まわりで起こっていること

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祈りというものは

2019年11月24日 | Weblog

まさしく自分は何者であるかということに。

ハッと気づかせてくれるもので、実は人間が作ったものではないんですね。

というのは、摩訶不思議な、Kan.さんという方。

祈りは、頭で想いを込めること、と勘違いされている、とも言うんだね。

今は亡き船井幸雄さんが始められたのか、「にんげんクラブ」と言う冊子が届いて。

昨日の勤労感謝の日は、プチ読書。

表題の祈りについては、習となっていない、つまり、身についていないので、これ以上は。

語れません。

が、古代人の祈りに自分の祈りも肉薄していくと、人類の起源のようなものに触れることができる。

なんてフレーズは、とても唆られるのでもあります。

そのうち、気持ちよく書けるかも、あくまでも、かも、ですが。

いきなり場面転換だけど、誰かが、人生の目的は、愛と創造性だ、と言い切っていたな。

これも、面白い話なんだろうけど、だから何?みたいに書くことができない感じ。

ことほどさように、言葉にならないことって、あるんだよね。

言葉の向こう側に、真実とでも言えるものがある、わけだ。

すべてを説明責任で、なんて時代だと、とてもめんどくさいけど、話さなきゃわからん、ってことでもあり。

ところで、我慢、って言葉、よく使われがちだけど、あんまりいい言葉じゃないみたいだね。

自己に執着して、その我執から自分を高く見て他人を低く見る、と言うような意味だそうで。

これ、by ウイキですが。

幼い頃から、我慢しなさい、と言うフレーズを聞かされて育つ、と言うことは、我執を強くする。

と言うわけだ。

困ったものだね、こんな具合の常套句、ってのは。

知らぬ間にある境地にたどり着いちゃう、ってなもんだ。

たぶん、そんな言葉使い、ってのは、たくさんあるんだろうな、と思う。

それによって、社会は平穏を保ち、なんだろうけど、その当の本人は、そのことによっていたく傷つき。

その後の人生を決められちゃう、とね。

いや、決められちゃう、と言うより、自分で決め打ちしちゃう、ってことか。

いつだったか、他人に迷惑をかけちゃダメです、だったか、そんな言葉を投げかけられて育った御仁。

競輪の選手だったんだけど、いまいち、大成できなかっのは、その言葉かも、なんて話、していたな。

なにせ、ああした競技ってのは、ある意味、他人に迷惑をかけてしている勝負でしょ。

と言うわけだ。

だからと言って、そんな言葉を投げかけるのが悪い、ってことじゃないんだよね、たぶん。

それらも含めて、その方の人生そのもの、って具合だな。

背が小さかったり高かったり、太っていたり痩せていたり、くらいの話だな。

要は、どんな言葉に絡め取られようと、どんなカラダに束縛されようと、人生は人生。

楽しむか苦しむかは、あなたの自由、って具合なんだろうね。

そこんとこ、テストに出ますよ、ってわけだ。

そういえば、僕への呪禁、と言うのか、魔女の呪い、ってのは、早くしろ!ってことだったかな。

なんてこと、思い出したよ。

それがどこかで鳴っていて、今を味わうことから遠く、ってことで。

なので、というわけじゃないけど、来週半ばには、爾今の会に参加。

って、唐突だけど、これ、三重のお酒で。

名前が好きなんだよ、爾今、たった今この瞬間、ってのね。

その蔵元から社長兼杜氏さんが清水までやってきてくださり、というウタイだ。

たぶん、この仕込みの忙しい時に、ね。

夜の6時から始まり、かの御仁は、10時の新幹線でお帰りになる、ってんだから。

凄まじい清水愛、ってわけだ。

というか、うどんのげんきさんのイベントなんだけど。

どうも今日は長いと思ったら、2000文字近くなっちゃったな。

 

 

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