南無煩悩大菩薩

今日是好日也

火のつかない会話

2022-03-16 | 世界の写窓から

(gif/source)

人が集まると会話が始まりますが、その場の水準を決定するのは、程度の近い人の多い方に落ち着きます。

忌憚なく言った発言が場の予定調和を外れてしまうと、それを口にした者は気が利かないということに自然となってしまうわけです。

たとえばその場に一人でも人情を解さない人がいると、人情を解さないその人に対する人情のようなものが湧いてきて、話題の範囲が日常茶飯のごくありふれた世間話といったものに限られてしまった、というようなことです。

たぶん、そこで当人としての然るべくを味わうようなことがあったりするわけです。

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退屈は阻害された労働の一環である。

2022-03-13 | 世界の写窓から

(picture/source)

艱難や苦悩の合間にほっと一息ついた途端に今度は退屈が人間に忍び寄り、その結果として暇つぶしが必要になる。

生きとし生ける者を働かせ、休みなく活動させているものは、生存を目指す奮闘努力である。ところがいざそれを確保してみると、当の生存を持て余すようになるのだ。

したがって人間を動かす第二の要因は、生存の重荷から解放され、それが感じられないような状態を作り出す努力、「暇をつぶす」、ということはつまり退屈から逃れようとする努力である。

ーショーペンハウアー

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自分のしっぽを追う犬は、どんなに速く走ろうとまったくうまくいかない。

2022-03-04 | 古今北東西南の切抜

(gif/original unknown)

「なにもしない」というのも一つの行為です。

最初の状態から「なにもしない」という行為を行うと、最初の状態とおなじ状態になる。

「結果としての状態」自体には、それほどの重要性はありません。「行為」や「運動」「操作」といったものに、注目します。重要なのは「行為」という「動きそのもの」であって、その結果としての「状態」ではないというわけです。

「なにもしない」「右を向く」「後ろを向く」「左を向く」を考えてみましょう、「状態」でなく、「行為」を考えることのご利益は、次のことにあります。

-「右を向く」という行為を最初の状態から二回続けて行うと、「後ろを向く」という行為を最初の状態から一回行ったときと、状態は同じになる-

つまり「右を向く」を二回するという行為は、「後ろを向く」という行為と同じなのだということです。例えば最初の状態から、「左を向き」ます。そして、もう一度「左を向き」ましょう。これは、「後ろを向く」ことと同じでした。では、後ろを向いてから、右を向いてみます。これは「左を向く」ことと同じです。その状態から、もう一度右を向いてください。こうすると、最初の状態に戻ります。

つまり、「左を向く」ことと「右を向く」ことを続けると、「なにもしない」という行為と同じだというわけです。当然と言えば当然です。

-切抜/加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学」より

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