南無煩悩大菩薩

今日是好日也

明寒。

2010-01-30 | つれづれの風景。

塔頭{たっちゅう}。

なかなか、普通に読める漢字ではない。

土佐弁では、「立っている」というのを「たっちゅう」ともいう。

たっちゅうの前で、禿頭がたっちゅう。ということになる。

塔頭{とうとう}。と読んだら笑われるだろうか。

あいつもとうとう頭にきたか。と。


仰ぎても、あたまは寒し、門前雀羅(もんぜんじゃくら)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なにがなんでも。

2010-01-29 | つれづれの風景。

お。かえるやないか。

断崖にへばりついておるわい。

せや。

落ちんように、へばりつく。

この姿は、ある種の意思の黙示やね。



ちょいかっこはよくないかもしれんが、そんなこと言うてるばあいやないこともある。

へばりつくもんがあってこその、粘り腰ですわ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたなら。

2010-01-27 | つれづれの風景。

救済か倒産か。

見極めなければいけないときがある。

看護か治療か。

判断しなければいけないときがある。


病状や病巣についての、診断をどうおこなうか。

診断の難しさは、
疾病の証拠なし。というのはあっても、疾病なしの証拠。なんていうものはないところにある。

水に濡れただけのトイレットペーパーは、乾かせばまた使える。
しかし、運子を拭いたあとのそれは、ちぎって捨てるより他はない。
ほっとけばその臭いは全体にまわる。

経過観察を続けるか、手術に踏み切るか。


何事も一律の進歩や発展はなく、いつかは収束の時がきて、また違う形で息吹く。

全体にとって、少しでもよりよい選択は何か。


現状において迫られる意思決定の数々。


あなたなら、どうする?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

童人形のメッセージ。

2010-01-25 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

童(わらべ)人形には希望がある。



旧約聖書の中の一書「伝道の書」の一節にこんなくだりがある。

「私は太陽の下を見たが、競争はすばしこい人のものではなく、戦争は強者のものではなく、パンは賢者のものではなく、富は抜け目のない人のものではなく、恩恵は知者のものではない。時期や運は誰にでもあるものなのだ」(九章十一節)



つまり、幸運と言うのは、民主的なもので、人の能力がどうだろうと関係なく、誰に訪れても不思議ではない。



だから健やかにおおらかに生きていってほしい。

そんなメッセージ性に、僕たち大人もまた何かを思い出し、憧憬し魅了される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜに蝦蟇。

2010-01-23 | つれづれの風景。

禅寺永平寺に鎮座する蝦蟇尊。

なぜ蝦蟇の置物があるのか。


座っているだけで悟れるなら、蝦蟇も仏である。

たしかそんな風な公案が、禅にはあったような気がする。


今になって、写真に撮っておいたのを見返していて、たぶんそのようなことでおいているのではなかろうかと気がついた。


なんとかだけで、なんとかなら、なんとかもなんとかである。


う~ん。いろいろと思いのふしの心情が今更にして湧いてくる。

蝦蟇を見ながら、みずからの不肖不足を反省することしきり。

あった何かの末に、その後になって何かを見出し、気がつくことは多い。


問えぬときにはなぜかは問えぬ 問えるまでまで座禅蝦蟇。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解いて放つ。

2010-01-22 | つれづれの風景。

人生活発の気力は、自由に解き、自由に放たれねば出でがたし。

自由に言わしめ、自由に働かしめ、富貴も貧賎もただ本人の自ら取るに任して、

他よりこれを防ぐべからずなり。


誰だったか、

そんな言葉を思い出しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰去来。

2010-01-21 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

西向い、陽が駆け足で没すの美を送別し、



東空に、月おのずと静爛なる美を歓待す。

溜息(りゅうそく)の肖美(しょうび)、斯くの如し。



去るものにより来るもの明輝に浴す。

此地に立つ、我は不動覚ゆるも、さにあらず、

立ち帰る可(べく)もなき、

不動の動を重ねる同胞(はらから)。


天空下知る、思い想いの誠(まこと)や如何。


-無山人-

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶のすすめ。

2010-01-20 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

「現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕させられている。

世は利己、俗悪の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行われている。

東西両洋は、立ち騒ぐ二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。

われわれは大権化(だいごんげ)の出現を待つ。


まぁ、茶でも一口すすろうではないか。

明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音を立て、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。

はかないことを夢に見て、美しいとりとめのないことをあれやこれやとかんがえようではないか。」

-1906年出版「茶の本」岡倉覚三著より、抜粋-



時は移れどさりぬるを。か。

喫茶去(きっさこ)に思いを寄せて。

茶でもすすろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毘沙門天。

2010-01-19 | つれづれの風景。

越後の上杉謙信公は「毘」と染め抜いた旗を用い軍神とよばれた。

「風林火山」の甲斐の武田信玄公との甲乙なしの激突の話も想像を逞しくする。

別名、多聞天。

冷静さと怒涛の決意。

ここぞというときには、胸に秘めたい、男としてはあこがれの仏である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流水に学ぶ。

2010-01-18 | つれづれの風景。

流水は、流量に従い、地形に沿い、岩床に添い、その姿万変なり。

恵雨には増し、乾来には減ずるも、その営み止むことなし。


天なる需要に添って流れ行く。

地なる供給に添って流れ行く。

行く川の様、斯くの如し。


適者生存の妙ここに至れりや。


自然体。すべからく受け入れ賜う。

吾いとなみもまた、斯くの如しと切に勉めん。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑問のすすめ。

2010-01-15 | 有屋無屋の遍路。

知恵者や賢者とはどのように出来上がるのでありましょうや。

全般的なお地蔵さんたちの、賢者の顔つきを見るたびに思います。

先日、新成人たちへのメッセージの中で、誰かが言っておりました。

「何事も当たり前だと思ってあきらめないで、世の中を疑ってかかりなさい。」と。


借り物でない、自分の言葉で自分の気持ちをしっかり話せるようになるには、疑問を発することが一番のようです。


つまりはこういうことではないかと。


懐疑心を働かせて感情を薄めてしまうこと。

自分の視点とはかなり違った視点を取り入れてみよう。

自分の考えとは相容れない情報に真摯に耳を傾けよう。

自分の考え方の弱点を正直に認め、自分の信念と対立する考え方の長所をしっかり見つめよう。

本当らしく見える説明に満足せず、都合よく見える理屈にも乗らないで。


言うは易し行うは難しではございますが、少しでも気に留めることで、少しは賢者の風貌に近づけたりなんかしちゃわないだろうか。

したり顔ではない、知恵者や賢者の風貌には未だ程遠い愚禿のあたしも、遠き昔は新成人でございました。

日本の未来は、うぉううぉうもよろしいですが、将来を託す新成人の方々が、私らに大いなる疑問を持ってくれることをすすめる次第でございます。

おじぞうさんに手をあわせながら、そんなこんなをおもっちゃったりする今日この頃です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

叙事。

2010-01-14 | 有屋無屋の遍路。

神様が本当にいるかどうかはわからない。
でも、無神論者だと、神様がいなかったとしてもいいことがあるわけではない。
一方、もし神様がいたとしたらきっとひどいことになる。
したがって、私が神様を信じているのは適切な行為なのだ。
-パスカル-

彼は、神を信じる人たちが祈りを捧げ、その後船の遭難に出くわして生き延びた様子を描いた石版を見せられた。
ディアゴラスはこう尋ねた。
「それで、祈って溺れ死んだ連中の絵はどこだ」。
-キケロ-

神は、準備をしている人に対して微笑みやすいという。
信じていたがゆえに、というより、信じるようになる人たちに対して。

光はあまねくさしている。
曇ったりまだらになったりするのには訳がある。

その訳に対する準備に、神は祝福を与えやすい傾向があるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会との契約。

2010-01-13 | 有屋無屋の遍路。

全員の意志(全個人が望むこと)と全体の意志とは、しばしば大きく異なる。
全体の意志は共通の関心のみを考慮するが、全員の意思は個人的な関心を考慮し、個人的な願望の総和でしかない。
しかし、これらの意志からプラスとマイナスを取り除いて打ち消し合わせれば、残ったものが全体の意志となる。-ジャン=ジャック・ルソー「社会契約論」-



個人の色を失うことなく、効果的に生かすためには、関わる組織や社会の中で、共通の意志を見出し尊重する必要がある。

自分にとって都合のよい仮定と、全体的によい仮定を混同してはならない。

また、違う風に考えるのはよい事だし貴重でさえあるが、しかし、違う風に求めるのは、必ずしもよいことではない。

ルソーさんは、社会契約論の中のこの文でそんなことを言いたかったのではないだろうか。


色とりどりの個性が、裁断と法政と調和をもって、共存する。

追い求める社会の目的はそこだ。

そのためには、個人がより目的的に、自分が所属する社会との契約を果たそうと努力することが大事になる。

全体があることで、個は個レベル以上の存在感と利便を手に入れることができるのだといえそうだ。

その社会なり組織なりで生きている限りにおいて、前提となる約束事を、避けて通ることはできない。

であるならば、積極的に関心を持ち、生かさせてもらう関係を結ぶほうが、よりよい自分らしさを手に入れることになりそうだ。


いくら私が、禿げは社会的な関心事だとおもったとしても、毛がふさふさの人は必ずしもそうではないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪は月花。

2010-01-12 | つれづれの風景。

砂利目やいくとせ深まる行くの川、

ひわだのおねは新白はえて、

置石いただく えぼしつき

向日にまつは まんじゅのゆきばな。


徒然なるもいとおかし。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呑む哲学。

2010-01-09 | 酔唄抄。

セネカは、ワインを飲み酩酊することが平静さを維持する手段であると言った。「時折、我々は、酒に溺れることなく、それをたらふく飲み酩酊状態に達するべきでさえある」。といっている。

溺れずに酩酊状態になる。
酔っ払いの本道とは、このあたりの真実を解明すべき使命を帯びたものだ。

推察と検証を重ねつつ8時間程も呑み続ければ、酩酊と泥濁と喪失の狭間で酔っ払いは揺れ動く。

夢かうつつか、うつつが夢か。

溺れたいという欲求を振り払うように呑んでみることで、物事が起こることそれ自体ではなく、それらの物事が起こしうる架空の臆病な見識に恐れをなす自己がいることに気付く。

それも儚き束の間の夢。

眠りに打ち勝つには、諦念に溺れることのない探求と未知なる物、たとえば死と言うものへの共感覚に目覚め、平静さを無くさないことを要する。

酩酊することは、もしかすれば2度と繰り返すことのない物事への臆病さを取り除く為の疑似体験だとしたらどうだろう。

倦怠と吐き気と頭痛と浮遊感に悩まされながらも、翌朝には生還の果実をじっと眺めてみる。

うたかたの安堵。

呑むことで私はこうして、生きている喜びをかみしめられている。

もしそれが悲しいことであれば、嬉しいこととはいったい何を指すのであろうかと思いつつ、きっと今日も酒を遠方に眺める。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする