そんな、今日このごろ、ってわけだけど。
これね、あの頃の母親や祖母が見たらなんというんだろうな、とかと思いつつ書いている。
おとなしくて引っ込み思案で、ついでに、意気地が無い、くらいも付け足されたか。
あんたが人前で話すの?ってなもんだ。
彼女たちの印象批評ってやつの術中にはまり込み、というよくある話で。
それは、裏側の、海よりも深く山よりも高い、と言われる、親御心、祖母心の賜物でもあり、ね。
西欧の心理学用語では、なんて言ったかな、忘れたけど、スピ系では、魔女の呪い、みたいな。
僕への呪いは、早くしろ!という呪文だったか。
なんてこと、臆面もなく書くと、ある世代からしたら、なんてこというんです、あなたは、ほんとに。
とかね、数多、詰問、驚愕、悲嘆、の礫が飛んでくるのかも、だな。
たしか、中国の古典、と言っても、どのくらい古いのか忘れましたが。
親の悪さを隠すことが子どもとしての大事なことだ、なんて文章、なかったかな。
親が、物を盗んでも、それを言いつのらない、告発しない、うちに収める、と。
それが親孝行というものです、だったかな。
たしかに、そこで、ポリコレじゃないけど、社会的に見て、正しい正しくないというより、この世に産み落としてくれた。
その大業への感謝、報恩、みたいな話でもあるかな。
の話は置いといても、上記の印象批評から我が身を解放する、というのが、一面での人生とも言えるか。
もっとも、そんなことも、わが内面の、実に個人的な物語でもあるけれど。
それのさらに進んだ、というのか、変形でもあるか、中国の湯王の、日に新たなり、日々に新たに、また日に新たなり。
だな。
かの御仁は、毎朝だからね、最近でも、当方も真似してるけど、顔を洗うときにね。
さらにほかの変異形としては、あなたは何にでもなれるんです、そう思えば、だって、神なんだから、もあるかな。
いずれにしても、ゆく川の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず、ってわけだ。
ウイルスだって変異できるんだから、いわんやあなたにおいておや、だな。
そう、このところ、いわんや悪人においておや、という親鸞さんの言葉が、時折、やってくるな。
その前段が、善人なをもて往生をとぐ、とあるんだね。
善人だって極楽浄土へ行けるんだから、悪人のあんたなら当たり前に行けるよ、というのは意訳にすぎるかね。
浄土宗の方からしたら、それはそんな単純なものじゃないのだ、なんてツッコミ入るかも、だけど。
さてそんなわけで、蟷螂生ず、の五日目に突入するか。