【 古典はリアル ー万葉からだ歌ー(二) 「肩」もの言いたげに N.Rさん
今年行く 新島守が 麻衣
肩のまよいは 誰か取り見む
(七ー一二六五)
──召された防人は妻から遠くに行き、これからは、肩のほつれを誰がつくろう ──
からだ意識は、時代、性差、年齢によって変化する。今の子どもたちに「どこが一番大切か」と聞くと、「顔、頭、胸」と答えるだろうか。もの言いたげな、表情ゆたかな肩は、あまり見ていないから大切なものに入っていない。
大人は「肩書き」と言うかもしれない。昔の肩で風切る権力の裃なのだろう。生活の重荷がのしかかるのが肩。「肩入れをする」「肩をおとして」「肩すかしをくう」「肩をかす」「肩がこる」など。
だが、この「肩がこる」は江戸時代には「肩がはる」だった。「こる」とは言はなかった。文学の世界で「肩がこる」を初めて使ったのは夏目漱石の作品『門』あたり。樋口一葉は、まだ江戸を引きずって「肩がはる」と書いている。彼女の日記文も「はる」表記。
”文章の神様”といわれた志賀直哉は、漱石の「肩へ来て人なつかしや赤とんぼ」の一句に心ひかれて、作品の中でも、それまでの「はる」を「こる」とした。代表作品『暗夜行路』の名場面は、貞淑な妻が、肩こりが病の従兄の肩をもむことで不貞に走る──となっている。明治以降の緊張型社会のなかで、ますます肩をこらす人が多くなったらしい。
人気シンガーソングライターの中島みゆきの「夜曲」の歌詞でも「肩に降る雨」「肩に冷たい夜の風──」と、やたらに肩を連発している。
今、知人、友人の間で唯一触れていいのが肩。「肩を組む」「たたいて励ます」「肩を並べて」と。これが「頭をたたいて」は大げんか。胸、尻だったら、それこそセクハラになる。
万葉集の”愛は夫の肩先から”とうたう妻の一首もそれ。雪も雨も肩に降り、まずぬれるのは頭や顔ではなく肩なのだ──。 】
今年行く 新島守が 麻衣
肩のまよいは 誰か取り見む
(七ー一二六五)
──召された防人は妻から遠くに行き、これからは、肩のほつれを誰がつくろう ──
からだ意識は、時代、性差、年齢によって変化する。今の子どもたちに「どこが一番大切か」と聞くと、「顔、頭、胸」と答えるだろうか。もの言いたげな、表情ゆたかな肩は、あまり見ていないから大切なものに入っていない。
大人は「肩書き」と言うかもしれない。昔の肩で風切る権力の裃なのだろう。生活の重荷がのしかかるのが肩。「肩入れをする」「肩をおとして」「肩すかしをくう」「肩をかす」「肩がこる」など。
だが、この「肩がこる」は江戸時代には「肩がはる」だった。「こる」とは言はなかった。文学の世界で「肩がこる」を初めて使ったのは夏目漱石の作品『門』あたり。樋口一葉は、まだ江戸を引きずって「肩がはる」と書いている。彼女の日記文も「はる」表記。
”文章の神様”といわれた志賀直哉は、漱石の「肩へ来て人なつかしや赤とんぼ」の一句に心ひかれて、作品の中でも、それまでの「はる」を「こる」とした。代表作品『暗夜行路』の名場面は、貞淑な妻が、肩こりが病の従兄の肩をもむことで不貞に走る──となっている。明治以降の緊張型社会のなかで、ますます肩をこらす人が多くなったらしい。
人気シンガーソングライターの中島みゆきの「夜曲」の歌詞でも「肩に降る雨」「肩に冷たい夜の風──」と、やたらに肩を連発している。
今、知人、友人の間で唯一触れていいのが肩。「肩を組む」「たたいて励ます」「肩を並べて」と。これが「頭をたたいて」は大げんか。胸、尻だったら、それこそセクハラになる。
万葉集の”愛は夫の肩先から”とうたう妻の一首もそれ。雪も雨も肩に降り、まずぬれるのは頭や顔ではなく肩なのだ──。 】
肩(カタ)の語源は、身体の上部(上方)にあるからとか、堅い部分だからと定かでないようですが、
手足以外にはいちばん力がありそうな所。
だからか、あまり「肩入れ」したくない場所のようで、諺も「肩あれば着られる」。
俳句も、「念々ころり椋鳥さむき撫肩して 赤尾兜子」とか、
「我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮 富田木歩」と、
うらぶれて意気消沈の肩に力はない。
わずかに、「はたはたはわぎもが肩を越えゆけり」と最愛の妻の肩を詠った山口誓子の句がみられる位。
これに答えてその妻の橋本多佳子が詠んだと思われる句は、「肩かけやどこまでも野にまぎれずに」。
やはり、女のほうが強いようです。
僕も「もうろく応答」を編集後記にこう書いたもの。よく似た内容のような気がする。
『今号の「古典はリアル」の「肩で風切る」、この面白い表現にあれこれと夢想した。
ここ百年の発達心理学で、十歳前後の発達の研究が著しく進んだ。その頃起きる質的変化が言語発達に起因するその姿の研究である。目に見え、指で触れる「物」を対象とした言語世界から、形容詞、抽象名詞などの言語世界への移行の。この移行とともに思考、善悪など人間らしい内面が生まれてくる。大人の文章、文学も同じことで、指で触れないような世界のことこそ、難しい。激しい喜怒哀楽などが長年にわたって心に積み重なった自覚もしにくい内面が、文学らしい文学の温床、発生地だからだろう。ところが、こうした心を心自身として描いて読ませるのは至難だ。そこで人は、物や行為を描いて内面を端的に表してきた。そういう上手い成句などを、歴史的にいっぱい遺してきた。「肩で風切る」。人によっては、これだけで何百字分もの心の旅路を思い巡らすことができよう』