ふた月に一度の割合で、テーマに沿った作品を持ち寄って鑑賞するという会に参加している。昨日もカフェに作品を持ち寄り、ああだこうだとひと通り批評し合った後、最近の美術がいかに若者にとっては魅力がないかという話になった。会に参加している人の中に、専門学校で美術を教えている講師もいるので、今時の子供たちの関心について話が聞けるのだ。
美術の世界は、どんな世界にも先駆けて前衛的な試行錯誤を繰り返して来た。その結果、便器をそのまま展示したり、キャンバスをカッターで切ってみたり、とにかく何でもありということになった。簡単に言ってしまえば、個人の思いを表現しさえすれば、手段を選ばないということである。
そうした風潮は美術教育にも反映し、とにかく個性や感性こそ重要視する。だから、下手な絵もなければ失敗作ということもない。子供たちは自由にのびのびと素直に表現すれば良い、という理念だ。
ところが、好きにできるということ、うまい下手がないということ、こうした自由というのは、実は子供にとっては何の面白味もないのである。サッカーの試合をして点を取っても取らなくても、個性さえ発揮していればOKということになれば、サッカーの面白さは半減する。そんな道に自分の将来を託そうと考える若者はいない。
実は子供こそ、シビアで厳しい世界を求めている。白黒はっきりした世界を望むのは、大人ではなく若者である。オリンピック選手になりたいなら、競争のあまりない人気のないスポーツをやればいいと考えるのは、大人の打算だ。より高い評価を受けたいと思えば、それだけ厳しい道を選ばなければならない、ということを子供はよく知っている。
近頃の子供が美術の世界より、アニメーションの世界に進みたがるというのは、人気と興行成績が大きな比重を占めるアニメーションという世界には、ひとりよがりなど通用しないシビアさがあるからである。そしてそうした世界ほど、世の中から受ける評価は高くなるのだ。
若者とは反対に歳をとってくると、物事には灰色の方が多いこと、頑張る前に挫折がやってくること、他人の評価は水物であり、自分の幸福とは直結していないことを知る。険しい道をわざわざ行かなくても、情熱を燃やすことができる対象は、世の中にはたくさんあることを知る。