ここでは、通州事件を取り上げる。保守系さんや保守系論客は、日本が全面的な日中戦争を戦わざるをえなかった、その要因の一つとして必ず挙げる通州事件のことである。
通州は、北京郊外の東約12kmにあった通県の中心都市である。当時ここに日本の傀儡政権が置かれていたことは、「その8」で触れたとおりである。その通州で保安隊が日本人を襲い、約230名を殺害したという事件が起こった(実数は今もっても不明である。何故かは後に記す)。盧溝橋事件の3週間あとの7月29日のことである。
保守系論客が日中戦争を語るとき必ず取り上げる事件なので、くどいほど丁寧に記すことにした。
では、当時の通州はどういう状況であったのか。日本の傀儡政権「冀東防共自治政府」のもと、華北随一の阿片基地と化していたのだ。関東軍の熱河作戦による熱河地域の占領後、阿片栽培の拠点(ビラまで撒いて関東軍は阿片栽培を奨励した)となったが、熱河地方の阿片の収集、輸送、販売にあたったのは、関東軍の委嘱を受けた阪田誠盛であった。彼はあまりにも私服を肥やすので、関東軍から切られ、その後は中国全土の阿片取引がすべて里見甫に任されるようになった話は、以前の私の投稿『佐野真一著 「阿片王―満州の夜と霧」を呼んで』に詳しく紹介してある。
その阿片は通州と上海に運ばれたが、通州から華北全土へばらまかれていったのだ。つまり通州は、「中国毒化政策」の一大拠点であったのだ。それゆえ、阿片のおこぼれにありつこうとする食い詰めた大陸浪人や朝鮮人が集ってきていたのだ。保守系論客の一部は、「通州は治安のいい所」(竹下義朗)と主張しているが、とんでもない。阿片の拠点で、阿片窟が点在するところが治安のいいはずはない。それゆえ、虐殺された日本人の氏名もきちんとは掌握できない、日本人かどうかも分らない死体もあるという状況であったのだ。
では、通州事件はどのように起こったのかを見ていく。1937年7月27日、通州門外の兵営に駐屯していた中国軍第29軍に対し、「貴部隊は停戦協定線上に駐屯している」として、「武装解除のうえ北京市への退去」を日本軍が迫った。しかし、中国軍は動かない。それで、日本軍は27日午前4時攻撃を開始し、飛行部隊も動員し爆撃を加えた。その爆撃の時、冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所を中国軍と誤認して爆撃し、数名の死者を出したのだ。この攻撃自体が戦争行為であることは明らかである。
怒った保安部隊は、29日に通州市内の日本軍特務機関の襲撃を始めとして、市内のいたる所で日本人を襲撃し、約230名の日本人と朝鮮人を殺害したという事件であった。
この保安部隊は日本の傀儡政府である自治政府の警察・軍隊であり、組織当初から日本軍が養成・訓練にあたっていた、言うなれば日本軍の飼い犬である。その保安部隊の反乱という性格のものである。つまり、飼い犬に手を噛まれたのである。中国軍の仕業ではないのだ。
支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』から、犠牲者数を挙げておく。「日本人一0四名と朝鮮人一0八名であり」、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なれしものなり」(みすず書房「現代資料12」P573)と回想している。香月清司中将が竹田宮の質問に備え、事前に作成した記録である。これで、何故死者数が不明瞭であったのかが分るであろう。
通州事件が全面的日中戦争へ日本が踏み切らざるをえなかった要因と言えるのか。まったく逆である。それは、時系列に事柄を並べていけば、一目瞭然である。
1931年、満州事変 → 1933年、タンクー協定 → 1935年11月、冀東自治政権(日本の傀儡政権)樹立 → 同年12月、冀察政務委員会(半傀儡政権)成立 → 1937年7月7日、盧溝橋事件 → 同年7月25日、第29軍長官宋哲元に対し最後通告 → 7月26日、香月司令官、27日の正午を期して総攻撃命令(特務機関の要請により=居留民保護を理由に、1日延期) → 7月27日朝4時、通州駐屯日本軍、中国軍を攻撃 → 7月28日、29軍主力の居る南苑を総攻撃 → 7月29日、通州事件
(注;7月25日以降の記載は、当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の「回想録」による)
日本軍の一点集中攻撃を受けたこの南苑では、約8千の中国軍(第29軍の主力部隊)は約5千の戦死者をだすという壊滅的打撃を受けた。27日の通州での中国軍への攻撃は、この翌28日の南苑総攻撃に備えたものであったのだ。香月中将の「回想録」によると、南苑から逃げる中国軍を全滅させるべく、永定河にも日本軍を配置していたが、連絡不徹底で逃がしたことを悔やんでいた。
この時系列を見ていくと、通州事件があったから、日中戦争が始まったのでないことは、明快である。その前に、日本軍の総攻撃によって日中戦争へ突入していたのだ。これほど明らかな事柄を逆に解釈できる保守系さんの頭はどうなっているのであろうか。保守系さんは歴史事件を歴史の流れから切り離して見てはいけないとよくコメントしているが、そのとおりである。この保守系さんの言葉は、保守系さん自身と保守系論客全員に捧げる必要があるのだ。
こうして見てくると通州事件の全貌が浮かびあがってくる。満州に続いて華北も日本に切り取られつつある、中国人の多くが、その状況に憤ほりを抱いていたことであろう。そのなかでの盧溝橋事件。柳条湖事件・張作霖爆殺事件が関東軍の謀略であったことを知っていた中国人は、また日本軍の謀略だと必然的に受け止めたことであろう(参謀本部ですら、そういう疑念が強かったことは、「その4」で触れている)。しかも通州を拠点に日本軍が阿片をばら撒いているのだ。これで憤りを感じない中国人が居ったら、逆に不思議である。
いくら日本軍に育成された通州の保安隊といえども、そののなかには、心密かに日本軍を憎んでいる者がいてもおかしくはない。その保安隊が日本軍に爆撃されて死傷者を出したのだ。しかも、前日には日本軍の突然の総攻撃で、第29軍主力が壊滅しているのだ。それで、一気に保安隊員の怒りが爆発する。こうして通州事件がおこったのだ。怒りが激しいだけに、その爆発が残虐行為に結びついていったのだ。
日本軍の特務機関を襲い皆殺しにしたことは、既に戦争が始まっている状況のなかで当然、起こるべくして起こったことと言えよう。通州在住の日本人の多くが阿片関係者だったとしても、民間人を襲い虐殺したことについては、人道上の問題は残る。それよりも何よりも、前日に中国軍に対する総攻撃を開始しながら、居留民保護の手を打たなかった北支駐屯軍の責任はきわめて大きいのだ。
通州は、北京郊外の東約12kmにあった通県の中心都市である。当時ここに日本の傀儡政権が置かれていたことは、「その8」で触れたとおりである。その通州で保安隊が日本人を襲い、約230名を殺害したという事件が起こった(実数は今もっても不明である。何故かは後に記す)。盧溝橋事件の3週間あとの7月29日のことである。
保守系論客が日中戦争を語るとき必ず取り上げる事件なので、くどいほど丁寧に記すことにした。
では、当時の通州はどういう状況であったのか。日本の傀儡政権「冀東防共自治政府」のもと、華北随一の阿片基地と化していたのだ。関東軍の熱河作戦による熱河地域の占領後、阿片栽培の拠点(ビラまで撒いて関東軍は阿片栽培を奨励した)となったが、熱河地方の阿片の収集、輸送、販売にあたったのは、関東軍の委嘱を受けた阪田誠盛であった。彼はあまりにも私服を肥やすので、関東軍から切られ、その後は中国全土の阿片取引がすべて里見甫に任されるようになった話は、以前の私の投稿『佐野真一著 「阿片王―満州の夜と霧」を呼んで』に詳しく紹介してある。
その阿片は通州と上海に運ばれたが、通州から華北全土へばらまかれていったのだ。つまり通州は、「中国毒化政策」の一大拠点であったのだ。それゆえ、阿片のおこぼれにありつこうとする食い詰めた大陸浪人や朝鮮人が集ってきていたのだ。保守系論客の一部は、「通州は治安のいい所」(竹下義朗)と主張しているが、とんでもない。阿片の拠点で、阿片窟が点在するところが治安のいいはずはない。それゆえ、虐殺された日本人の氏名もきちんとは掌握できない、日本人かどうかも分らない死体もあるという状況であったのだ。
では、通州事件はどのように起こったのかを見ていく。1937年7月27日、通州門外の兵営に駐屯していた中国軍第29軍に対し、「貴部隊は停戦協定線上に駐屯している」として、「武装解除のうえ北京市への退去」を日本軍が迫った。しかし、中国軍は動かない。それで、日本軍は27日午前4時攻撃を開始し、飛行部隊も動員し爆撃を加えた。その爆撃の時、冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所を中国軍と誤認して爆撃し、数名の死者を出したのだ。この攻撃自体が戦争行為であることは明らかである。
怒った保安部隊は、29日に通州市内の日本軍特務機関の襲撃を始めとして、市内のいたる所で日本人を襲撃し、約230名の日本人と朝鮮人を殺害したという事件であった。
この保安部隊は日本の傀儡政府である自治政府の警察・軍隊であり、組織当初から日本軍が養成・訓練にあたっていた、言うなれば日本軍の飼い犬である。その保安部隊の反乱という性格のものである。つまり、飼い犬に手を噛まれたのである。中国軍の仕業ではないのだ。
支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』から、犠牲者数を挙げておく。「日本人一0四名と朝鮮人一0八名であり」、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なれしものなり」(みすず書房「現代資料12」P573)と回想している。香月清司中将が竹田宮の質問に備え、事前に作成した記録である。これで、何故死者数が不明瞭であったのかが分るであろう。
通州事件が全面的日中戦争へ日本が踏み切らざるをえなかった要因と言えるのか。まったく逆である。それは、時系列に事柄を並べていけば、一目瞭然である。
1931年、満州事変 → 1933年、タンクー協定 → 1935年11月、冀東自治政権(日本の傀儡政権)樹立 → 同年12月、冀察政務委員会(半傀儡政権)成立 → 1937年7月7日、盧溝橋事件 → 同年7月25日、第29軍長官宋哲元に対し最後通告 → 7月26日、香月司令官、27日の正午を期して総攻撃命令(特務機関の要請により=居留民保護を理由に、1日延期) → 7月27日朝4時、通州駐屯日本軍、中国軍を攻撃 → 7月28日、29軍主力の居る南苑を総攻撃 → 7月29日、通州事件
(注;7月25日以降の記載は、当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の「回想録」による)
日本軍の一点集中攻撃を受けたこの南苑では、約8千の中国軍(第29軍の主力部隊)は約5千の戦死者をだすという壊滅的打撃を受けた。27日の通州での中国軍への攻撃は、この翌28日の南苑総攻撃に備えたものであったのだ。香月中将の「回想録」によると、南苑から逃げる中国軍を全滅させるべく、永定河にも日本軍を配置していたが、連絡不徹底で逃がしたことを悔やんでいた。
この時系列を見ていくと、通州事件があったから、日中戦争が始まったのでないことは、明快である。その前に、日本軍の総攻撃によって日中戦争へ突入していたのだ。これほど明らかな事柄を逆に解釈できる保守系さんの頭はどうなっているのであろうか。保守系さんは歴史事件を歴史の流れから切り離して見てはいけないとよくコメントしているが、そのとおりである。この保守系さんの言葉は、保守系さん自身と保守系論客全員に捧げる必要があるのだ。
こうして見てくると通州事件の全貌が浮かびあがってくる。満州に続いて華北も日本に切り取られつつある、中国人の多くが、その状況に憤ほりを抱いていたことであろう。そのなかでの盧溝橋事件。柳条湖事件・張作霖爆殺事件が関東軍の謀略であったことを知っていた中国人は、また日本軍の謀略だと必然的に受け止めたことであろう(参謀本部ですら、そういう疑念が強かったことは、「その4」で触れている)。しかも通州を拠点に日本軍が阿片をばら撒いているのだ。これで憤りを感じない中国人が居ったら、逆に不思議である。
いくら日本軍に育成された通州の保安隊といえども、そののなかには、心密かに日本軍を憎んでいる者がいてもおかしくはない。その保安隊が日本軍に爆撃されて死傷者を出したのだ。しかも、前日には日本軍の突然の総攻撃で、第29軍主力が壊滅しているのだ。それで、一気に保安隊員の怒りが爆発する。こうして通州事件がおこったのだ。怒りが激しいだけに、その爆発が残虐行為に結びついていったのだ。
日本軍の特務機関を襲い皆殺しにしたことは、既に戦争が始まっている状況のなかで当然、起こるべくして起こったことと言えよう。通州在住の日本人の多くが阿片関係者だったとしても、民間人を襲い虐殺したことについては、人道上の問題は残る。それよりも何よりも、前日に中国軍に対する総攻撃を開始しながら、居留民保護の手を打たなかった北支駐屯軍の責任はきわめて大きいのだ。
官僚のエリートからなるグループをつくって
対米戦争を予測させた。
2年までは戦線が保てるが、4年後に崩壊。
といった見事な予測であった。
しかし、東條さんはじめ、日本のリーダーは、これを却下。
戦争に突入していった。
それはなぜなのか?
「政治」であると、東條さんは言ったとか。
いくら東条と言っても、戦争の推移について、様々な状況を想定し、考えたはずです。
そのときの東条らの心のなか、また戦局の推移をどう想定していたのかについて、それを調べる資料は現在では多々出版されています。私も知りたいので、現在の連続投稿を終えたあと、調べて楽石さんへ報告します。ただし、遅くなります。
「東条英機の遺言」の保守系さん引用した部分から、私が感じたことを述べます。負けるような戦争指導をしたことについてのみ、天皇と国民に詫びています。そこには、日本国民を多数死なせることになったこと、まわりの諸民族を苦しめることになったことを詫びるという姿勢はありません。そこに一つのヒントがあると思います。