のは、柿三昧に向かう車中、母親の口から表題のような歌が出始め。
一同、今日は、調子がいいね、と言いつつ、天晴れの空の下、一路、柿街道へ。
と言うのが、昨日のおじおば会の、朝の一筆書き。
柿をコラショっていうくらい買い込み、ついでに、熟したやつをおまけに、って具合に。
その後、いつもの、さくめ駅前の「さくめ」さんでうなぎ。
というほぼ、定番のコースで。
道中は、喜びにあふれ、という表現が大げさでないくらいのもので。
即位のパレード前夜祭での、嵐の歌を思い出すくらいだったのでした。
君が笑えば世界が輝く、から始まるやつね。
あれは、いい詩だな、と。
誰かの幸せが今を照らす、とかさ。
定番の「さくめ」さんでは、恒例の、カレンダーをいただき、悪いね、遠くから、なんて大将の言葉と。
二人目は目が離せなくて、という息子の嫁さんの声を後にして。
さて、だったんだけど、周りが暗くなるにつれて、わが母親の風向きも急変し。
あたしはどこにいる、というのか、どこへ連れてかれるんだ、なんて具合になり。
おばたちにも妹にも、あんた、だれ?みたいな、ね。
これらの様を眺めながら、どういう糸のつながりになってしまうのか。
ほんとに、ヒトの、心というのか、マインドというのか、自我というのか、なんて表現できるのかわからないけど。
それらの存在の仕方、外への表出の仕方などなどについて、深い想いになったわけだ。
もちろん、なんらかの刺激で、そのモードは、また、急変し、というのは。
経験、体験済みなので、帰宅後の、夕餉時の、もういくつ寝たらお正月、という時間に入りこむ。
ということに、結果は、なったのでしたが。
つまり、お年玉の用意をしなきゃ、とか、お餅はついたかね、とかね。
いわゆる認知症と呼ばれる母親を眺めつつ、ヒトとしての存在の仕方、なんてことを。
深く深く、沈思黙考、の空気になったのだけど。
それでも、そうしてリアルに、目の前に、生きてあることを、わが母親の棺を閉じた後は。
懐かしくも思い出す、となるのか、リアルに、肉体は存在していないけど、意識の中には。
記憶の中には、いつまでも残されているわけで、というのも。
前日の夕餉時、ご近所の誰それさんは元気かね、みたいな問いかけに。
もちろん、その方は、とうの昔にこの世からはおさらばしているのだけど、こちらは。
深くうなづき、今でも存命であることを伝えて、となると、母親の中では、その方は、存命中なわけで。
となると、存命、非存命の分け目は何か、ってなことになるよね。
今朝は、やけに筆が進み、1200文字を超えたな。