なんて情景を思い返しながらのブログ書き開始。
さっき、駐車場に停めたら、家庭ゴミを二袋、台車に乗せてやってきた御仁。
パーキンソン病だったか、病をえて動きが不如意のまま、の表題の会話。
チャキチャキの奥方のことも思い浮かべながら、だったな。
夕べは夕べで、帰りのタクシーの運転手さん、「梅が島まで1万8千円、乗ってくれた」のが。
タクシー仲間の方らしく、恋人みたいに仲がいいんですよ、と。
彼の誕生日だったか、そんな記念日に、なんとかを買ってくれて、タクシーへの乗車までプレゼント。
だったそうで。
その前には、珈琲問屋のオープンカフェとでも言えるか、そこでの珈琲ジェラートだったかな。
同行の御仁、ご推奨の、をいただきながら、外なので、タバコも吸えるんだけど、そこにいた御仁が。
最初、むくつけき強面っぽい風情だったのが、僕らの席を開けてくれた、その瞬間、ね。
ああいうの、好きなんだよね、ありがとうございます、と言ったら、笑顔が帰ってきた、どういたしまして。
ってわけだ。
今朝の巴川は、いつものランナーに加え、新顔の女性も混じり、だ。
ケニアからの珈琲豆を挽き終わったら、涼気がやってきた。
なんとも言えない瞬間だ。
生きていること、人生とか暮らしとか一生とか、いろんな言い方もあるけれど、瞬間の連続であることは。
当たり前と言えば当たり前で。
そうだ、夕べの相方から教わった、カツオのムニエルとでもいうのかな。
刺身を醤油に漬けて、パン粉だったか、なんだったかな、それをつけて焼く。
残ったのは、お茶漬けで、とか言ってたな。
後で、もう一度、ご教示願うとするか。
もう一つは、カマスを醤油とみりんと、なんだったかで漬けておいて焼く、というのは。
お店の若い衆に教わった。
舌べらは文化、人それぞれの体験、経験の蓄積だよね。
美味しい、なんて便利な言い方あるけれど、その味わい方だって、百人百通り、なわけで。
もし言葉なかりせば、踊るのか、奏でるのか、走り出すのか、そんな具合なんだろうな。
言葉の奥の奥の方では、踊り奏で走り、なんて具合に、今日を迎えるとしてみるか。