おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

判決の不思議

2024-01-26 11:20:41 | 日記
 京都アニメーションへの放火事件の判決が出た。京都地裁による判決は、誰もが予想していた通り死刑判決だったが、地裁での裁判ということは控訴や上告があれば裁判は続くということなのだろう。

 死刑判決がある国は、世界でも限られている。死刑制度は人権に反するというのが先進国の考えということになっているから、日本は野蛮な国だという人もいる。が、欧米でいう人権とは、キリスト教に基づく考えであり、この世は創造主によって作られているので、どんなに悪い人間だろうと神様の思し召しだということになる。従って、人間が人間の命を絶つことは神様への反抗だということになる。だから、キリスト教社会では自殺も殺人と同じ扱いだ。自分の命だろうと、神様が与えたものだからだ。

 死刑がいいのか悪いのか、僕にはわからない。というのは、死刑に相当するような犯罪の被害者やその家族になったことがないからである。もし、凶悪な犯罪に身内が巻き込まれてしまった時、死刑を廃止しろと言えるほどの自信はない。

 死刑制度があるのだから、京都アニメーション放火事件の加害者のように、全身に火傷を覆い生死の境をさまようような状態にある時、どうして国費を投じて治療する意味があるのだろうかという意見もある。が、法治国家である以上、判決が出るまでは死刑囚ではない。裁判を争った結果、責任能力がないために無罪だという判決が出る可能性もある。だから、医療行為は絶対に必要になるのである。

 それにしても、「罪を憎んで人を憎まず」とは言うけれども、責任能力がないために無罪というのは、あまりに被害者家族にとっては残酷な判決だ。「罪を憎んで」というのなら、まずどんな人間が犯した犯罪だろうと、判決はそれに値したものにしてもらいたい。その上で環境や精神的な障害などにより、情状酌量がつくというのなら納得が行く。が、実際は最初から責任能力の有無を問うことになるから、僕にはそれが不思議で仕方ないのである。
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