続いてFMさんが取り出したのは、やはりメロディアのレコードであった。しかし、今度は共通紙ジャケットではなく、ちゃんと演奏者と収録曲が裏面に印刷されていた。そしてジャケットの表面には演奏者の写真もあった。しかしジャケットの紙質は悪く、レコードが入っていないと、へなっとなってしまう。
演奏者はイルゼ・グラウビア。このレコードのA面にはバッハの「イタリア協奏曲」とハイドンの「ピアノソナタ第46番」が収録されている。
ZYX OMEGAの針先がレコードの盤面にゆっくりと降ろされた。メロディアのレコードはコンディションの悪い盤が多い。
共産主義国家であったソビエトのビニールの質は悪い。それ故劣化が早い。さらにレコードを包んでいるビニール袋の質も悪く、それが長い年月の経過とともに盤面に悪さをするようである。
このレコードもスクラッチノイズ多めである。時折「ザザザ・・・」と大きめに入ることもある。そのスクラッチノイズの底流をかき分けるようして、イルゼ・グラウビアが奏でる音の清流が迸り出てくる。
バッハの「イタリア協奏曲」はバッハの存命中においても人気の高かった曲である。存命中においては、バッハの音楽は「自然に反し、くどくどしく理解しがたい・・・」と酷評されることもあった。しかし、この曲はイタリア風の明るさが程よく加味されたことで広く一般に受け入れられたようである。
この曲はグレン・グールドの演奏で聴くことが多い。グールドの演奏が幾何学的な精密性や正確性に縁どられているのに対して、イルゼ・グラウビアのピアノは、もっと穏やかで人の手の暖かみを感じる音色である。
それでいて、柔らかすぎずに、精神の高揚感や清澄な印象を感じさせる絶妙なバランス感覚が素晴らしい。
「彼女のピアノはやはり素晴らしい・・・」と心の中で独り言をつぶやきながら、イタリア協奏曲の三つの楽章を聴き終えた。さらにハイドンのピアノソナタ第46番も何度か頷きながら聴き終わった。
「こういったレコードは、オーディオマニアの方に聴かせても、その良さを分かってくれないんですよね・・・スクラッチノイズが大きいし、フォルテシモでは音が歪んでしまうこともありますから・・・『音の良いレコードを聴かせてください・・・』と言われてしまうこともあって・・・」と、FMさんはぼやかれていた。
「そういうものですよ・・・このレコードの真価を分かってもらうのは、オーディマニアの方には難しいと思いますよ・・・価値観が最初からずれていますから・・・」と私は答えた。
最後にかけてくれたのは、グレン・グールドであった。「聴き比べをしてみましょう・・・同じくイタリア協奏曲の入ったレコードです。こちらは1959年の録音です。録音はこちらの方が古いのですが、音はこちらの方が良いです。やはり共産主義国の工業製品のレベルは西側諸国に比べると相当低かったんですね・・・」と言って、グレン・グールドの演奏によるレコードをセットしてくれた。
「第2楽章はグラウビナ・・・第3楽章はグールド・・・そして第1楽章は引き分け・・・というのが私の評価です・・・」と言いながら、FMさんはアームリフターを操作してそのレコードに針先をゆっくりと降ろされた。
この曲は「協奏曲」というタイトルが付けられているが、ピアノまたはチェンバロ独奏の曲である。2段鍵盤であるチェンバロを用いて、協奏曲における楽器群の対比表現を模して作曲されたので「協奏曲」という文言が入っているのである。
三つの楽章は「急・緩・急」の並びになっていて、それぞれの楽章が個性的な響きと趣向を持っている。
グールドの演奏による第3楽章は、迸り出る疾走感が実に爽快である。彼独特の「疾走する陶酔感」が満載で、心地よく聴き終えた。
「ケーブルやオーディオ機器の聴き比べもそれはそれで面白いですけど・・・時間の経過とともに心が枯渇していきます・・・レコードの聴き比べはそういった枯渇感がないので良いですね・・・」私は、レコードを愛しそうにジャケットにしまうグールドさんにそう話しかけた。
その後しばしの時間、10畳ほどの広さの静かな部屋でレコード談議をしてから、車に乗り込んで、家路に着いた。雨は小止みになっていたが、まだしとしとと降り続いていた。「そろそろ梅雨入り宣言がでるかな・・・」そう思った。
演奏者はイルゼ・グラウビア。このレコードのA面にはバッハの「イタリア協奏曲」とハイドンの「ピアノソナタ第46番」が収録されている。
ZYX OMEGAの針先がレコードの盤面にゆっくりと降ろされた。メロディアのレコードはコンディションの悪い盤が多い。
共産主義国家であったソビエトのビニールの質は悪い。それ故劣化が早い。さらにレコードを包んでいるビニール袋の質も悪く、それが長い年月の経過とともに盤面に悪さをするようである。
このレコードもスクラッチノイズ多めである。時折「ザザザ・・・」と大きめに入ることもある。そのスクラッチノイズの底流をかき分けるようして、イルゼ・グラウビアが奏でる音の清流が迸り出てくる。
バッハの「イタリア協奏曲」はバッハの存命中においても人気の高かった曲である。存命中においては、バッハの音楽は「自然に反し、くどくどしく理解しがたい・・・」と酷評されることもあった。しかし、この曲はイタリア風の明るさが程よく加味されたことで広く一般に受け入れられたようである。
この曲はグレン・グールドの演奏で聴くことが多い。グールドの演奏が幾何学的な精密性や正確性に縁どられているのに対して、イルゼ・グラウビアのピアノは、もっと穏やかで人の手の暖かみを感じる音色である。
それでいて、柔らかすぎずに、精神の高揚感や清澄な印象を感じさせる絶妙なバランス感覚が素晴らしい。
「彼女のピアノはやはり素晴らしい・・・」と心の中で独り言をつぶやきながら、イタリア協奏曲の三つの楽章を聴き終えた。さらにハイドンのピアノソナタ第46番も何度か頷きながら聴き終わった。
「こういったレコードは、オーディオマニアの方に聴かせても、その良さを分かってくれないんですよね・・・スクラッチノイズが大きいし、フォルテシモでは音が歪んでしまうこともありますから・・・『音の良いレコードを聴かせてください・・・』と言われてしまうこともあって・・・」と、FMさんはぼやかれていた。
「そういうものですよ・・・このレコードの真価を分かってもらうのは、オーディマニアの方には難しいと思いますよ・・・価値観が最初からずれていますから・・・」と私は答えた。
最後にかけてくれたのは、グレン・グールドであった。「聴き比べをしてみましょう・・・同じくイタリア協奏曲の入ったレコードです。こちらは1959年の録音です。録音はこちらの方が古いのですが、音はこちらの方が良いです。やはり共産主義国の工業製品のレベルは西側諸国に比べると相当低かったんですね・・・」と言って、グレン・グールドの演奏によるレコードをセットしてくれた。
「第2楽章はグラウビナ・・・第3楽章はグールド・・・そして第1楽章は引き分け・・・というのが私の評価です・・・」と言いながら、FMさんはアームリフターを操作してそのレコードに針先をゆっくりと降ろされた。
この曲は「協奏曲」というタイトルが付けられているが、ピアノまたはチェンバロ独奏の曲である。2段鍵盤であるチェンバロを用いて、協奏曲における楽器群の対比表現を模して作曲されたので「協奏曲」という文言が入っているのである。
三つの楽章は「急・緩・急」の並びになっていて、それぞれの楽章が個性的な響きと趣向を持っている。
グールドの演奏による第3楽章は、迸り出る疾走感が実に爽快である。彼独特の「疾走する陶酔感」が満載で、心地よく聴き終えた。
「ケーブルやオーディオ機器の聴き比べもそれはそれで面白いですけど・・・時間の経過とともに心が枯渇していきます・・・レコードの聴き比べはそういった枯渇感がないので良いですね・・・」私は、レコードを愛しそうにジャケットにしまうグールドさんにそう話しかけた。
その後しばしの時間、10畳ほどの広さの静かな部屋でレコード談議をしてから、車に乗り込んで、家路に着いた。雨は小止みになっていたが、まだしとしとと降り続いていた。「そろそろ梅雨入り宣言がでるかな・・・」そう思った。