏む必要がある。

立ち現れたその先に立ち現れたその先に立ち現れる、といった段階である。

そのような学習サイクルにはまればたぶん病み付きになる。

そしてその「意味」は変わる。

自己実現へのステップ、とはつまりそれではないか。

問題はおそらくそこではない。

2016-10-19 | 古今北東西南の切抜
(GIF/source)

たとえば、バトル・オブ・ブリテンでは、

アフターアクションリポート(AAR)を作成し、帰還した英国の戦闘機「スピット・ファイア」がナチスドイツ軍の攻撃で損傷を受けた個所を図示していた。

戦闘機のどの部分を補強すべきかを割り出すためだったが、或る聡明な人物が最も脆弱なのはそこではないと指摘した。

最大の急所は、敵の攻撃が命中すると帰還できなくなる箇所であり、それはまず間違いなく、帰還機が損傷を受けなかった部分だというのである。

また、たとえば、フローレンス・ナイチンゲールは、

クリミア戦争に従軍して、一つの大きな発見をした。

それは、戦争で兵士が死亡する原因の多くは戦傷そのものではなく、その後の看護の不足による衛生問題が真の死亡原因だという事だ。

つまり、兵士は、戦場ではなく不衛生な病院で死亡するのだ。

戦闘でもなく、医師が行う治療行為そのものでもなく、当時圧倒的に地位が低かった看護婦の活動が生存率に実は影響するというのは、当時の権威者の常識からすると、受け入れがたい結論であった。

しかしナイチンゲールの提言を受け入れた結果、生存率は大きく改善し、それが近代的な看護師、病院のシステムなど、現在では常識とされていることへと繋がるのである。

I must concentrate…

同時に「同じで異なる」サークル作り

2016-10-17 | 古今北東西南の切抜
(photo/source)

・・心理学者マリリン・ブルーアーは、特異な共通性がなぜこれほど人に影響を与えるかを説明する学説を展開している。

私たちには同化したいという欲求があり、人とつながり、強く結びつき、コミュニティの一員になりたいと思う。その一方で異化したいという欲求もあり、ユニークで他とは違う、個性的な存在でありたいとも思っている。

社会で生きていると、この二つの動機がしょっちゅう葛藤することになる。グループと強く結びつけばつくほど、特異意識を失うリスクが大きくなる。逆に、自分が他人から際立った存在になればなるほど、帰属意識を失うリスクは大きくなるからだ。

では、この葛藤をどのように解消すればいいだろうか。解決策は、同時に「同じで異なる」存在になることである。

つまり、同時に「同化し異化する」方法を探せばいいのだ。

「同化し異化する」ことを達成するもっとも一般的な方法は、特異なグループに参加することである。グループに所属して、関心、アイデンティティ、目標、価値観、スキル、特性、経験を分かち合えば、人とつながっているという意識や帰属意識を持つことができる。

また他のグループと明らかに違っているグループに所属することで、特異意識を持つことも出来る。人は、珍しい類似性を共有する個人やグループにより強く愛着を感じるものなのだ。

共通の特徴が珍しければ珍しいほど、絆が強くなるのである。研究によれば、人は帰属意識と特異意識の両方を与えてくれるグループでより幸福を感じるという。こうしたグループを非常に誇りに思い、強い愛着を抱くとともに、自分が評価されているとも感じるのだ。

-切抜/アダム・グラント「GIVE&TAKE」より-

信望あってこそ生き延びる

2016-10-15 | 世界の写窓から
(figure/soldier)

自分自身に費用はかからないが、他の人にとっては潜在的に極めて利益になること。日頃からこのような行為を心掛けることはとても大事である。

例えば、足をやられた兵士と手をやられた兵士は互いに機能を贈与することで生き延びる可能性が格段に大きくなる。

互いに「生き延びる」というパイを奪い合う、いわゆるゼロサムゲームに陥るのではなく、互いに与えることでパイを「より大きく」して分け合うのである。

経済行動においても大変重要なのがこのような贈与活動であり、「優位」に立つよりも「信望」を集めるほうを重要視出来るようになりたいと思う。

つまり、優位はゼロサムゲームだが、信望はゼロサムではない。

蝶も羽を休める指の持ち主

2016-10-11 | 世界の写窓から
(GIF/source)

ある人々は、誰かに良くしてやると、お返しをしてもらおうと常に期待している。

また、ある人々はそうではないが、よくしてやったことを意識していて、相手は自分に返すべき恩義があると思っている。

しかし第3の人々は、そんなことなど考えもしない。彼らはブドウの木のようなもので、何の見返りも期待せずにブドウの実をつける。

だから、誰かを助けてやったら、あとはもうほかのことにとりかかるのだ。

私たちはそのような人間でなければならない。

-マルクス・アウレリウス・アントニヌス-