おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

つかみどころ

2022-01-19 10:28:20 | 日記

 良寛さんの本を読み始め、いよいよ69歳まで来た。良寛さんが死ぬのは74歳とわかっているので、あと5年分ほど残している。そろそろ読み終えるので、次は何を読もうかと考えた末、親鸞、道元、良寛と来たので、日本の古典をもう少し読むことにして、西行さんの本を注文した。

 西行さんのものでは、すでに「山家集」は若い頃から読んでいるので、歌に関しては知ってはいるが、西行さんがどういう人だったかということについては、何にも知らない。そこで、新書版の薄っぺらい本で、簡単に西行さんの生涯を紹介した本にしたのである。

 良寛さんについては、数ヶ月かかりっきりで読んでいるが、実を言えば良寛さんがどういう人なのか、今ひとつわかってはいない。書は有名だが、能書家というような書だけに秀でた人ということでもないし、坊さんだがどこか由緒正しいお寺の住職だったり、新しい宗派を作ったわけでもないただの乞食坊主なので、坊さんとしての業績は何ひとつない。歌人かと言えば、漢詩も作るし俳句や和歌も作る。万葉集の時代の船頭歌(誤→正 旋頭歌 せどうか)も詠めば、流行の歌謡も作るといった具合で、芭蕉さんのように俳人というわけでもない。なんともつかみどころがない人で、そのことがどうして今の時代までもてはやされる有名人なのか、気になって仕方がないのである。

 つかみどころがない、という言葉は、あまりいい意味では使われない。「つかみどころ」というのは、「そのものの本質や真意を押さえる手がかりとなる点」のことを言うので、つかみどころのない人というのは、得体の知れない人なのである。日本人というのは、どちらかと言えば、ひとつの物事を極めた人のほうを好む傾向がある。良寛さんのような人は、器用貧乏としてあまり重きを置かれない。が、考えようによれば、重きが置かれないということが、良寛さんの持つ軽みにあり、それが人々の尊敬を勝ち取ったのかもしれない。

 で、昨日西行さんの本が届いたのだが、よくよく考えれば、西行さんという人もつかみどころのない人である。武士としての位を捨て、出家はするが坊さんではなく、桜の歌ばかりを詠み、旅に暮らした人である。今の時代なら、和歌を作って歌集でも出してベストセラーにでもなれば食べていけるだろうし、講演会やカルチャーセンターの講師にでもなれば、収入はあるだろう。西行さんの生涯がよくわからないというのは、結局のところ、良寛さん同様、西行さんもなんとも得体の知れない人なのかもしれない。

 今でこそ、作家は本を出し、ミュージシャンは楽曲を売ったりコンサートで収益を上げたりすることができる。が、昔はそういうことを本職にするというのは不可能に近く、世界で最初にプロの小説家になったのは、ドストエフスキーであり、初めてプロの作曲家となったのはベートーベンだったと僕は記憶している。というのも、本人が貴族かあるいは貴族のパトロンを持ち、小説を書いたり芝居を書いているのが普通で、ベートーベン以前は宮廷音楽家として活躍していたのが当たり前だった。ベートベンが宮廷音楽家の職に就けず、楽譜を売って生活したのは、彼が平民の出だったからである。

 そんなことを考えていると、今の時代というのは、ほとんどの人がつかみどころのある生活を送っているんだなあと思う。逆に言えば、その人が何かのきっかけで自分のつかみどころを失くしてしまうと、この世で生きることに関して自信喪失状態になるのかもしれない。「将来、なんになりたい」と聞かれ、「つかみどころのない人になりたい」と答える若者がいたとしたら、周囲の人たちはギョッとするだろうな。

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1 コメント

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Unknown (yura)
2022-01-19 17:20:49
船頭歌ではなくて、旋頭歌ですよね。せどうかと読みます。確か。

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