九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

報道の自由度ランキング   らくせき・愛知自民を落とそう

2015年12月19日 10時45分05秒 | Weblog
産経新聞のソウル支局長が刑事訴追を受けた事件。
無罪となりました。当然でしょう。

この際、TBSは報道の自由度ランキングを紹介。
上位は、1位のフィンランドなどヨーロッパの国々。
自由の国・アメリカは49位。
60位に韓国。中国は176位。北朝鮮はブービー。

ここでクイズです。日本は何位だと思いますか?



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ハリルジャパン(40) 日本人名監督森安一   文科系

2015年12月18日 04時23分00秒 | スポーツ
 17日にこんなコメントを書いた。

『リーベル監督、真っ青 (文科系)2015-12-17 11:10:51 
 リーベルの監督の顔が、後半は真っ青だった。「危ない!」と感じたのだろう。前半でさえリーベルが押していたのに、30分までで広島から5本のシュートを浴び、前半シュート数は広島の9、リーベル6だった。しかも広島に、極めて危険な、際どいシュートが多かった。リーベル保持率は6割もあったのに。

 後半のリーベルは焦っていて、プレーも粗くなる。27分右FKからの得点だって、キーパー林のミスに近い。混戦競り合いでパンチにすれば何ともなかったものを、キャッチしようとして誤ったものと観た。

 しかし、負けは負け。けども、広島の闘いは健闘などという域を超えていた。保持率は気にしないが、いざという時の押し上げ密集布陣、強い球際のボール奪取からショートカウンターへという戦い方は、イングランドに突如台頭したレスターにそっくりだと感じたのは、僕だけではないだろう。
 広島は、この世界最先端の戦い方に凄い自信を持ったに違いない。』


 さて、その後にこのリーベル戦評などを観たのだが、こんな面白い読み物も少ないと感じられたもので、「予想外の」白熱への驚きが、それら全ての記事からも読み取れたもの。

 まずキーパー林は、「自分のキャッチミスで負けた」とすっかり萎れていた。そうだろう、アルゼンチンと言うよりも南米の雄に勝つチャンスを、自分が壊したと言えるのだから。
 また、アルゼンチン人記者たちがこう述べていたのも、このゲームに限っては外交辞令なんかじゃ全くない。
「全てにおいて、広島が上だった」
「負けたのは最後の鋭さが、ほんのちょっと欠けていただけ」
 ボール保持率とか、全体的攻勢とかには目もくれず、ゴールに直結していくその周辺の危険度、鋭さだけでゲームを観る、南米らしい批評だと読んだものだった。

 上記コメントでも僕はレスターに似たチームだと書いたが、これって森安一監督恐るべしと、こう述べた積もりだ。まちがいなく、世界サッカーの最先端を凄く勉強して、きちんとチームに落とし込んでいたのだろう。でなければ、あんな柔軟な堅守と、強力なボール奪取・カウンターとを、リーベル相手に使い分けられるはずがない。
 広島の青山とか塩谷とかを通じて、ハリルジャパンにとってもこの上ない朗報であろう。ハリル監督自身も、お得意アフリカはマゼンベ戦と、このリーベル戦から、世界に通用する日本サッカーの徹底研究ができるだろうし。


 話は変わるが、ヨーロッパサッカー。いよいよバイエルン・グァルディオラがマンUの監督になりそうだ。多分間違いないだろう。
 これで、イングランドには、モウリーニョ、クロップ、そしてグァルディオラと、3人の名監督が集まることになった。モウリーニョは例えチェルシーを辞めても、イギリスの他チームの監督になるはずだからだ。イギリス人がサッカーに対して歴史的に培ってきた分厚いリスペクトを誰よりも身に沁みて感じている彼である。稀代の名将ファーガソンが「モウリーニョは名監督。辞めさせるべきではない」と熱弁を振るっているが、モウリーニョはオーナーと幾人かの選手に愛想を尽かしているかも知れない。
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随筆紹介  万葉からだ歌(一〇)  「指」折り数えて   文科系

2015年12月17日 11時14分29秒 | 文芸作品
 万葉からだ歌ー(一〇) 「指」折り数えて   N・Rさんの作品です

  
秋の野に咲きたる花を指折りて
 かき数ふれば七種の花
(巻八―一五三七)
  ──咲きたる花を足元から指折り数えたら、尾花、なでしこ、おみなえしと七種もあった。──

 指の古形は”および”「よ」は数えるという意味の数むからきたもの。古代から正確に数をたしかめるために指を折り、ひとつ、ふたつとはっきり声に出してきた。
『源氏物語』の一文でも「このたびは負けたり」と指を折って碁の目を数えている。

 指には、それぞれに自然と生活文化を繋ぎ、命を大切に守るための名前がつけられていた。特に薬指がそれで、薬学史の中でも「薬を服し、紅を口にさすは薬指を用いること」── になっていた。
 この指は一番自己主張が弱いので、薬的やさしさが必要とされた。一本だけ出そうとしても、他の指のようには思い通りに動かない。ピアノを弾いたり、パソコンを使っている人なら、誰もがよく知っている。
 もう一つ、弱いから愛をそえる意味で、婚約、指輪も、この指にさす。誓いごとも、指をからめての姿。薬の呼び名がついたのはいつごろからだろうか。
 これはなんと、万葉びとの後期からで、愛する女の髪の乱れに男が指櫛をそえる。あるいは指をからめて愛をたしかめあっている詩歌は多い。これが薬を服し、紅をさす指となったのは平安時代。
 指を鳴らして骨を折ったとか、骨折り損──は指が発したからだ言葉。

 昔、むかしから、最も指のいやらしい姿は”後ろ指をさす”だった──というのも面白い。
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随筆  生きる難しさ、一つ     文科系

2015年12月16日 09時35分57秒 | Weblog
 「生きる」難しさ一つ

「自慢癖の悩み」という随筆を4年ほど前に書いたことがあり、以降ずっと僕の生活課題であり続けてきた。自分や父母兄弟の学歴や職業などを他人との会話の中などですっと口から出してしまう僕自身のスノッブさ、俗物性を正直に書いた作品だった。ことの性質上、読んで貰った連れ合いからは、こんな感想を貰ったものだ。
「凄いこと書くねー」
 人が自分の欠点としてなかなか筆にはしにくいことだからだろう。俗物そのものの人も、洗練されたスノッブも、こんなことを書こうとはまず思いつかぬはずだし。対する僕はこの癖が出た後はよく悲鳴を上げている自分がいるから、それをも正直に書いてその正体を覗いてみて、この癖からちょっと楽になりたかったのである。
 ただ、この作品を書いた時のこの作業は隔靴掻痒。正体も対策もろくに分からなくって、ただ、自分の恥を曝しただけに終わった。正直は正直なのだが、これでは太宰治の「人間失格」とか、その人生みたいなもんだ。僕は、正直なようでスノッブだと感じて、彼が嫌いなのである。当時の「謙譲」日本と違ってこんな自己宣伝時代の洗練された若者たちなら、太宰のスノッブ隠しなどすぐに見抜くだろうと、よく思うことであった。

 最近この自慢癖の自覚、そこからの開放に関わって、一つ気付いたことがある。俗物的自慢と、中身がある「自慢」・自己主張とを自分の中でごちゃごちゃにしていたと気付いた。すると、こんな発見があった。前者は文句なくなくしたいが、後者はこんなタルイ時代には続行しないわけにはいかんだろう、と。この二つを僕が区別しなかったところに実は、「自慢癖の悩み」が生じていたのではないかとも、今分かったような気がしている。

さて、「空気、読めよ」という言葉が流行っている。場の空気を乱すなよ、突出するなよという程度の意味だろう。で、この言葉、時代に対して使われたらどんな役割になるか。例えば、イラク戦争、太平洋戦争のような時代には「厭戦言動は敵だ」と隣人が隣人を諭すようなもんになろう。太平洋戦争開戦前夜に反戦を唱えた人は「空気が読めない」最たるもの、それどころでは到底済まず、政治犯である。でも今にして思えば、あの空気は社会の上層部によって年月かけて周到に作られたもの。当時の空気を率先して醸成することを通じて「社会的立場」を創るとか、「有名になりたい」人々によって。だから、当時「空気読めよ」と諭した人は、社会的正義など無縁で、人としてまっとうな主体性が欠けた「気持ちよくやろうよ」人生ということになる。これがいわゆるポピュリズム政治の大衆的源泉なのだろう。
 ことが戦争でなくとも、例えば一生懸命やっている文化サークルなどでも同じだ。懸命にやる人ならその活動を表現もし、その「言行一致」的前進を他人と共有、確認しあいたいもの。強い批判や突出も、当然「押し付け」や「自慢」さえ「止めとけ」ということにはならないだろう。これしも、「空気読めよ」とやりあうなら、ちょっとタルイ場というしかない。


 だが以上全てだけで万々歳とも行かぬのが人生。「自慢癖」を読み取る側の正体が、競争時代の「主」であったり、「不本意な今」という人の妬みであったりもするから、このポピュリズム社会の「タルイ問題」は、そう容易いものでもないのである。今回は僕として、そんなことにも気付いた。「人」の生って、やっぱり難しい。
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ハリルジャパン(39)レスターの強さとは  文科系

2015年12月16日 00時04分54秒 | スポーツ
 レスター・チェルシー戦、僕の観点

 プレミアに本年度彗星のように現れて1位になっている弱小チームと、昨年度優勝チームとの、実に興味深い対戦を観た。結果は弱小チームの2対1勝利。
 さて、このゲームを観る僕の観点はこういうものだった。本年度起こっているプレミア激変を探るべく、とても貴重な資料になると。去年優勝の、世界1~2位を争ってきた名監督のチームが、何故これほど下位に沈んでいるのか。これまでは2部以下のリーグ在籍の方が多かった弱小チームが、どうして今首位にいるのか。スペインと並ぶ現在世界2大リーグ・プレミアで起こっているこういう激変の理由をどうしても知りたい。この観点から言えば、このゲームは正に絶好の教材なのである。

 結論は、既に押しも押されもせぬレスターの急成長も、替わって世界の強豪チェルシーの凋落も、その原因が分かったという気がしたのである。世界のサッカーそのものがこの4年ほどに激変してきたその結果として起こった現象のように思う。以下が、このゲームの僕の観点とした世界的流れの一つの理解である。

①レスターの強さは、ドルトムント・ゲーゲンプレスによる一時の世界席巻の延長線上のものである。ウエストハムなど、プレミアの他いくつかの新旋風もブラジルWCでも観られたこれと同傾向なのではないか。
②チェルシー、モウリーニョの凋落は、①の流れを過小評価したことによるものではないか。守備指導の従来世界1名監督がこれだけ失点を喰らっているわけだから。
③以上を合わせれば、こういうことであろう。モウリーニョや、その師匠ファン・ハールに見るような屈強な選手を集めた従来型の失点が少ない堅守速攻路線が、ハイプレス・ショートカウンター得点戦術の進化に対応できなくなっている、と。チェルシーの失点の多さと、必要な時に1得点できるレスターとがその傍証と観たい。レスターは、必要な時の1点を取れることによって1点差勝ち越し、同点が多いチームとして、1位になっているのである。

 レスターの戦い方

 さて、この典型がレスター・チェルシー戦33分における、レスターの先取得点。中盤で奪ったボールを、1人を経由して右外マレズに繋ぐと、相手守備が十分に整っていたにも拘わらず、そのマレズのちょっとした右アーリークロスのようなパスから得点してしまった。岡崎得意の抜け出し得点パターンをバーディーが決めたのであるが、右クロス前のバーディーの位置は相手両センターバックの真ん中、やや後ろ。そこからやや右前方に走り出して、マレズのパスをゴールに流し込んだのである。ここでは、短距離走り出し記録でプレミアナンバーワンというバーディーは確かに大きな武器なのだと、分かる。
 これ以外にもレスターの攻守で目立ったことはこれだけある。
①身方から観て中盤以上での相手珠際に対して、ボール奪取の寄せが非常にきびしい。組織的にも、個人技としても。これがあるから35%と言うボール保持率でも全く見劣りせず、シュート数も9対11となっているのである。
②守から攻への切り替えにおいて、DFラインの押し上げが、時にもの凄く速い。これがオフサイドトラップとなっているから、安心して①が可能になるのだろう。
③以上の、ハイプレス・ショートカウンター攻撃に願ってもない選手が2人存在するのだが、これが大きい。速攻に向いたスピードスター・FWバーディーと、シュートもドリブルもパスも一流であって、敵がボールを奪えないMFマレズである。特に、マレズという24歳のこの選手はもう、チェルシーのアザールに匹敵する名選手に育ち上がったのではないか。タイプは違うが、万能の香川に似ていると感じた。

 岡崎「この調子はずっと続く」

 このゲームが終わった時岡崎がこう談話していた。
「チームはこの調子で、ずっと行くように思う」
 大事な言葉だ。この弱小チームの快進撃は、初め「春の珍事」と言われた。それが「粘ってますね-、実力がついてきました」から最近は、「このまま行けますかね-?」になり、上記岡崎の言葉。
 レスターがこのまま優勝したら、プレミア史上珍しい奇跡と言われるだろう。そこに岡崎が準レギュラーとして加わっていたというのは、日本でも語り草になるだろう。岡崎は、リーグ戦のほぼ全ゲームに出場しているから、レギュラーと同等の存在なのである。
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ハリルジャパン(38) 組織的精緻!サンフレッチェの闘い  文科系

2015年12月14日 13時53分19秒 | スポーツ
 現在日本で進行中の世界クラブ・カップ戦の、サンフレッチェ広島ここまでの2戦を観た。ここまで心を動かされたゲームは近年覚えがないというのが僕の気持ちであり、「何と精緻な戦い方か!有り難う、サンフレッチェ!」とさえ叫んだもの。どこがそうなのかを書く前に、本当に腹が立ったテレビ局への大苦情を先ず書いておく。
 
 どこのどういうプロデューサーがこの放映番組を作ったかは知らないが、これだけのゲームの後の監督談話をば、途中で打ち切ってしまった。その後広告を入れて、さらにまだ場面放映時間も取っていたにも拘わらずである。馬鹿と違うか!と言いたい。これはもう、日本サッカー(その代表チームだ)とサンフレッチェ、森安監督への侮辱とさえ言いうる。あんなことをしたプロデューサーは僕が上役なら、減点・降格にする。日本サッカー協会はあのキー放送局に抗議すべきだ。それが筋というものである。サッカー現場を原則的な意味で喜ばせて、なおかつ数々の良い波及効果が生まれる抗議、措置のはずだ。

 さて、アフリカ代表クラブ・マゼンベ戦である。
 前半の20分くらいまでのマゼンベは、攻めた、攻めた! 得意の基礎体力、凄まじいスピードに物を言わせて、これでもかという勢いだった。身体のスピードばかりではない。パスも速いし、判断も速く、ボールを回す技術もあった。
 対する広島は、この20分をどう戦ったか。ゲーム前から公約していたようにただ一言、「闘いに負けない」。これである。ちなみに、日本チームが外国とやる場合、代表戦でも実はここで負ける。アジアチャンピオンズリーグでも、初めて出る日本チームなどはまず例外なく、ここで躓く。特に、相手からボールを奪う、あるいは、奪われない、そういう1対1局面で勝ちきることが外国勢とやる場合の肝腎のこと。広島をこれを見事にやってみせた。

 前半20分を過ぎ、25分ほどになってくると、広島のこの点が少しずつゲームを優位に変え始めたのである。なによりも、マゼンベよりも選手1人1人の視野がちょっと広いのである。相手の動きを見定め、1対1の闘いになりそうな局面において、広島の方が少しずつ位置取り・出足がよくなって、言わば相手を見切り始めていく。広い視野に裏付けられた精緻な組織技術と言ったところだろう。ワンタッチパスが多用され始めたのが何よりのこの証拠で、そう思ってみていたら44分に1点。右コーナーキックから速いニアへのクロスをフリック・ヘッド。と言っても、ほとんどコースを変えないストレートなファーへのパスになった。これに走り込んだ1人がゴール前でちょこんと合わせた。
 後半に入っても11分、右コーナーキックを中央の高いヘディング得点。33分には3対0である。

 準々決勝相手は、南米王者・アルゼンチンの名門・リーベルプレートである。これだけの相手が、このゲームを全員一塊で観ていたのだから、容易な予測など到底できない。が、これは相手も同じはず。広島の視野の広さ、精緻な組織を十分に確認したはずであって、出だしは極めて慎重な闘いになるはずだ。まー、相手の個人技対、精緻な組織の闘いとまとめられようが、楽しみで仕方ない。広島には視野の広さに裏付けられた戦略の柔軟さを感じるからである。
 もう一方の準決勝は、アジア代表クラブ・中国の広州恒大がFCバルセロナと闘う。ガンバ大阪がアジア準決勝で惜しくも敗れた相手・広州恒大がバルサ相手にどれだけやれるか、これはこれでまた大いに期待している。この金持ちチームには、ブラジル代表、あのパウリーニョがいるのだし。
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随筆紹介 万葉からだ歌(九) 「足」靴はけ我が背    文科系

2015年12月14日 12時59分31秒 | 文芸作品
万葉からだ歌(九)「足」靴はけ我が背   N・Rさんの作品

 朝戸出の君が足結ぬらす露
 はやく起き出で我も裾ぬらさな
(十一・二三五七)
──朝早く帰って行かれるあなたの足を濡らす露よ。私も早く出て裾をぬらしてお送りしよう。君をぬらす同じ露で──

 足も手とおなじように、よく動いてよくしゃべる。「手足をもがれる」「足手まとい」「足がつく」などと。手はからだの上(カミ)、足は下(シモ)。そんな意識からか、後年になると、下の足は、手よりも扱いが悪くなってしまった。「足げにする」「あげ足をとる」「蛇足」「逃げ足が速い」「足軽」等、きりがない。

 この点、万葉時代は、まだ上下の意識が希薄で「足」「脚」の分け書きを上手に使い分けて情緒的な足の方が多い。「日脚が長くなる」「雨脚に追われて」「足りたるを知る」ときれいに詠み込んでいる。
 現代、女性の美しさをたたえる「脚線美」に近い言い方で「白きすんなりのおみ脚」「仏足にぬかずきて」と、まで。

 それでも、欧系の人が大切にしている足とは、少々考え方がちがう。洋画などでは、男女がホテルに入ったとき、最後に女が脱ぐのは靴とストッキング。これが合意のサインになっている。日本では、女が男の前で靴を脱いだからといって、そんな意識は、もうとうない。靴などは、玄関先で、とっくに脱いできている。外は土足、家の中では素足が暮らし向き。

 信濃道は今のはり道刈りばむに
足踏ましむな沓はけ我が背
(十四・三三九九)
──信州の新しい道は、切り株がたくさんある。これに足をとられて怪我などしないでください。あなたは靴を、馬にもわらじをはかせてやってほしい。くれぐれも足元にお気をつけて──。



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「よたよたランナーの手記」(146) フォームについて 文科系

2015年12月13日 13時54分28秒 | スポーツ
 こんな題名のことは、本来専門家が書くものだろう。ただこのことについて僕には、こういう資格があると考えている。
①心臓病手術後医者の禁止を脇に置いて走ってきてとうとう許可を勝ち取ったという経過から、心拍数の少ない、つまり心臓に負担が少ないという意味で合理的な走り方をいつも求めてきた。ちょっとした走り方の改善で、同じスピードでも心拍数が10は減るということなどは、多く体験したところ。いつも心拍計を付けてその数字を確認しながら走っているから分かったことだ。
②手術前後3年のブランク後にラン再開後3年の今年まで故障も少なく、74歳で8年前の記録に近い復帰を遂げているという意味で、無理のない正しいフォームなのだと思う。
③標記のことを学ぶことも含めて、勿論、ランニング本などは色々読んできた。部分筋肉補強運動、積極的な故障リハビリのやり方などもふくめて。
 以下は、老人用のランニングフォームと理解して頂いた方が良いかも知れないが、とにかく・・・・。

 まず、身体の姿勢について

①エリートランナーなどにはまっすぐにした身体、体幹をやや前傾させて走っている人も多いが、これは老人にはお勧めできない。頭までの上半身を脱力してゆったりとまっすぐに立て、胸を軽く張りぎみにして走る。特に身体の中で比重が最も高い頭は立てないと、筋肉の無駄遣いになって損だから、要注意。この姿勢で、②以下のことも初めて可能になる。
 こういう走り方は、着地脚に負担が少なく、②のように下半身全体を使いやすいもの。このフォームだと、体幹筋肉を無駄に使うこともなく、足着地時の衝撃も少なくなることもあってか、同じ10キロ時というスピードでも前傾姿勢よりも心拍数が10ほどは少なくなる。なお、心拍数が少ないとは、疲れにくいフォームだから記録が上がるという意味と同じはずだ。

②その姿勢で、「下半身全体」を使って大きく走る。その大きくという意味はこういうことと理解してきた。
 まず、後ろ脚の蹴りは、尻、腿など脚(下半身)全体で蹴るように。前への振り出しは、腰骨、尻から右ないしは左の下半身全体を振り出すような気持ちで。これができない人は、持っている力の割に記録も上がらないし、膝やアキレス腱周辺、足裏筋膜など故障も多いはずだ。物の本にはこの「下半身全体を使って、ゆったりと大きく走る」ということを、こう書いてある。「大きな筋肉を使って走ると、疲れも故障も少なくなる」と。
 なお、筋肉を鍛えることは、心臓を鍛えることよりも生理学的に遙かに可能性に富んでいることのようだ。つまり、スクワットなどで脚、下半身全体を鍛えて大きくゆったりと走れるようにして、心臓に無理をさせないということになるのだろう。

③腕を肘を柔らかく曲げる以外は、上半身はもうブラブラにして、②に添えて動く感じ。鍛えられない心臓への負担を軽くするためにも、老人にはそれしかない。ただ、左下半身を前に振り出す時を例にして言えば、右腕の付け根からその上の肩胛骨までをごく軽く引くような意識を持つことにはしている。それも意識してそうすると言うよりも、自然にそうなるという感じに近いけれど。

④こういう走り方では、つま先はそんなに使わない。つまり、後ろ足の踵だけを早く離してつま先で蹴るようには走らず、脚を蹴ったときに足裏全体を一度に離すような感じで前へ運ぶ。つま先関連の筋肉はフクラハギを含んだそこから下のものであって、「小さい筋肉」にあたる。つまり、ここを多く使うと老人には痛み、故障が起こりやすい。こういう走り方では、膝、アキレス腱周辺、足裏の筋膜などを痛める人が多くなると言われている。こういう走り方で特に、スピードを上げようという時期に故障が生じるということのようだ。
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随筆紹介 万葉からだ歌(八) 「手」情愛に解れる  文科系

2015年12月12日 12時21分41秒 | 文芸作品
 万葉からだ歌ー(八) 「手」情愛に解れる   N・Rさんの作品

 稲掲けばかかる我が手を今夜もか
殿の若手が取りて嘆かむ
──”かかる”は手のあか切れ。働く私の手は美しくない。それでもやさしい若さまは「可愛いね」と解れさすってくださる──

 万葉歌の情愛は、考えるよりも、まずは感じるが先。だから、見る、聴く五感のなかでも、相手を知り合ういちばんの手だてとしてきた。絆も解れ合いで育つ──が日常生活のなかに生きてきた。手が解れて、強く握りあえば握手。親密度が深まると。

なるほど、多くの人は、しきりとさわりたがってきた。どこの神社にも”おさわり地蔵”とか信仰を得る宝石があって、特有のふれる手の文化に育ててきた。原点は、手当て、手厚い介護で、誰もが祖母、父母の手で解れさすられて癒されてきた。
 手こそが人間の情愛を伝えあうものとして、手相でその人の定めをさぐる。手形、手切れ金、手を結ぶ、救いの手、手ぬかり、相手にしない──など、手は多弁、雄弁。万葉東歌の一首にも、こんな詩がある。
 多摩川にさらす手作りさらさらに
 なにそこの児のここだかなしき
 ──”さらさらに”はやさしく、”ここだかなしき”は、こんなにいとしいの意──
 江藤淳の作品「妻と私」のなかには、病床の妻を見舞いに来た友人のひとりが、いつまでも、いつまでも病人の手をさすって語りかけ、夫を感動させる。

もう一首万葉歌を──
万代に心は解けて我が背子が
 揉みし手見つつ忍びかねつも
 ──仲直りした女が「これからは、もっと大切にしようね」と、手を捻り合う。その痛みさえも、忘れまいとする愛の証しだったにちがいない。
 手荒に手でふりはらうより、招き猫よろしく”まねく”の方が姿が美しい。

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まもるさんを偲んで   文科系

2015年12月09日 09時24分35秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 昨日は、12月8日。太平洋戦争敗戦記念日とも言える日だ。今日の中日新聞1面に大きな写真付きでこんな記事があった。名古屋の4つの9条の会が「平和のともしびウオーク」をやって、それぞれの地から350名が今池西公園へと集結したと。思えばこの行進は、このブログの始まりを主導した「まもる」さんの発案になるもの。今はもう亡くなった彼を偲んでこの写真をしばし眺めていた。
 このブログが始まって10年、その間にいろいろ学んだ末の、僕なりの現世界大局観をまとめてみる。



 既に皆さんご存知の通り、IMF(国際通貨基金)の世界共通通貨枠に、人民元が加えられた。それも、初参加からいきなり日本円や英ポンドよりも高く、ドル、ユーロに次ぐ第3位割合枠で。
 日米が協力し合って、中国通貨枠をずっと阻んできた。中国がこれに腹を立てたのが、AIIB創設に踏み切った一つの理由。すると、日米の予想を嘲笑うようにイギリス、EUはじめ多くの国がAIIBに参加した。中国のこの強硬な動きに、日米が刀折れ矢尽きて歴史的敗北を喫したということである。

 中国への株式投資も含めてその強力な実体経済を金融で支配してやろうとの日米思惑が破れ始めたということになる。これに対するに、アメリカは穀物、食肉、医薬・医療、小売り業の世界独占を狙っていくのだろうが、日本はこれから一体どうするのだろうか? 自動車輸出に全てを懸ける? あるいは、原発輸出? そのために国内の穀物、食肉、医療などがTPPなどによって根本的ダメージを被るとしたら、そんな日本にはどんな将来が待っているというのだろうか? 中長期的に見れば、脳天気なほどの安倍政権と思うばかりだ。
 気付いてみたら、中国人1%を相手に高価な水を売るしか国民が喰っていく道がなかったりして・・・。  

 中国経済が転けたら世界が転けるというような、単に安い供給が世界実体経済を制するというだけの愚かな世界経済体制に、40年弱をかけて落とし込んでしまった。こんな現状で20~30年後の世界が、そもそも一体どう描けるというのだろう。
 国内需要を増やすことが鍵なのだとやっと気付いたのかどうか、アベ政権でさえ賃金を上げよとのかけ声は上げ続けている昨今である。経済の好循環のためにこそ需要中心の経済、内需重視の定常的経済にするしかないはずだが、そんな世が築けたと思う間もなくその内需物品は穀物、食肉、医療、医薬品そしてこれらを売る小売業種までをアメリカに握られていたと、果たしてならないものか? そして、国家予算は軍事費ばかり。それでもって、まともに食えない国、反抗する国をアメリカの後について一緒に殺していく日本。こんなやり方での「定常経済型世界」を作るとでも叫んでいくつもりなのだろうかとさえ、危ぶんでしまう。イラクでは関連死含めて50万人以上がなくなったのだし、アメリカが内乱を仕掛けたシリアでは、同じ関連死を含めればおそらく30万人ほどは亡くなっているはずである。


こういう例全てから見ても、50年前ほどの世界常識から観ると理念としての人権も随分安くなってきたことだし、このまま行けば今の人権常識も30年たてばふっとんでいるかも知れない。今では、人類の民主主義的進歩は一進一退のジグザグだが、やはり進んで行くものだと、誰でも知っているのであるが。
 1%にどんどん搾取される、99%。その運命は、30年後の先進国でさえ、今の世界経済3位の国・日本の無認可老人施設を観ればどんなものになるのか分かる。年金20万円の独り身老人でも、普通の老人施設には入れないのである。これが、戦後日本を廃墟から世界第2位の経済大国にまで仕上げた功労者たちの死に様に相応しいものだろうか。大変な「親不孝社会」になったものである。
 こんな日本がそもそも一体、中国を笑っている暇があるのかと言いたい。


 世界大金融中心の世界経済、この35年ほど続いた供給サイド経済学が支配する世の中が、国連で相談しあって変わらねばならないという、ギリギリの地点にきていると思う。
 ついては最大の世界問題はこれだ。これだけ生産力が発達した豊かな世界に、どうして失業者や不規則労働者がいる? どうして中産階級が没落していく? 人は一言でこう言い、分かったつもりになっている。
「世界的に、不景気だからだ」
「それでも株価は上がるではないか」
 こういう理屈を、完全に嘘だと言いたいのである。生産力はどんどん発達しているのだから、人が最低必要とするだけ何でも物は作れる社会だ。ただし、今の世界は持っている生産力の7割も使っていないのではないか。世が世であればどんな人にも必要なものは手に入る程度の世界には原理的にはなっている。ただ、どんなにある物品が必要な人でも、時の値段で買えない失業者などには手に入らない。これほどに「ケチな経済常識」を当たり前のこととしておいて膨大な失業者が世界にいるって、何という矛盾なのだろう。そう、僕は何よりも主張したい。この社会への根本的批判として。

 物を作り売る側を支配している金融本位世界だから、物を必要とする側が無視されるのである。大量の失業者、不規則労働者が常態のように。これがここでずっと主張してきた供給サイド経済か需要サイド経済かという問題だと、僕は理解してきた。供給サイド経済が、この「リーマン・ショックという100年に一度の恐慌状態」、「日米欧の住宅バブル(破裂)」、遡っては「アジア通貨危機」などなどから、南欧やアフリカの失業者、日米の不安定雇用者を作っているのである。
 需要サイド経済学者ケインズが生きていたら、やはり僕と同じこのことを叫ぶだろう。目を丸くしてこんな風に。
『こんな豊かな社会に、こんなに膨大な失業者、不規則労働者? なぜなんだ?』
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随筆紹介  万葉からだ歌(六) 「口」言挙げぬが美徳    文科系

2015年12月08日 12時37分26秒 | 文芸作品
万葉からだ歌(六) 「口」言挙げぬが美徳   N・Rさんの作品

 玉かざる 磐垣渕の隠りには
伏して死ぬとも汝が名告らじ
──たとえ独りきりで倒れ死んでも、(お慕いするあなたの名は)決して口にはいたしません──
 万葉集の”万葉”は、愛語あふれるよろずの言葉の意。それなのに、大和は言挙げせぬ国。もの言わぬが花──と詠まれた歌がなんとも多い。

 人言を繁み言痛みおのが世に
 いまだ渡らぬ朝川渡る
──うるさい人の口で傷つき、誰もいない早朝の川を渡って逢いに行くしかありませんわ──
 こんな調子で、「口うるさい」「口車」とか「口達者」「口をたたく」などと、もの言わぬ人こそゆかしい、が日常の生活の中にしみこんできた。昔、むかしから。

 流行歌ひとつをみてもそうだ。「黙って」「何も言わずに」の歌詩ばかり。
  さよならと言ったら黙って
 うつむいていたお下げ髪  (白い花の咲くころ)
赤いリンゴに口びるよせて
 黙ってみていた青い空 (リンゴの歌)
なんにも言わずに別れたね
 君と僕、ガーデンブリッチの (上海ブルース)
今は黙して行かん 
 何をまた語るべき (北帰行)
 これでは、男は黙って……というビールのコマーシャルが成功するはずだ。太宰治の『人間失格』にも「私は議論をして勝ったためしがない。いつも相手の言葉の数とすさまじい声で負けて黙ってしまう」の一文が。
 こんな彼に、師の川端康成は「それでいい。だから力強い作品が書けるのだよ。人の口など弱い犬ほどよく吠えると思えば気にならない。口数は少なく、たくさんのことを届ける言葉の方が大切だよ。文章だって短いに限る」と力付けている。夏目漱石の『坊っちゃん』でも、早口でしゃべりすぎて仲間のヤマアラシ先生に「ぼくの目を見よなんにも言うな」とたしなめる一場面がある。

 目、鼻、耳に比べて、こんなに抑えにおさえられる口は、なんともかわいそうな気がしてくるが。
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二巡目調査で、甲状腺癌39名    文科系

2015年12月07日 15時21分57秒 | 国内政治・経済・社会問題
 11月30日、福島健康調査委員会から、去年4月からこの9月末までの第二巡目調査(本格調査)の中間結果報告が、39名と出た。いつもの通り、悪性甲状腺癌確定と、その疑いとを合わせたものだ。これで合計数は、一巡目の先行調査による113名を加えて、152名になる。この39名のうち15名が手術を済ませているのは、前と同じでリンパ節転移、甲状腺外浸潤が多かったからだろう。また、今までの例からも分かる通りに、今回まだ手術していない24名も、哀しいことだがこのままでは済まないだろう。

 この2巡目の本格調査結果中間発表数の多さによって、事故との因果関係はますます深まるばかりということになった。1巡目(先行調査)では見つからなかったこの新たな患者は、新たに発生したものと考えられるからである。つまり、事故以前から因子があったということではないと。また、この2巡目調査が始まったのは去年の4月からで、先行調査に要した日数から判断すれば、まだ対象の半数ほどが調査済みという段階にすぎないとも推定できる。

 僕の孫のハーちゃんがこんなことになったら、この老骨が替わってやりたいと思うことしかできない。本当に、ますます悲しいことになってきた。
 ちなみに、今年のノーベル文学賞受賞者はベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチさん。僕も今彼女の受賞作品「チェルノブイリの祈り」を3分の1ほどまで読んだが、その彼女が授賞式前6日のストックホルム記者会見で、福島のことをこう評している
【チェルノブイリと同様、福島の事故でも、住民らを「政府が欺いた」】(7日中日新聞朝刊3面)。
 チェルノブイリはウクライナにあるが、被害はその北のベラルーシ国民が受けたのである。

 なお、全く別の話だが、今こんな危惧をし始めた。そろそろ中日新聞への弾圧が始まるのではないか。福島と言い、安保法、秘密保護法、TPPと言い最近の旗幟鮮明はかなりのものなのだ。東京新聞に対してもそうだが、これとともに、そんな怖れを抱かせる。
 
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随筆紹介 万葉からだ歌(五)  「耳」聞く、聴く、効く   文科系

2015年12月06日 15時31分57秒 | 文芸作品
万葉からだ歌(五)「耳」聞く、聴く、効く   N・Rさんの作品

我がやどのいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕べかも
 ー春の夜、庭の群れ竹を吹く風の音はわたしにやさしく語りかけてくるよー大伴家持の”春愁三首”のうちの耳で詠んだ秀歌の一つ。

「きく文化」は、たしかに多義多様。ふつうは「聞く」と書き、音楽鑑賞では「聴く」と書き分けている。人に何かをたずねる場合は「訊く」の字。面白い使いかたになると「薬が効く」とか「利き酒」「目利き」「利き腕」など。
 聖徳太子は「豊聡耳皇子」といわれ、十人が一度に話ことをすべて聞き分けた、賢い人という逸話がある。
 耳は、体の部位としては、後ろの方にあって無表情で表には出てこない。でも、口達者なしゃべり屋より聞き屋のほうが多くの智を得る。耳学とはよく言ったものだ。”体じゅうを耳にして”でないと感性は育たない。
「取る」も耳偏で、古代中国の戦争では敵の耳を取っていた。文禄の役には日本軍も朝鮮半島からたくさんの敵の耳を送ってきている。京都の耳塚がそれだと文献に残る。

 こんな怖い話とは別に、耳で書いた名文、名詩は数多い。幸田文の「おとうと」では、弟の頭の氷枕の水音が病状を姉に知らせてくれた場面があった。
 このほか、向田邦子のエッセイ「子どもたちの夜」では、深夜に茶の間から”コト、コト、コト”という音が子ども部屋まで聞こえてくる。それは、母親が、明日学校へ行く子たちのために鉛筆を削っている”愛の音であった”と書いていた。
 こうして生活の音を聞きわけることこそが耳の文化。耳は優れた詩文までも生む大切な器官なのだ。

 うらうらに照れる春日に雲雀上がり
 心悲しも独りし思えは
(万葉集十九・四二九二)
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朝鮮日報より  らくせき 愛知・自民をおとそう

2015年12月06日 09時39分20秒 | Weblog
日本のアジア女性基金の元理事、大沼保昭氏はこのほど、従軍慰安婦問題で最も誤ったことをしたのは日本軍だったが、各国にも協力者が存在したと主張した。


 大沼氏は韓国外交部(省に相当)が組織した訪日記者団の取材に自宅で応じ、「韓国をはじめ各国の現地に慰安婦制度の協力者がいた。日本軍と日本の業者、(韓国など)現地で協力した業者の全てに一次的な責任がある」と述べた。


 大沼氏はまた、「日本軍が強制動員したのは間違いないが、韓国の慰安婦は大半が看護師や家政婦になるとだまされて行ったものだ」との認識を示した。


 その上で、大沼氏は「戦後は(韓国などの)社会が慰安婦被害者に批判的だったため、隠れて暮らすしかなく、名乗り出ることができなかった」と指摘した。


 一方、大沼氏はそうした社会的ムードだけでなく、韓国で慰安婦問題に関する世論が一方向にばかり傾き、韓日両国による慰安婦問題の解決がますます困難になっていると主張した。


 大沼氏は「戦後の韓国社会と韓国メディアも共犯と言える。韓国メディアは非政府組織(NGO)の法外な要求をそのまま受け入れ、法外な要求を受け入れない日本に誤りがあるかのような認識を国民に定着させた」と指摘した。


 その上で、NGOがアジア女性基金による補償を受けようとする被害者を批判し、メディアがNGOの主張を拡散したことで、慰安婦被害者は自由に尊厳を回復する機会を持つことができなかったとした。大沼氏によれば、同基金による補償を受けた被害者は61人だという。


 大沼氏はこのほか、アジア女性基金が日本政府と国民による公的な活動にもかかわらず、韓国では民間の活動だと誤解されている点を残念がった。


大沼氏は「韓国人が持つ慰安婦のイメージは、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)やナヌムの家がつくり出した観念的なもので、慰安婦問題を政治問題化した。こんな話を続けても、韓日の慰安婦問題は絶対に解決されない」と断じた。


 そして、「強制性を日本政府がどの程度認定すべきかは被害を受けたおばあさんたちには意味がない。一日でも早くおばあさんたちが心安らかに暮らせるようにすることが重要だ」と強調した。


 世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授が最近著書「帝国の慰安婦」で慰安婦が自発的な売春婦だったと主張して名誉毀損罪で起訴されたことについて、大沼氏は「韓国国内で慰安婦問題に対する世論があまりに強まったようだ。(起訴は)民主主義国家として行き過ぎている」と懸念を表明した。








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先進国最低まで下がった「表現自由度」  文科系

2015年12月05日 22時10分52秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 国連の「表現の自由調査」がこの12月初旬に予定されていた日本。これを来秋まで延期のお願いをして、通してしまった。このニュースには本当に驚いたものだ。民主党政権時代には世界11位まで上がった「表現、報道の自由度」世界ランキングが、アベ政権になってこの15年版では61位。酷い政治になったものだ。政治の透明度とは、何よりも民主主義の徴表。この低下は、政治がどんどん為政者本位、独裁になっている証拠。
 以下は阿修羅掲示板から取った記事である。


【 報道自由度ランキングが急降下「メディアは権力の“番犬”であることをもっと理解するべき」 週プレNEWS 12月3日(木)10時0分配信

国連が12月に予定していた日本の「表現の自由」に関する調査が、日本政府の要望で急きょキャンセルされた。
政府による報道番組への介入など日本のメディアが危機的状況にある中、今回の調査キャンセルを外国人特派員はどう見ているのか?「週プレ外国人記者クラブ」第11回は、イギリスの「インディペンデント」紙などに寄稿する、デイビッド・マックニール氏に話を聞いた。

***
―「表現の自由」に関する調査の受け入れを日本政府は「スケジュールの調整ができない」という理由で直前にキャンセル。来日するはずだった国連特別報告者のデイビッド・ケイ氏は、これについて自身のツイッターで「失望した」と述べていました。
マックニール 私はケイ氏に直接取材しましたが、彼はこの件について大変に驚き、同時に失望していました。12月1日から8日までの予定で、主に特定秘密保護法の影響やネット上の人権、日本における報道の自由、情報へのアクセスなどの状況に関する調査が行なわれる予定でした。
日本政府は一度、正式に受け入れを表明し、事前に政府関係者や市民グループなどとの協議も行なわれていたのです。それを11月に入って「調査を来年の秋以降に延期したい」と言い出し予定をキャンセルしてしまったのですからケイ氏が驚いたのは当然でしょう。

―こうした政府の対応について、どのように思いますか?
マックニール 私は個人的には驚きませんでした。なぜなら報道の自由、表現の自由に関する日本の現状が国際的な基準に照らして非常に恥ずかしい状況であることを日本の政府関係者はよくわかっているはず。
報道の自由や言論の自由を守るために活動している国際的なNGO「国境なき記者団」が毎年発表している「世界報道自由度ランキング」の2015年版によれば、日本は180ヵ国中61位と、先進国の中では例外的に低い。国連の調査でさらなる状況の悪化が報告されれば、安倍政権にとって大きなマイナスイメージになるだけに調査を来年夏の参院選後にしたかったのでしょう。

―報道の自由ランキングの「61位」という評価は妥当なものなのでしょうか?
マックニール 民主党政権下の2010年には一度、ランキングが総合11位まで上がりましたが、この5年間で50位も下げてしまいました。特に福島第一原子力発電所の事故が発生し、第二次安倍政権が成立してからの低下は著しいものがあります(※12年、13年は53位、14年は59位)。
「国境なき記者団」は日本の報道の自由について、以前からふたつの問題点を指摘しています。ひとつは限られた一部のメディアにしか取材が許されない日本の「記者クラブ」システムの閉鎖性。もうひとつが原発事故以降の、主に原発に関する情報の開示のありかたについてです。

―日本の記者クラブ制度の「閉鎖性」については、マックニールさんも以前から何度も指摘されていましたよね。
マックニール 私は記者クラブ制度そのものが長期政権時代の自民党のために作られたものなのだと思っています。だから、民主党が与党になった時、彼らはこの記者クラブ制度の改革を行なおうとしました。
私はその当時、岡田外務大臣の記者会見を取材したことがありますが、会見には日本の新聞やTVなどの大手メディアだけでなく、フリーランスやインターネットメディアの記者でも自由に出席して質問ができ、何を聞いてもよかった…。日本的な文脈で言えば「革新的」なことでしたし、だからこそ、当時、民主党政権下で日本のランキングが11位まで上昇したのでしょう。

―今回、政府の判断で国連による調査はキャンセル、あるいは「大幅に延期」されてしまったわけですが、日本における報道の自由、言論の自由の状況は、やはり深刻なものだと考えていますか?
マックニール そう思います。NHKは今や日本政府の広報機関のようになってしまいましたし、慰安婦報道を巡る誤報が問題になって以来、これまでメディアとして「権力の監視」という役割を果たしてきた朝日新聞の力は大幅に弱められました。昨年12月の衆院選の際、民放を含むすべての放送局に対して「偏(かたよ)りのない報道」を徹底するようにという通達が出たのも異例のことでした。
また、政府や自民党は新聞社やTV局など「個々のメディア」に直接働きかけ、お気に入りのメディアとそうでないメディア、それぞれに異なる対応をすることで、あからさまにメディアの「選別」やコントロールを行なうようになりました。例えば、我々FCCJ(日本外国特派員協会)の会見には政府や自民党の関係者は出たがらない。日本の記者クラブと違って、厳しい質問が飛んでくる可能性があるので会見に出席するメリットがないと考えているのでしょう。彼らが最も嫌うのが「想定外」の質問をされることですから。

―そうした「報道の自由」の危機に対して大手メディアはあまり強い抵抗を示していないようにも見えます。
マックニール 私を含む外国特派員のほとんどがそのことをとても心配しています。この夏の安保法制を巡る議論では、政府が明らかな「憲法違反」を犯しているという見方が大勢を占めていたにも関わらず、メディアは英語でいう「ウォッチドッグ=番犬」、つまり「権力の監視役」という役割を十分に果たすことができなかった。最近は東京新聞や神奈川新聞などが朝日に変わって、そうしたウォッチドッグの役割を担おうとしていますが…。
今年の夏に起きたことを見る限り、「改憲」を強行しようとする勢力は非常に野心的なプランを持っていて、法の解釈すら簡単に捻(ね)じ曲げてしまう。今のところ、それに対抗する野党の力が十分とは言えないだけに「最後の砦(とりで)」としてのメディアの役割は大きいはずです。

―ところで、イギリスのBBC(英国放送協会)も国民からの受信料によって運営される「公共放送」でNHKとの類似点も多いように思うのですが、BBCでは政府による報道への圧力とか報道の自由をめぐる問題はないのでしょうか?
マックニール 確かにBBCは多くの点でNHKと似ていますし、現実には政府からの圧力も受けているので、決してパーフェクトとは言えませんが、両者の最も大きな違いは「ジャーナリズム」に対する基本的な認識というか、一種の「文化」ではないかと思います。イギリスでは好むと好まざるとにかかわらず、メディアが権力から独立した自由な存在でなければならない、あるいは「権力の監視」という役割を持っているという意識が広く国民全体に共有されていて、たとえそれが政治家にとって不都合な場合でも、そうしたメディアに対する認識は受け入れざるを得ない。
こうした基本的な認識を社会全体でしっかりと守ることが報道の自由を守ることであり、それが民主主義を守るためには欠かせないものだということを日本のメディアや日本人がもっと理解する必要があると思います。

●デイビッド・マックニール
アイルランド出身。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙「エコノミスト」や「インディペンデント」に寄稿している

(取材・文/川喜田 研) 】


 世界の嫌われ者・アメリカ以外は評価しない平和主義放棄と言い、近代国家のシンボル・立憲主義への無理解と言い、慰安婦・南京大虐殺を否定する歴史修正主義などなど。アベ政権はどうやら、外国からどんどん後ろ指を指される国に成り下がっているようだ。このグローバル情報社会において、井の中の蛙主義は正されざるを得ないはずだ。それにしても「国連報道の自由度」において世界61位! 民主党時代は11位だったのに?! まさに井の中の蛙である。それも、近年まれな多数党を得たことによって、本性が出た暴力的なそれである。
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