それが思い出と呼ばれ、歳を重ねた後でもそれが日常生活の中に顔をだす。
なんてことを書きたくなったのが、安倍川の花火。
元々が戦没者の慰霊から始まったらしいけれど、昨夜だ。
妻が一人で出掛けて、某場所からの眺めを堪能してきたのかな。
他の方々からもFacebookにアップされていて。
彼女、彼たちの幼い頃に味わうともなく味わったもの。
なんてことをつらつらと眺めて、表題となった次第。
それはいいことだ。
それぞれの方々が、それぞれの花火を味わったんだろうな。
あるいは、その場にいなかったとしても。
昨日は、当方は、孫娘たちとの日とも言えるか。
長男坊の娘たちがやってきて、彼は一日お仕事、という中での、時間を過ごした。
彼女たちに、泥遊びをさせたくて。
庭に穴を掘り、水を溜め、そこでの遊び。
泥だらけになり、そのままお風呂場へ、という展開なんだけど、アーシングというのね。
詳しくはわからないけど、そんなこともできればいいか、なんてね。
こちらも、幼い頃は、自然児とは呼べず、どちらかといえば、家の中で静かに過ごす少年。
だったんだけど、ね。
だから、無駄な人生だった、ということもないわけで、なんだけど。
ま、細かい話はともかくとして、アーシングってのは、こちらも気持ちがいいもんだ。
虫に刺されたり、蜂の巣を怖がったり、蝉の抜け殻に恐る恐る触れる、なんて時間ね。
この先、どう見ても、AIとかに象徴される、リアルというものの変容、変換、転換、何てことを思い浮かべると。
だな。
触感も含め、匂い、音、光などなどを、目の前で味わう、ってのは、得難いものかもしれないな。
というわけで、今日も光とともに肌からの汗をかきつつ、心の中では、もう足が動かない、なんて気分も。
味わいつつの時間、その後は、焙煎堂の大将がそれこそ焙煎してくれたエチオピアのモカの朝だ。