おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

行動原理

2024-04-12 12:44:26 | 日記
 イスラエルのガザ侵攻がニュースになって時間が経つが、最初は朝から晩まで流れていた紛争のニュースも、最近はほとんど流れなくなってしまった。ユダヤ人だのアラブ人だの、ユダヤ教だのキリスト教だのイスラム教だの、日本人には馴染みのない宗教も出てきて、何が何だかよくわからないと思っているうちに、ニュースは遠い世界の出来事になってしまうのである。

 そんなこともあって、以前読んだ「逆説の世界史」(井沢元彦著)の第二巻「一神教のタブーと民族差別」を読み返している。何度読んでも理解できないことばかりだが、読書百遍少しずつでも理解できることがあるだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地はすべて同じエルサレムにある。どういうことかというと、簡単に言うなら同じ親から生まれた宗教だからだ。それはこの世は完全無敵な神が作った世界であるという一神教の教えである。普通の宗教というとおかしな言い方だが、世界的にはいろんな神様がいるというのが普通だ。山の神様、海の神様、農業の神様などなど、人はその都度お祈りを捧げる神様を変える。これが多神教の世界だ。

 一神教というのは、ただひとつの神しか認めない。おそらく古いユダヤ教からそれは始まり、旧約聖書(ユダヤ教ではタナハという)が聖典になる。そのユダヤ教からキリスト教は生まれた。ところが、そこで問題が生じた。一神教のはずなのに、イエスという人の子も神様になったので、これになんとか理屈をつけなければならない。で、父と子と聖霊という存在は三位一体で同じものだという解釈をした。

 これに噛み付いたのがムハンマド(昔はマホメッドといった)だ。三位一体なんてあやふやなものではない、と原点回帰したのがイスラム教なのである。だから、キリスト教からすると、イスラム教を認めるということはキリスト教自体の否定に繋がる。井沢さんに言わせれば、「この溝を埋める方策は論理的にはまったく考えられない」のである。その点、多神教の日本では、仏様と観音様は姿を変えているが同じみたいな曖昧さが許されるのである。

 イスラム教が生まれた時代、世の中は戦乱の世だった。なんとか平和な世の中にできないかと生まれたのがイスラム教だったので、当初は一年のうち戦争をしてはいけない月を決めた。ところが時の権力者が、戦争をするために戦争をしてはいけない月を後ろ倒しにしたりと、自分たちの思惑で前後させるようになった。そこで、再び初心に帰り、人間の都合で決まりを変えることはいかんということにした。これがイスラム教が規律を重んじる理由である。

 それなのに、どうしてイスラム教は戦争することに躊躇しないように見えるのはなぜか。それは神様が攻撃を受けた時には戦って良いと許可しているからなのである。

 日本に生まれ日本に育った僕なんかは、外の世界から見れば不条理なことでも平気で信じているだろう。それがおかしなことだとも考えてもいない。日本人は、なぜ中東は戦争ばかりやっているんだろうと思うが、そこで生まれ育った人たちは僕らとは全然違う行動原理の中で生きているのである。
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